第11回 新聞に連載を持たせてもらったのだが

第11回 新聞に連載を持たせてもらったのだが

2022.4.20 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

 

■注文は「高校生が読んでわかる文章」

 

毎日新聞社の記者からメールをいただきました。

 

読んでみると、連載をお願いしたいというのです。ついては、わたしの都合に合わせるので、お目にかかりたいということでした。

 

最初はびっくりしました。以前にもアフリカの調査記を頼まれて、今は休刊になっている『科学朝日』や『アニマ』という雑誌に連載を持ったことがありました。ですから原稿を書くこと自体に問題はありません。題材はいくらでも湧いて出て来ます。しかし、脳塞栓症になってからのわたしの頭は以前とは違います。霧がかかったままです。はたして連載を頼んできた記者は、わたしの後遺症のことを知っているのだろうか。

 

毎日新聞社の記者はTさんという男性でした。好青年です。社会部の記者で、わたしが人類学、なかでも化石や遺跡に残らないヒトの行動や社会の話をするのを聴いて目を付けてくれていたのです。病気をしてからのわたしの講義も聞いていました。そのため、当然ですが、わたしの後遺症についても承知の上でした。

 

――先生の講義で発達障害の「わたし」という概念や「仲間はずれ」の話を聞きました。

 

――4月から1年間、「新しい霊長類学」の視点で週一回、現在のいじめや発達障害、先生自身のフィールド・ワークを題材に連載をしていただけないでしょうか。35回程度の予定です。

 

――いかがでしょうか。

 

願ってもないことでした。こちらからお願いしたいくらいです。ただ、わたしは後遺症を抱えています。頭に霧がかかった状態で連載を引き受けたりして良いのでしょうか。

 

連載は毎週のことです。毎週、毎週、新しい原稿を新聞社に届けなければならないのです。その上、今度の原稿は原稿料をいただいて書く「商品」です。それなりのクオリティが求められます。病気をしてからも、原稿料はもらわずに訓練として同人誌に書かせていただいたことはあるのですが、商品としての原稿はひさしぶりです。わたしにできるだろうか。

 

――承知しました。

 

――やっていただけますか。

 

――何の問題もありません。

 

わたしは嘘をつきました。問題は大ありなのです。不安が募ります。しかし、Tさんの前では不安はおくびにも出さず、快活、かつ鷹揚(おうよう)にふるまって見せました。わたしにとって、それからは毎週が戦いでした。

 

打ち合わせのあとの雑談で、Tさんはジャズがお好きなボートマンということが分かりました。わたしもスローなジャズが好きです。「最低、高校生が読んでわかる文章を書いて下さいますか」。Tさんはそうおっしゃいました。

 

■高次脳機能障害者も視野に入れると

 

わたしの脳塞栓症の後遺症と、以前にこの連載でも書いた漢字の学習障害――わたしは左右利きなので編(へん)と旁(つくり)をよく間違えます――を考慮して、原稿執筆のわたしなりの作戦を立てました。

 

まず原稿は1週間前に出してしまう。こうしておけば担当して下さる記者も時間に余裕があるので、書き間違いがあっても確実に指摘して下さいます。

 

次に学術用語は極力避けました。わたしは、普段、論文や論文に類する報告書を書く機会が多いので、何の気なしに学術用語を使ってしまいます。しかし学術用語では、一般の人には通じないことがあります。もちろん、どうしても学術用語でないと表せないことも、あるにはあるのですが――「ヒト」とか「DNA」とかがそうでしょうか――、学術用語を使いそうになったら、まず国語事典や類語辞典を見て、何とか社会一般で通じる文章に直そうと試みました。

 

それから、Tさんの要求は「高校生が読んでわかる文章」だったのですが、高校の教科書などを見ると、書いてある内容は、結構、難しいのです。それなら、わたし流の「社会一般で通じる文章」でも十分かもしれません。しかし、わざわざ「高校生が読んでわかる文章」をと要求されたのです。どうしたものかと考えて、ここは(こっそりと)もう一ひねりして「高次脳機能障害者が読んでわかる文章」にしてみてはどうだろうと考えました。具体的には失語症者や聴覚失認者です。今ふうの呼び方では聴覚情報処理障害者のことです。

 

