第4回 意図なく増幅する感情

第4回 意図なく増幅する感情

2021.9.17 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

 

 やっとのことで転院が決まりました。

 

 最初に入院した病院の脳神経外科は、わたしのような脳血管疾患の患者だけでなく、交通事故で頭を打った人や認知症の人も一緒の部屋に入院していました。脳塞栓症の急性期にお世話になり、いのちを助けていただいた病院ですが、わたしには、あまりにごちゃごちゃしていて精神的に耐えられなくなっていました。こう言っては申し訳ないのですが、正直なところ、はやく逃げ出したい。

 

 わたしの頭には、まだ晴れない霧がかかっています。外から見ると、きっと表情の乏しい顔をしていたに違いありません。しゃべる言葉もよちよちなのでしょう。でも、わたし自身のイメージでは、かなり意識はしっかりしてきました。急性期は過ぎたようです。もう転院しても大丈夫です。

 

 入院中親しくなった患者の男性が、退院するときに玄関まで見送ってくれました。その男性は小脳にダメージを負ったと言っていました。またいつもマスクで顔を覆っていた若い女性看護師は、マスクを取って素顔であいさつをしてくれました。病院関係者は世話をするルーティンを外れるからなのか、転院する患者にはいつもより親切な気がしました。

 

■車は高速道路を走り次の病院へ

 

 妻がタクシーを手配してくれました。玄関を出たら車に乗るだけです。約一か月の入院になりました。

 

 タクシーは無言で走り出しました。病院のそばの市街地を少し走ってから、車は高速道路に乗ります。次の病院までは小一時間で着くはずです。

 

 新しく入院する病院は丹波篠山市(当時は篠山市)にある医科大学が経営するリハビリテーション専門の病院です。現在の診療はリハビリテーションに限らないようですが、当時はリハビリテーションが主だったように思います。あたりには田んぼも広がりますが、病院のそばには観光客用の商店街があります。観光客はさまざまな野菜を買い求め、抹茶やコーヒーを楽しみます。しかし、わたしがそのことを知るのは、ずっと先のことです。

 

 

篠山のまちかど_青山通り1.JPG

リハビリ病院近くの商店街の様子(当時)

 

 

リハビリに対する過剰な期待

 

 ここからは、この病院のことを医科大学の「リハビリ病院」と書きます。

 

 わたしや妻は、その「リハビリ病院」で施されるであろうリハビリテーション技術に、大きな期待を抱いていました。子ども時代に体育の教師に教わるのと同じように、身体の動かし方のコツやタイミングの取り方によって、できなかったことがたちまちにできるようになる、そんなイメージを抱いていました。

 

 もちろん本人の努力は必要です。そのことは分かっています。回復までに、相当の時間がかかることも知っています。しかし、最終的に発病前にできていたことは、リハビリによってできるに違いない。そう信じていました――ほんの少しだけ、そう都合よくはいかないかもしれないと疑う気持ちもありましたが。

 

 そして、作業療法、理学療法、言語療法のそれぞれが始まりました。

 

リハビリでわたしが感じた違和感

 

 作業療法や理学療法のリハビリは、患者が体育館のようなところに集まって行います。作業療法では、まひした右手を使って細かな作業をする訓練をしました。また理学療法では、まず平行棒を支えに使って歩く訓練をしました。言語療法は、療法士が出すヒントをもとに文房具や動物の名称を答える練習から始めたと思います。

 

 ここでわたしは、とんでもないことをやらかしてしまいます。

 

 その女性は両足が自由に動かせないようでした。若い女性患者が平行棒を伝って歩く練習をしていたのです。その様子を見てわたしは、声を上げて笑ったのです。自分で自分にびっくりしてしまいました。自分の中の理性が、何という態度を取るんだと責めています。しかし、笑いが収まる気配はありません。

 

 断じて申し上げておきます。一生懸命リハビリをしている人の姿を見て、声を上げて笑うなど、とんでもない行為です。それが常識にもとる行為であることは、当時も十分に分かっていたのです。しかし、笑ってしまった。その女性の姿に笑うべき要素などどこにもないのにです。

 

 わたしが笑うそばで、理学療養士の皆さんはもくもくと作業を続けています。迷惑ですらないようです。そして男性の理学療養士がわたしに「三谷さん」と声をかけ、次にやる訓練を指示しました。それはまったく自然な流れでした。わたし一人が(そして、ひょっとしたら「笑われた」女性も)、うろたえていただけかもしれません。

 

 しばらくして「笑いの暴発」は収まりました。

 

 作業療法では右手の親指と人差し指を自由に動かせるように訓練していました。訓練をして「思った通りに」とはいきませんでしたが、それでも、前日よりは今日が、今日よりは明日がというように、少しずつ成果は上がっていました。ですが、作業療法士の女性には物足りなく写ったのでしょう。訓練が始まって4週間後に「利き腕の交換をしましょう」と伝えられました。

 

 「利き腕の交換」というのは、利き腕側の半身がまひしたので、それまでサポートする側だった腕で、食事をしたり、字を書いたりを代行させることをいいます。わたしの場合は右手で字を書いたり箸を持ったりしていたので、これからはそれを左手で行うことになります。

 

 考えてみれば当たり前の対応です。その作業療法士の言葉も冷静に受け止めることができました。それがごく普通の対応だという思いがあったのです。

 

 しかし、悲しいと感じる感情もどこかにあったのかもしれません。あるいは、これまで経験のないことに対する不安があったでしょうか。わたしにもそれは奇妙な態度だと感じるのですが、ついに声を上げて泣き出してしまいました。

