かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2019.10.31 update.
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は哲学。
2017年4月に医学書院より刊行した『中動態の世界』で、第16回小林秀雄賞受賞。最新刊は『スピノザ「エチカ」 100分 de 名著』(NHK出版)。
斎藤 環(さいとう・たまき)
1961年岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。
オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。
医学書院より『オープンダイアローグとは何か』のほか、最新刊として『開かれた対話と未来』(監訳)が出たばかり。
企画:NHKエデュケーショナル・秋満吉彦/
NHK文化センター青山教室
國分功一郎さんの示した「中動態」という概念と、斎藤環さんが近年紹介につとめる「オープンダイアローグ」――まったく出自の違うこの二つを同じ皿に載せると、何かが起こるようです。
そこで本サイトでは前掲特集の続きとして、今年8月に都内で行われたトークイベントからおふたりの発言を再構成し、4回に分けてご紹介します。今日はその3回目。
《中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援》目次
第3回 討議――國分功一郎×斎藤環
《中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援》
第3回 討議――國分功一郎×斎藤環
1 「否定性」をめぐって
否定神学?
國分 斎藤さんのお話で、ずっとポイントになっていたのは「免責されることで引責できる」というロジックですね。つまり外在化するとは免責するということで、それによって逆説的にも引責できるようになる。これは当事者研究でもよく言われていますね。問題行動についてむしろ免責することによって、その人が最終的に責任感を持つことができるというように。先ほどの「欲望は持たなくていい、ということで欲望できる」というのもそれに似ています。
斎藤さんはこのメカニズムを――ちょっと哲学っぽい用語でいうと――否定神学的なものとして捉えていらっしゃるということでいいですか。否定神学というのはやや難解であるわけですが……。
斎藤 むしろそこを國分さんにお聞きしたいと思っています。ここで否定神学というのは、簡単に言うと、中心部が欠損している構造として心を考えて、その欠損ゆえに心が成り立っているとするのが否定神学的モデルとなります。この「欠損を中心とした構造」をいろいろな場面で想定するわけです。ラカンで言えば、主体が欠如していると考える。つまり主体は、子どもが大人になるときに去勢される。それまで充実していたものが去勢されて、欠如を抱えることによって言語を獲得し(象徴界に参入して)、そこで子どもが人間になると考えるのがラカンのロジックですね。
このロジックの限界をジャック・デリダとか東浩紀さんが指摘したわけですが、私はそんなに簡単に否定していいのかなとずっと疑問があるんです。たとえば「欲望は他者の欲望である」みたいな命題は、今でも通用する部分が結構あると思うんですよね。欲望は自分のなかにオリジンがあると考えるよりは、他者によって起こると考えたほうがすっきりといろんなことを説明できるじゃないか。これは今でも否定できないと思います。
國分 少し話が専門的になっていってますが、非常に重要なところです。どこから説明したらいいか難しいんですが、一言で言うと、否定神学のモデルは、理論的な解像度があまり高くないと思っているんです。どういうことかというと、それで説明できることはたくさんあるけれども、事象を眺める解像度を上げていくと、そこには違う事態が見出されるだろうということです。僕はドゥルーズ哲学を基礎にして考えていますが、それによれば、解像度を上げると反復が見えてくると考えるんですね。
斎藤 なるほど。
