第1回 第三項としての「研究」■ 湯浅 誠

第1回 第三項としての「研究」■ 湯浅 誠

2014.12.05 update.

湯浅 誠(ゆあさ・まこと)@yuasamakoto イメージ

湯浅 誠(ゆあさ・まこと)@yuasamakoto

■社会活動家/法政大学教授
■1969年東京都生まれ。東京大学法学部卒。2008年末の年越し派遣村村長を経て、2009年から足掛け3年間内閣府参与に就任。反貧困ネットワーク事務局長。
■主な著書に、『反貧困』(岩波新書、第8回大佛次郎論壇賞・第14回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)、『岩盤を穿つ』(文藝春秋)、『どんとこい、貧困!』 (イースト・プレス)、『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)他多数。
公式サイト⇒http://yuasamakoto.org

障害当事者や医療福祉関係者だけでなく、研究者、一般の人々にまで衝撃を与えている「当事者研究」。
2014年11月に東京で行われた「当事者研究全国交流集会」抄録集には、さまざまな立場の方から当事者研究へコメントが寄せられました。
これが大変な力作ぞろい! 
ぜひ皆様に読んでもらいたく、「かんかん!」に再掲させていただくことになりました。 
WEB分載の第1回目は、社会活動家の湯浅誠さんからのメッセージです。どうぞ!

 

 私は、いわゆる「当事者研究」を体験・研究したことがない。なので、それがどういうものなのか、体感的にわかっている感じを持っていない。ただ、綾屋紗月さんの「治療」とも「運動」とも違う第三項としての「研究」という言い方は、記憶に残っている。私自身が、社会の当事者として、両者の「限界」を感じているところに共振するものがあるからだろう。

 

 私は生活困窮者の問題に関わってきた。生活困窮者は世間一般に認められる「病気」とは限らないので、「治療」という言葉が使われる場面は多くはなかった。だが、医者が患者を一方的に治療するというのに相当する対応には、多く出くわしてきた。

 

 よく覚えているのは、19歳の生活困窮者に付き添って自治体に相談に行ったとき、対応した職員が「私の息子は働いてるわよ」と叱責したことだ。彼女には「ふつう」があって、彼女の息子は「ふつう」を体現しているが、目の前にいる同年齢の相談者は「ふつう」を体現していない。なぜあなたは「ふつう」でないのか、と非難する視線がそこから生まれていた。

 

 「ふつう」の壁の堅さにぶつかって、体の力が抜けるような無力感に襲われる瞬間だ。

 

 それに対して、「ふつうって何だよ!」を対置してきたのが運動だった。「ふつう」なんていう神話に逃げずに、「この私」を認めろよ、たとえ理解できなくても、と。

 

 これは、自分が潰されないための必然的な防衛措置であり、少数派の運動が立ち上がるときには、おそらく常にこうした形をとるのではないかと思う。私もそうだった。「ふつう」という言葉にほぼ反感に近い反発を抱いた日々……。

 

 ところが、私はある経験を通じて、そのやり方のもつ「限界」に直面した。

 

 「ふつうって何だよ!」と投げかけられた「ふつう」信者の反応は二つに分かれる。一つは「言われてみればそうだね~」と改心する人たち。もう一つは非難されていると感じて、自己防衛的に「ふつう」神話の殻に余計に閉じこもる人たち。

 

 後者は、「ふつうにしろよ!」に直面したときに私たちが「ふつうって何だよ!」と防衛するのと、政治的には違うが、論理的には同じだ。

 

 論理的に同じというのは、AとBの作用・反作用という論理構造が同じだということ。政治的に違うというのは、多数派と少数派の非対称的な力(権力)関係の中で、多数派の「ふつうにしろよ!」と少数派の「ふつうって何だよ!」は、現実に殲滅(せんめつ)される危険度が違うということ。

 

 究極的には生命の危険に関わるのだから、政治的な違いこそ重要という考え方は、理解できるし、支持できる。私もそう考えてきた。

 

 ところが、ある体験を通じて私が気づいてしまったのは、困ったことにその政治的な「限界」だった。政治的には必要なことがもつ政治的限界。考えてみればあたりまえだが、「ふつうにしろよ!」派は、多数派であるがゆえに改宗する必要がない。簡単に理解を示すくらいなら、そもそも「ふつうにしろよ!」と言ってない。だから「ふつうにしろよ!」派は、政治的な違いよりも、論理的に同じところを重視する。「それって、あなたがイヤだって言っているのと同じ押し付けを、私に対してしてない?」と。

 

 「ふつうにしろよ!」派と「ふつうって何だよ!」派の争いは、論理重視派と政治重視派の争いでもあった。こうなると、議論がかみ合わない。そして、その結果として、「ふつうって何だよ!」派は政治的にも負ける。昔から言われているように、多数派が少数派を尊重する姿勢を持たなくなったとき、現れるのは数の支配だからだ。

 

 だから、「ふつうって何だよ!」という反発は第一段階では必須なんだが、社会の変容をもたらすためには第二段階がいる、と今私は考えている。それが、論理重視派の理屈と対話し、その背後にある責められているような感じ方、不安に応える必要がある、という考え方だ。そう気づいたとき、私は「ふつうの人々」の感じ方、考え方に、本当の意味で関心をもつようになった。

 

 そして今、私自身は、どうしたら「ふつうの人々」が「ふつうにしろよ!」にいかずに耳を傾けようという感じ方、考え方になってくれるか、両者が通じる回路を探している。そのために、社会の中にいる自分を、自分の手の上に乗っけて、いろいろ試したときの反応を確認・分析・推測するような態度への転換が必要だった。

 

 自分がこう言うとAさんはこう反応する、Bさんはこう反応する、匿名のネットではこういう反応が出る、私を知らない人はこういう反応をする、私をよく知っている人はこういう反応をする、というリサーチもしくはフィールドワークだ。

 

 このような私の考え方の軌跡と、「治療」「運動」「研究」という綾屋さんの三段論法が同じかどうかはわからない(私自身は、「研究」というよりも「実験」という言葉のほうがしっくりくる)。いずれ機会があったら、どこが同じでどこが違うのか、誰か教えてください。

前向きな無力さ@とうじろう.jpg

(当事者研究に寄せて「第1回 第三項としての「研究」」 湯浅 誠 了)

*第2回は向谷地生良さんです。12月9日頃UP予定。

このページのトップへ