 

 これには側にいた作業療法士全員が驚いたようです。わたしに利き手交換を伝えてくれた作業療法士は、あわてて「作業療法士としてよりも友人として、三谷さんのために考える」「気に入らなかったかもしれないが、確実に右手の機能は上がっている」といったことをしゃべり続けます。何とかわたしを慰めようとしているのです。その場にいた多くの人は、気まずさに沈黙してしまいました。

 

 その日の日記には、「それにしても、また若い『友人』ができたものだ――○○さん(その作業療法士のこと)は、心根のやさしい、よい娘さんだと思う」と書いてありました。ただ、キーボードは左手で操作し、正確に入力して、この文章を書いたのでした。

 

 以降、いく人もの人が、私のこのトラブルに声をかけてくれます。利き腕の交換はしかたがないこととして、「さし当たっては」あきらめるようにと声をかけるのです。この時は何日もかけて情報が徐々に伝わっていくさまを実感しました。

 

 「病院」という特殊な世界でだけ通じる感覚と、わたしへの親切がないまぜになっています。若い言語聴覚士の男性は「自分が利き腕を変えないといけないなら、たぶん、どうしていいかわからない」と言いました。その方の正直な気持ちでしょう。

 

 今になって考えてみても、わたしが人の姿を見て笑ったり、突然、泣いたりしたことは、自分の自然な感情の流れを辿ってみると、どこか違和感があるのです。この違和感はどこから来るのでしょうか。

 

感情をめぐるフィールド・ワーク

 

 この感情が普通ではないと実感できたのは、今から何年か前、アマチュア・レスリングの女子選手が試合に負け、それを家で見ていたわたしがテレビの前で泣き出したときでした。

 

 常識的に考えれば「アマチュア・レスリングの女子選手が試合に負けた」というそれだけのことです。その選手が知り合いなら、残念だったねと声をかけるでしょう。でも、決して泣くようなことではありません。ましてや、わたしの娘でも何でもないのです。それなのに泣いてしまった。これは一体何事だろう。そういう疑問が胸に引っかかりました。

 

 感情を引き起こすきっかけはさまざまです。そしてきっかけは、レイヤーのように互いに重複しているようなのです。

 

 試合に負けたら、それは「悲しい」ことに違いない(誰にとって?)。理性的に判断すれば、わたしは一介の観客にすぎないのだから、感情移入する必要はないのです。そのことはよく分かっています。しかし、いったんタガが外れてしまうと、一気に感情が吹き出てしまいました。これを医療の現場では「感情失禁」と呼ぶそうです――はじめてこの言葉を知ったときは、思わず「尿失禁」や「便失禁」を連想して不愉快な気分になりました。「感情失禁」も意図せずに感情が漏れ出てしまうことですが、漏れ出た感情に引っ張られて、本当にそんな気分にもなるようです。

 

 その一方で、脳塞栓症になって、笑うこと、怒ること、泣くこと、つまり感情の区分けがよく分からなくなってしまったようなのです。感度が鈍ったというのが正しいのでしょうか。

 

 現在は素直な感情で笑えるようになりました。脳の中で、感情と理性、そしてわたしの行動が結びついて表れるようになったのです。それが普通の行動です。しかし、今でも怒ることや泣くことに、実際のところ、感度が鈍っているのだと感じることがあります。これは「死」が身近に迫っていて、「死」を恐ろしいことだとは感じなくなっていたことと関係があるのでしょうか。

 

 いずれにせよ、同時に複数の感情が存在することを感じるのです。ですが、どの感情が増幅するかは、わたしにも分かりません。他の高次脳機能障害者も同じかもしれません。そして、どれかの感情が異常に増幅して「暴発」してしまうのです。

 

 「笑うこと、怒ること、泣くこと」の中で、他人を見て不自然に「笑うこと」は、幸いにも今はありません。どなたかがリハビリをするたびにけらけら笑うのでは社会生活が送りにくくなります。

 

 また「怒ること」は、血縁者以外に向けることはありません。あるとすれば、よほどの場合です。息子や娘に向けては、度を超した怒り方をしたことが何度かあります――ごめんなさい。謝ります。妻に向けて怒ったこともあります――ごめんなさい。こちらも謝ります。でも、しょっちゅう怒っているのではありませんよ。

 

 そして「泣くこと」は、これは実は日常的にあるのです。たいていはテレビを見たり、本を読んだりしていてです。

 

 先ほど、脳塞栓症になって感情がよく分からなくなった、感度が鈍ったと書きましたが、発症から年数が経った今、振り返ってみると、最近は泣くには泣くだけの理由があって泣いていると感じることが多くなりました。発症後まもなくのように、レスリングの選手が負けたからといって泣くことはなくなりました。どちらかというと、高齢者になって「涙腺が緩んだ」といった類いのことだと思います。

 

 リハビリ病院での理学療養士の皆さんの対応は理にかなったものでした。一方、作業療法士の皆さんは、わたしに対して過剰に反応していたのではないかと思います。

 

 というのも、実は、わたしは右利きだったのではなく、生まれつき左も使える左右利きなのです。信じられないかもしれませんが、右利きでも、左利きでもない、左右利きの人がたまにいるのです。ですから本当は、利き腕交換にさほどのショックはなかったのです(わたしの左右利きの話は、また機会をみて書きます)。

 
 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第4回おわり)

 

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