國分 ドゥルーズは事象をざっくりとみることをモル的、細かく見ることを分子的と言います。先ほど斎藤さんが言及された「欲望は他者の欲望」という考え方で説明できることはたしかにたくさんあります。けれども、欲望を分子的に見ていったら、もっと複雑な事態があるわけですよね。お母さんだったり、幼いころの出来事だったり、その人の身体のあり方だったり。そうした分子的な細かい事象が折り重なり、反復されることで一つのモル的な欲望が現れる。
ただ、これは細かすぎて理論になっていないとも言えます。だからこれを抽象化して理論にすると、欲望は欠如が出発点になっていて、絶えず対象aを探し求めているのだというラカン的な理論が得られるのではないか。
斎藤さんは、人間は言葉を使う存在であるがゆえに否定神学的なモデルからそう簡単には逃れられないとおっしゃったわけですが……
斎藤 はい。
國分 これは人間の知性の限界かもしれない。人間の知性が捉えられる分子的事象には限界があります。否定神学とか構造主義的な構造ぐらいのモデルが人間の知性としては事態を理解するうえではちょうどよいのかもしれない。ただ、それはリアリティそのものではないだろうというのが僕の立場です。
ニュートン力学で説明できることもある
斎藤 それはまったく同感できるところですが、私は解像度というよりも、たとえば否定神学というのはニュートン力学とかユークリッド幾何学みたいなものだと思っています。たしかに「ある現実は説明できるけれども、それ以上の細分化されたものは説明できない」といった限界をもっています。ただ、今でもニュートン力学が有効であるように、そういった有効性まで否定するのはちょっと盥(たらい)ごと流しちゃうような感じにならないかな、ということですね。
國分 なるほど。ニュートン力学の比喩は正確だと思います。そして、スピノザ哲学は器質的因果論(organic subject)の側に分類されることになる。
斎藤 脳の論理ですね、私の考えでは。
國分 スピノザ哲学がよく肯定の哲学と呼ばれることの原因かもしれません。たぶんドゥルーズ的な立場だと、こうした分類は認めないかもしれません。
斎藤 はい。
國分 分子的なさまざまな刺激によって、人間の心のなかで欲望が形成されるという説明になるでしょう。ただ、こういうふうに説明したほうがわかることもたくさんありますよね。
斎藤 OSの違いとおっしゃったんで、まさに決定的に違うということがイメージしやすくなるかなと思ったんです。心的因果論(psychological subject)のほうは完全に受動・能動の世界なんですよ。こちらの器質的因果論のほうは主体がそもそもあいまいで、すべての出来事が中動態的に起こってくるみたいな領域として、イメージできるかなという話なんですけれどもね。
國分 ここ200年ぐらいでしょうか、哲学は否定性の問題に捕らわれ続けてきた。それに対し、僕が勉強しているドゥルーズは「否定ではなくて肯定だ」という考えを打ち出して、それが大変な人気になったし、大きく哲学を進めたわけです。その際に論拠となったのはスピノザでした。もう300年以上前の人ですけど。
しかし、そんな簡単に否定性を捨てきれるのかというのはドゥルーズ哲学に対してずっと唱えられてきている疑問ですし、僕もその疑問を捨て去れません。
斎藤 懸念があるのは、否定を全部捨て去ってしまうと、ニューサイエンス的になっちゃったりとか、オカルト的になってしまいやすいのではないかということですね。これは誤読かもしれませんけれど、西田哲学のロジックってユングの集合的無意識に似て見えるときがあって、ああいう方向に親和性が高いという弱点があるんじゃないかなと感じています。
國分 それは明らかにあると思います。僕はこの6月にドゥルーズについての大きな国際シンポジウム(第7回アジア・ドゥルーズ=ガタリ研究会議)を行ったんですけれども、そういったドゥルーズ主義者たちの集まりを見ていると少しそういう印象を受けるところがあります。
斎藤 すごく取り込みやすいところがあって。
國分 そうなんですよ。ドゥルーズが若いときに出した『ニーチェと哲学』という本があります。まさに肯定の哲学を説いた書物でしたが、これに対して、ドゥルーズの先生のジャン・ヴァールという人が書評を書いた。そこで、ドゥルーズの言うことはよくわかるが、本当に否定性を排することはできるのだろうかというような疑問を呈したんですね。僕はその疑問を共有します。
