かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2011.4.06 update.
1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『母が重くてたまらない』(春秋社)など多数。最新著は『重すぎる母、無関心な父』(静山社文庫)。
[前回まで]
娘の真衣がパジャマと昼食を携えてやって来た。噂話の楽しみを共有できる娘の来訪に合わせたように、同室の太ったロシア人と老女ノジマさんに、それぞれ面会者がやってきた。相変わらずお腹のすく木川嘉子であるが、ここは腹より耳である。
いったん病室に戻り昼食をトレイごとラウンジに運んだ嘉子は、昼食を真衣と摂った。
1階の売店で牛丼を買ってきた真衣は、「塩分制限されててかわいそうにね」と笑いながら、わざと目の前で甘辛いタレの沁みたごはんをぱっくりと食べてみせた。もともと漬物のような塩辛いものが大好きな嘉子は心底悔しかったが、「薄味でもだしが効いてればおいしいのよ」と、あまり味のしないポテトサラダを頬張ってにっこり笑った。
嘉子は牛丼をひと口でいいから食べたいという欲望を紛らわすために、真衣に同室者3人の詳細なプロフィールを身振りを交えて伝えた。
目の前にいない人についてできるだけ相手の関心を惹きつけるように表現することは、カウンセラーにとって職業上必要なスキルである。その点で、どこか噺家に似ているかもしれない。しかし嘉子は、仕事を抜きにしてもそのことが大好きだった。いってみれば単なる噂話とおしゃべりにすぎないのだが、嘉子の人生からそれらをとり除いたら貧しいものになってしまうだろう。
家族でおしゃべりと噂話の楽しみをもっともよく共有してくれるのが真衣だった。嘉子の好きな言葉ではないが、ひょっとして遺伝? と考えてしまうほどだ。牛丼と紅ショウガを混ぜながらしだいに目を輝かせ、うなずきながら聞いていた真衣は、母親と同じ狭心症らしきロシア人女性に特に興味をもったようだ。
「すっごい美人かなあ、色は白いだろうし」
「ベッドがぎしぎし鳴ったからけっこう太ってるかもね。ロシアの女性って、30歳過ぎると太るっていうじゃない」
「ふ〜
ん、でも言葉も通じない日本でカテーテル検査受けるって不安だろうね。いずれロシアに帰るのかなあ」「そうね……」
きれいに完食したけれど、嘉子は腹七分目ほどの満腹感しか得られなかった。もっとガッツリ食べたいという欲望をなんとか抑え込みながら、食後の検温や血圧測定のために病室に戻ることにした。真衣の買ってきてくれた新しいパジャマにも早く着替えたかった。
並んで歩きながら、ナースステーションの前で真衣は軽くおじぎをした。
けっこう礼儀正しいんだ、つまり躾が行き届いているってこと? 嘉子は娘を誉めるより親として自己満足に浸っている。真衣はそんな母親のうぬぼれに気づくはずもなく、重そうなトートバッグを下げて病室に入った。午後いっぱい嘉子のベッドサイドで資格試験の勉強をするための参考書が3冊入っているのだ。
病室では、午前中の静寂とは打って変わったように、にぎやかな人の声が行き交っている。
高いびきでずっと眠っていたロシア人の女性は、意外と低い声で同国の友人らしき面会者とさかんに話していた。
まるで4〜
5人いるのではないかと思うほどの音量だったので、嘉子はカーテンの下を覗いて網目越しに足の数をかぞえてみた。足はたった4本、つまり面会者は2人しかいないことがわかった。そのうち、ひとりの女性はおおっぴらに携帯電話をかけてロシア語でまくしたて始めた。理解できない言語の洪水に席巻された嘉子の病室は、妙な異国情緒に包まれていた。
そんななかで、最後の晩餐の静さんは相変わらずカーテンを閉め切ったまま、隣のベッドの喧騒とは無縁であるかのようにひっそりと閉じこもっている。
ノジマさんも機関銃のようなロシア語に気圧されたのか、隣のベッドで沈黙していた。
カーテンを閉めてベッド脇の椅子に腰かけた真衣は、目を丸くしながら小声で「すごいね」とささやいた。
「勉強、できそう?」「たぶんね」
二人は顔を見合わせて、やれやれという表情をした。
真衣の買ってくれたグレーのパジャマに着替えた嘉子は、ベッドに横になり週刊誌を読みはじめた。何冊か選んで持ってきたハードカバーの本にはまったく食指が動かない。
真衣はベッド脇の椅子に座って、参考書にマーカーで線を引いている。
ほとばしるように語られるロシア語は、時間とともに少しずつ耳への心地よい刺激に変化していった。いつのまにか眠気に襲われた嘉子は、週刊誌を閉じて窓の外の空を見つめウトウトとした。