この作戦はTさんや毎日新聞社の方には相談していません。わかしがひとりで(こっそりと)やったのです。学術用語を使わないで、それなりの内容の文章を一般の人向けに書く。しかも、同時に「高次脳機能障害者が読んでわかる文章」を試みる。

 

ですが、「高次脳機能障害者が読んでわかる文章」の定型などあるわけがありません。わたしは、今だに、それを研究しているのです。まさに知的冒険のつもりでした。

 

では、失語症者や聴覚失認者に適した文章とはどんなものでしょう。

 

失語症者の言語リハビリでは、「それに しても 失語症者や 聴覚失認者に 適した 文章とは どんな もので しょう」というふうに文節(か文節よりも細かい単位)に分けて書くのが良いと言われています。

 

これを「分かち書き」と言います。分かち書きをしたところに「ね」を入れて読んで、自然に聞こえたら分かち書きは完成だとされています。「それにね してもね 失語症者やね 聴覚失認者にね 適したね 文章とはね ……」というふうにです。別に「分かち書き」でなくても、要は何か印(しるし)を入れて、文章を理解しやすいものにすれば良いのです。例えば「/」を入れるとすると「それに/しても/失語症者や/聴覚失認者に/適した/文章とは/……」といった具合になります。

 

■表意文字を使って書く

 

しかし、新聞に書く文章は言語リハビリとは違います。そのままでは「商品」になりません。わたしはどう考えたかというと、まず、なるべく表意文字の漢字を使って書くことにしました。ひらがな/カタカナは表音文字です。表音文字だけだと、失語症者や聴覚失認者は意味が取りにくいのです。そこで迷ったら、ためらわずに漢字を使うようにしたのですが、問題は二つありました。第一に、わたし自身が漢字を書くのも読むのも苦手なこと、第二に、むやみに漢字を使うと、今度は漢文みたいになって、かえって読めなくなってしまいそうです。

 

第一の問題は、コンピュータに自分の使い慣れた日本語入力システムを入れておけば解決します。現在、わたしは2種類の日本語入力システムを使っています。それにウェブ上でも、さまざまな辞書が利用可能です。

 

第二の問題は発想を少し変えてみました。あえてひらがなで書く言葉を入れるのです。この連載でも、わたしは「私」と書かずに「わたし」と書いています。普段から「わたし」「わたし」と書いていると、いつの間にか、人は「言葉の塊(かたまり)」として認識するようになるのです。それはちょうど「girl」を、「g」「i]「r」「l」ではなくて、「girl」という塊(かたまり)として認識するのと同じです。だから、わたしは必ず「わたし」と書くのです。

 

どの言葉を漢字にするか、どの言葉をひらがなやカタカナにするかというのは、実は難しく決め手がありません。マニュアルもありません。試行錯誤の連続です。

 

そして連載したのが「霊長類学の窓から」(1年後に「ヒトは人のはじまり:霊長類学の窓から」と改題)です。担当された記者(実際の担当はTさんではありませんでした)は変な文章だと感じたこともあったのかもしれません。それでも一般読者には思った以上に好評で、連載は1年を超えて4年間続きました。おかげで頭の霧も晴れ始めました。

 

それにしても「頭の霧が晴れる」のはなぜでしょう。連載をするための適度な緊張と、原稿を出したあとの適度な弛緩が、程よいリズムを作り出します。そのことが、わたしには「効いた」のではないでしょうか。のべつ幕なしに緊張していたのでは精神的に保ちません。反対に弛緩が長すぎると霧が濃くかかってしまいます。一週間ごとの緩急が、わたしに考える術(すべ)を思い出させてくれたのだと解釈しています。

 

■順調に回復? 現実は一進一退

 

上記の連載は、2011年には毎日新聞社から『ヒトは人のはじまり:霊長類学の窓から』という同じタイトルで書籍にしていただきました。書籍になることは特別な意味があります。自分自身のやったことにクサビを打ち込んだような気がするのです。

 

ここまで読むと、わたしの高次脳機能障害やまひは順調に回復していったと誤解されたかもしれません。しかし、現実は一進一退でした。思うようには行きませんでした。

 

その典型がひどく体力がなくなっていたことです。やはり、自由自在に体を動かすことができずにいました。拘縮(こうしゅく)のせいなのか右肩や右肘は可動域が狭(せば)まっています。右足は、気を付けていないと膝が上がりません。そのために屈伸はできるのですが開脚ができません。股の関節が硬くなっているらしく、右足が以前のようにはまっすぐに伸びないのです。足首も回せなくなっています。