ドゥルーズ自身も実は晩年になって、人間として生きているということの恥ずかしさとか、社会に対して妥協していることの恥ずかしさというものが哲学を駆動する力の一つであるとか、否定性を認めるような発言をするようになりました。
斎藤 最後は自殺ですからね。これは、肯定の哲学者とはちょっと思えない。
國分 肯定の哲学を打ち出した必然性はよくわかる。けれども否定性をそう簡単には斥けられないだろうというのは改めて提示されるべき疑問であろうと思います。
2 中動態の弱点
中動態の哲学はありうるか
斎藤 これは『中動態の世界』に書かれていたことですけど、デリダが、哲学というのは中動態を抑圧して生まれたんだという発言をしている。自然科学のロジックも突きつめれば、直線的因果論をどう記述するかということです。「Aが起こったからBが起こりました」ということを信じなかったら、科学は成り立たない。これはやっぱり能動と受動がないと成り立たないです。能動と受動ということで徹底的に追求するところに、哲学とか自然科学の記述があるとすれば、中動態の哲学的批判なんてできるんだろうか――。そういう疑問が非常にあるんですよね。まさにそれは「中動態を能動的に語るしかないのか」みたいなことです。そういう限界についてどうお考えですか。
國分 結局こうやって中動態について語れるのは、能動・受動の世界を知ってるからだと思うんです。
斎藤 そうですよね。
國分 能動・受動を知っているからこそ、それと違うものとして中動態を眺めることができる。だから、純粋な中動態の哲学が可能かというとよくわかりません。
斎藤 それこそ、スピノザとか西田哲学なんていうのは、それに近い?
國分 西田哲学ともつながるものとして、中動態の観点からスピノザ哲学を位置づけると、どうしてもニューサイエンス的、あるいはオカルト的なものを招き寄せてしまうという危険はあると思います。
斎藤 そうなんですよ。
國分 ほとんど宗教思想みたいになってしまう可能性もある。すると哲学が凜々しい学問として立ちあがるためには能動・受動が必要だったのかもしれません。
無責任の体系になってしまう?
斎藤 これは前回のシンポジウム(2018年9月23日「オープンダイアローグと中動態の世界」ODNJP主催@東大駒場⇒詳細は『精神看護』2019年1月号)でも申し上げたことですけど、免責の論理にはやばいところがある。一方では治療的になるけれど、一方では無責任の体系になってしまうという恐れがあって。そこをよくするには、能動・受動的なものとカップリングしてないといけないのかなと。
國分 それはたしかにそうです。たまに、中動態というのは無責任のことですかと言われることもあります。でも責任感というのはむしろ自分の心のなかに自然と現れ出てこなければならないものですね。人に謝罪するというときも、単に「ごめんなさい」と言ったって謝ったことにならない。むしろ心の中に「自分が悪かったたんだ」という気持ちが中動態的に現れることこそが、謝罪の本質です。だからむしろ責任は中動態的なものであるというのが最近考えていることです。ただこれは本を出した後に気づいたことです。
斎藤 そこで要請されてるのは、やっぱり共存になりますかね。能動・受動のロジックと中動態のロジックを多元論的に使い分けるとか、そんな感じになるんでしょうかね。
國分 たとえば、我々の知る司法というのは基本的には復讐のロジックに基づいています。けれども、他方で修復的司法という試みがあります。仮に修復的司法が望ましく、また可能なものであるとしても、それが司法を覆い尽くすということは考えられない。
斎藤 そうでしょうね。
國分 それは付け加わるものとしてしかありえないでしょう。多元的に使い分けるというか、中動態のロジックが能動・受動の世界に異なるものとして付け加えられるということをとりあえずは考えています。
能動・受動の論理も必要
斎藤 おそらく医学も、そういう形式のなかにあるのかなと思います。やはり医学はどうしても科学志向が強いので、能動・受動のロジックは絶対捨てられない。だけどそのなかにある種のアジール的な場所をつくっていって、「そこは中動態で運営していきましょう」みたいな話になるのかなと漠然とイメージしているんです。
ただ、中動態的なカルチャーがセラピー全体を覆い尽くすということは考えづらいということがありますね。有効なんですけれども、その有効性を実証するのはさっきのようにエビデンスをださないと(前回末尾のコラム参照)。ああいうエビデンスを出すという行為自体が能動・受動の姿勢なので。
國分 そうですよね。エビデンスを出さないとやっぱり……
斎藤 受け入れてもらえない。
國分 受け入れてもらないし、ニセ科学みたいなものと結びつけられたり、なんてこともあるわけですよね。
斎藤 結びつけやすい。本当に日本だけなんですよね、精神科医とかアカデミアの人がオープンダイアローグに関心を持ってくれてるのは。海外の研修に行くとヨガや代替医療の人が非常に多いらしく、ニューエイジ的な方向に引き寄せられやすいというところもあるんですよね。専門性の否定ですからそれでいいんですけど、いったんは専門性のほうに取り込まれてくれないと、なんの制度的担保が得られないと普及も難しくなってしまいますので。
オープンダイアローグは「手法」でもあるけれど、「システム」でもあるわけです。要するに医療供給システムに組み込まれないと効果が発揮できないので、そこを説得するにはやっぱり自然科学の体(てい)を装っていかないと難しいという限界がある。
3 「強者の論理」を批判する
マッチョな「ニセ科学批判」
國分 ところで、ニセ科学批判って非常にマッチョですよね。
斎藤 マッチョですね……
國分 ニセ科学を批判することはとても大切なんですけれども、「俺たちは正しいことをしているんだ」という言葉の下に、マッチョな思想が異常に力を持っているという現状に僕は警戒しています。どこか怖いのです。それはなぜかというと、彼らが言っていることは「正しい」から。ニセ科学の問題はいまかなり重要であって、「ニセ科学批判をどう批判していくか」という課題があると思うんです。
斎藤 そうですね。まったく同感です。
國分 先ほど斎藤さんのおっしゃった「強者の思想」というのと、つながる問題かなと思っていて。
斎藤 私はかつて毎日新聞で、ホメオパシー擁護的なことを書いたらものすごく叩かれましてね。私はホメオパシーは全然信じてないですけど、大事なことはホメオパシーで救われる人がいるという事実なんですよ。これは当然で、医学のなかにはEBM(Evidence-Based Medicine)――統計的にこの治療のほうが成果がありましたと証明された治療をする――があって、これはもちろん正しい。医学者は全員これを受け入れなければならないというぐらい強力なロジックです。
ただ一方で、EBMを提唱した人たちがもう一つのロジックを言っていて、これはNBM(Narrative Based Medicine)です。ナラティブというのは物語ですね。EBMは万人に適用できる、誰にでも再現できる治療ですけれど、ナラティブというのは、その人に一回限りしか成立しないものです。
ベルトコンベヤーに乗っけられて、薬を投与されて、「はい、治りました」というだけでは治りきらない人が絶対出てくる。そういう人に大事なことは、「私にしかこれは効かなかった」という物語なんですよね。その物語を与えてくれるのが、たとえばホメオパシーをはじめとする代替医療なんですよ。「私はこのホメオパシーで救われました」というストーリー自体がその人を救ってくれるわけですよね。そういう要請がある以上、代替医療は決して排除できないし、根絶もできません。もちろん命に関わる治療への適用や法外な料金を取るインチキ治療は論外ですけど、ホメオパシーくらいは容認して、流通経路などを制度的に囲い込む方がいいと考えています。
だからニセ科学批判で全部を押し流しちゃうと、個別的な治癒の物語が消されちゃうんです。なので、これは非常にやばいと私は思っています。実は、精神医療の現場では、ホメオパシー的な手法を使っている人は結構いるんです。なぜかというと、精神医療の現場では、プラシーボ(ニセ薬)で治るのがいちばんいいからです。プラシーボでも実は副作用は少し出るんですけど、身体に残留していないから悪さはしない。「薬はプラシーボがいちばん」って言ってるのは精神医学だけなんですけど、私はこれは事実だと思います。