 

走ることも試みました。しかし、うまく走れませんでした。自由に動く左側で引っ張るような走り方になってしまいます。もちろんスピードは出ませんし、距離も伸びません。

 

「両足が地面を離れた瞬間があれば<走っている>と言っていいです」「ゆっくりと走ってみることはできませんか?」と背中を押してくれたリハビリ病院の医師もいたのですが、結局、満足に走れないままでした。

 

さいわい歩くのに不自由は感じませんでした。それでも、最初は2~3キロメートル歩くのが大変でした。

 

どこで聞いてきたのか、娘が「はだしの小道」に行ってみたいと言い出しました。当事住んでいた三田(さんだ)市には武庫(むこ)川という大きな川が流れています。「はだしの小道」は武庫川脇の遊歩道に作られた、足裏をマッサージするための屋外設備です。このような施設は、場所によっては「足つぼ遊歩道」とか「足つぼロード」という呼び方もあるようです。

 

丸い小石や細長い小石、中にはわざと尖ったところを上にしてコンクリートで固めた小道で、石を踏んで歩くと、自然にツボを刺激するようになっています。病気になる前、裸足になって歩いてみたことがあるのですが、わたしには「気持ち良い」というよりも、ただ痛いだけでした。実際にそこを歩いている人を見かけたこともあるのですが、そんな人はたまにいらっしゃるだけです。ひょっとすると娘は、わたしのリハビリテーションに役立つと思ったのかもしれません。

 

わたしは娘を連れて「はだしの小道」をめざして歩きます。行くのは太い幹線道路の側の歩道です。勾配らしい勾配はありません。そこを2~3キロメートル歩くだけです。今なら、どうということはありません。ところが、それができなかったのです。愕然としました。

 

小さな娘はもっと先に進みたそうです。幼くても元気いっぱいです。しかし、息が上がったわたしは、大きな建物のわきで息を整えさせてもらいました。また歩き始めます。息が上がります。もう一度息を整えます。そして三度目の休憩で、「これ以上進むと、お父さんは戻れなくなると思う。今度、また連れてきてあげるから、今日は帰ろう」と声を絞り出しました。ギブ・アップです。

 

娘は何とも言えない、複雑な表情を浮かべました。しかし、それ以上「はだしの小道」に行きたいとは言いませんでした。本当にわたしが弱っていると分かったのでしょう。「帰ろう」という言葉に素直に従ってくれました。

 

■よみがえるンドキの森の記憶

 

来た道をゆっくりと引き返しました。その時、アフリカの森を歩いていた頃の記憶がよみがえりました。コンゴ共和国の無人の森――今だかつてサピエンスが立ち入ったことのない原生林――の湿地を何日もかかって歩いた記憶。あの時の肩に掛かった荷の重みと擦れて肉が見えた肩口や内股。湿地の木を這うハチのように刺すアリ。体が簡単に沈み込む深い泥沼。初めて見るヒトを興味深そうに見つめるカバの見開いた目。もろもろの記憶の断片が、これでもかこれでもかと押し寄せてきたのです。

 

決して自慢したい記憶ではありません。調査のために、しかたなくやっていたのです。

 

調査が終わった後も充実感はありませんでした。と言うより、ただ休みたかった。日本に着いたその日から、抜け殻のようになって1か月を寝て過ごしました。激しい調査行で身も心も弱り切っていたのです。

 

そのうち、抜け殻になって寝て過ごす日びは終わりました。フィールド・ノートを開いて調査を振り返ります。まとめるべき要点をリストにして書き留める日がよみがえるのです。

 

わたしは武庫川沿いの遊歩道を使って歩く練習をすることにしました。幸い遊歩道にはジョギングをする人のために、正確な距離が表示してあります。わたしはその表示を使って、できるだけ長く歩き続けることにしました。

 

最初は2キロを歩くのがやっとでしたが、4キロ、5キロと距離を伸ばしていきました。やがて安定して、ゆっくりとですが10キロほどを歩き通せるようになりました。けれど油断は大敵です。油断すれば、たちまち元に戻ってしまうからです。

 

コンゴ共和国のンドキの森(現在のヌアバレ=ンドキ国立公園)のマルミミゾウのけもの道でへたっているわたし

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第11回おわり)

 

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