國分 ホメオパシーって、フランスでは普通に薬局で売ってますよ。
斎藤 イギリスでも、王室で取り入れてますからね。ホメオパシーは、毒を薄めると薬になる、という発想ですね。何万分の一なんていう、物質として意味ないぐらい希釈したものを飲む。だからプラシーボのある種の発展形としていい面もあると思ってるんです。
たしかに、これを本当に命にかかわるような例に使うのはまずい。私が叩かれたのも未熟児の治療に助産師がホメオパシー的な治療をしていた例だったからなんですが、もちろんこういうのはダメです。でも命にかかわらない病気で、治る人がいるのが事実なんですから、そういう事実はそれとして尊重してほしいと思うんです。それこそ受動・能動のロジックの科学主義者は、「それはいかん」と、「エビデンスないじゃないか」と言って切り捨てようとするでしょうが。
病んだ人に届かない思想
國分 僕は斎藤さんがおっしゃった「哲学が強者の論理になってきてるんじゃないか」という話に非常に興味があります。それでニセ科学批判の話も思いついたんですが、斎藤さんが実際に念頭に置かれているのはカンタン・メイヤスーらの「思弁的実在論」のことでした。
うまくできるかわかりませんが、少しだけ解説させてください。18世紀のカントの哲学というのは現代に至る哲学そのものを方向づけた決定的に重要な哲学なんですが、その核心にあるのは、「人間はモノそのものを知ることはできない、リアリティそのものにアクセスはできない、我々の知性には限界があるんだ、それを人間は知るべきなんだ」という考えです。いわば哲学はカント以来、人間に、「謙虚であれ」と説教してきている。20世紀後半になってもそれは変わりませんでした。その時期、アクセスできない対象として特に注目されたのは他者です。
でも、メイヤスーという人はこう考えた。哲学は、人間はモノそのものにはアクセスできないとし、人間がモノを認識するのは、人間に固有の認識の枠組みを通してのことだと力説してきている。しかし、科学を見てみろ。放射性原子核の崩壊速度に依拠した年代測定法によって、たとえば化石の年齢を絶対的な仕方で測定できる。それはこの化石というリアリティそのものにアクセスしているということではないのか。哲学はどこかで誤った方向に「謙虚であれ」を進めてきてしまっているのではないか。科学的・数学的な言語や方法を使えば、人間の知性はリアリティそのものにアクセスできるし、実際、科学者はそうしているのではないか。メイヤスーという人はこういう問題提起をしたわけです。
僕は彼の著作『有限性の後に』(人文書院)を読みながら、同時代人として彼の問題意識に強く共感するというか、理解できるところがありました。彼は僕より7歳年上なだけです。彼はフランス人ですけれども、哲学を勉強しながら同じ雰囲気を経験し、同じいらだちを感じていたのではないかと思ったのです。
僕が学生だった90年代は、「他者を尊重しなければならない」「他者の心は最終的にはわからない」「リアリティそのものには到達できない」という思想が非常に流行しました。「表象することの限界」といったこともよく語られた。現実の社会でそれに対応して存在していたのは、多文化主義です。いかなる文化も宗教も肯定されねばならないという思想ですが、これはこの後、批判されていきます。僕も大学生のころからそう思っていましたけれども、多文化主義だと、「女性差別するのが私たちの文化ですから」と言われたら何も言えなくなってしまう。僕は非常に強いいらだちを感じていました。けれども、思想では他者やリアリティへの到達不可能性、社会では多文化主義が猛威を振るっていたわけです。
メイヤスーの説く思弁的実在論は、それへの反動として考えると、ある意味では横柄に思えるかもしれません。「人間の知性はリアリティそのものに到達できる」と堂々と主張しているわけですから。「強者の論理」と言われうる側面はあるかもしれない。ただ、彼の思想そのものは実にスリリングなものであること、そして実際には、カント哲学そのものは批判していなくて、カント哲学を通俗化したような、彼の呼ぶところの「強い相関主義」こそが最大の批判対象であることは付け加えておきたいです。「強い相関主義」は、今日の斎藤さんとの対談の文脈で言えば、実のところ非常にマッチョなのです。「慎ましくあれ!」とか「我々はリアリティにはアクセスできないんだ!」とか、非常に慎ましくない言い方でこれを説いている感じの思想ですね(笑)。
思えば、現代のニセ科学批判も、90年代の多文化主義的な思想への反動として捉えられるかもしれません。多様性を「科学」の「正しい」言葉で抑え込むような態度ですね。科学を持ってくれば、一つの絶対的な価値基準に依拠できるわけですから。そして、個別的な知の物語は無価値なものと見なされてしまう。「病んでる人に届かない」思想、「強者の論理」が、一つの反動として、現代に現れつつあることは事実と思います。
斎藤 ありがとうございます。
國分 「強者の論理」が出てきてるというのは僕もなんとなく感じています。斎藤さんによれば、それらは「治療に使えない」ということですね。
斎藤 私は、「他者には触れることができない」とか、「他者とはコミュニケーションできない」と言うことの価値はあると思っているんです。そこが他者の尊重につながるところだと私は思っていて、「簡単にアクセスできる」と言い切っちゃうと、他者の尊厳とか、非対称性みたいなものが消え去ってしまう。そういう理屈がないとやっぱり対話が成り立たないと思います。だから安直に「アクセス可能」みたいに言われてしまうのには抵抗があることが一点。
そもそも「直接のアクセス」っていうのは究極のコミュニケーションで、パソコン二台を直接接続するイメージですが、コンピュータは接続すると一台になります。個別の自我がないから当然ですね。自他境界をつくるのが「直接のアクセスの不可能性」でしょう。だから私は、人間同士は対話できるがコミュニケーションはできない、そしてそれこそが言語の機能である、と考える程度にはまだラカン派です。この「隔てながら接続する」という言語の機能は、「リアル」への直接のアクセスの不可能性を中核とした否定神学エンジンで駆動されている。この視点からみると、メイヤスーの議論はAI的な——否定や主体を媒介としない——知性を想定しているようにしか見えないんですね。
それから数学の、まぁ何というか身も蓋もない称揚、それには違和感がありまして。哲学というのは価値観をつくり出す学問と思っているんですけど、科学というのは徹底して価値中立性である。逆に言うと、科学と価値判断を強引に結びつけると、だいたいニセ科学になっちゃうんですよ。水からの伝言みたいに。価値観を科学化しようとすると、だいたいそういう隘路に陥ってしまう。
それに、彼の言う「数学」はどのぐらいちゃんと根拠があるものかということもだいぶ懐疑的で、ラカンの幾何学よりも実体がない気がします。彼の言う数学が比喩以上のものを想定しているのなら、それこそソーカル的な検証がなされるべきでしょう。なんかそういう検証手続き抜きで、とりあえず言い切っちゃってる感じがすごくあるんですよね。
(第3回了)
失われた「態」を求めて―《する》と《される》の外側へ
自傷患者は言った。「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」依存症当事者はため息をついた。「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」―当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか?それ以前に、私たちの思考を条件づけている「文法」の問題なのか? 若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。
【オープンダイアローグ、これが決定版!】
「対話が目的」の対話?「未来を思い出す」対話?――この不思議な設定が、いま対人援助の世界を大きく揺るがせている。なぜ話を聴くだけでこんなに効果があるのか、と。フィンランドの創始者ふたりがオープンダイアローグの謎を解き、具体的方法をわかりやすく紹介した決定版、待望の翻訳!巻頭には斎藤環氏による懇切丁寧な日本語版解説(25頁)、巻末には日本ですぐに使える「対話実践のガイドライン」(28頁)を完全収載。