時計が午後2時をまわったころ、ロシア人の一行は潮が引くように居なくなった。突然訪れた静寂に、かえって落ち着かないものを感じた嘉子は眠気がさめてしまったが、真衣は相変わらず参考書を読んでいる。
「静かになったね」
小声でささやくと、真衣は勉強の邪魔をしないでという表情で嘉子をにらんだ。
「ごめん、ごめん。さぁ、昼寝しようっと」
窓と反対側に体の向きを変え、嘉子は本格的に眠ろうと目を閉じた。
そのとき、突然隣のベッドからノジマさんの声がした。
「アキコ〜
、遅かったじゃないかぁ」
しゃがれてはいるが、少し甲高い声で話しかけている。一瞬参考書から顔を上げた真衣と目が合った。同時にうなずき合った二人の推測は一致していた。きっと昨日病院に付き添ってきた娘のアキコさんが面会に来たのだ。
嘉子の聴覚は一気に研ぎ澄まされ、真衣も目だけは参考書に向いているが全神経は隣のベッドに向けられている。こちら側の母娘の関心は、カーテン越しの隣の母娘に集中しはじめた。
「はいはい、お待たせ〜
」
アキコさんの声には抑揚がない。少し淀んだような話し方からは何の意欲も伝わってこない。カーテン1枚隔てた向こうで、母からアキコと呼ばれる女性がいったいどのような表情をしているのかがありありと想像できる気がした。たぶん無表情なままで返事をし、母親と目を合わせることもないのだろう。
「いったい何時に出てきたのさ」
「お昼ですよ、ごはんを食べてからです」
「あのさ、先生はさ、もう少し入院しなさいって言うんだよ」
「はいはい、そうですか、先生のいうことを聞いてください」
ノジマさんの息せき切った話に対し、娘はゆっくり応答している。母のテンポに巻き込まれることのない娘の馬鹿丁寧な口調は、母との距離を保つために使用されている。嘉子はそう思った。
カウンセリングでは、クライエントに対して「丁寧な口調でゆっくり話しましょう。敬語やあいさつをちゃんと使いましょう。そうすれば距離ができますから」と説明することが多い。
摂食障害の娘から攻撃される母、引きこもりの息子から怒鳴られ殴られている母に、まず伝える必要があるのがこの点である。受け入れて理解しましょう、といった提案は一切しない。だから嘉子は、アキコさんの口調とテンポから、母親と距離をとりたいという姿勢を強く感じたのだ。
しかし大きな相違点は、アキコさんの声から漂ってくる何ともいえないけだるさだった。もう辟易している、これ以上かかわりたくはない、飽き飽きしている……「はいはい」という前振りを聞くたびに、そんな思いがカーテンを越えて伝わってくるのだった。
「マルジューにも行かなくっちゃなんないし、そうだろ」
「いえ、お母様には買い物は頼みませんよ」
「今度は転ばないように気をつけなきゃ、あ〜
あ、えらい目に遭っちまった」「お母様、転んだのはおうちでしょ?」
「違うよ、何言ってんだい。マルジューにトイレットペーパー買いに行ったからじゃないか」
「いいですか、何度も言いませんから! お母様は2階から階段を下りる途中で転げ落ちたんです。わかりました?」
アキコさんは、「おかあさまは にかいから かいだんを……」から最後までを異様にゆっくりと語った。それも声を一段と低くして。
その怒気をはらんだ強い口調に気圧されたのか、ノジマさんはしばらく黙った。
嘉子と真衣はカーテン越しの母娘劇場にすっかり耳を奪われ、今後の展開にハラハラしていた。
娘の機嫌を考えて、ノジマさんは話題を変えようとしたのだろうか。まるで秘密を告げるように声をひそめた。
「あのさ、アキコ、同じ部屋にロシア人がいるんだよ」
「えっ、そんなはずはありませんよ。ここは日本ですよ」
「だって、ロシア人がいるんだよ、話してんの聞いたんだから」
「はいはい、わかりました。そうなんですか、ロシア人ね」
まったく信用しないアキコさんの口ぶりを聞いていると、「はいはい」という相槌に嘉子はいら立ちを覚えるようになった。
ノジマさんは、カーテン越しに会話をじっと聞きながら、ななめ向かいのベッドの女性がロシア人であると理解したのだ。そして、それをニュースとして娘のアキコさんが面会に来たら報告しようと準備していたのだろう。
話しながらアキコさんがベッドまわりの整理をする音が聞こえてくる。紙を丸めて捨てる音、洗濯物を袋にしまう音、ロッカーの扉を開閉する音。おそらくアキコさんはノジマさんに丁寧語で相槌を打ちながらベッドの周辺の整理をしているのだ。いやそちらのほうが主たる目的なのかもしれない。
「ところでさ、マルジューのいつもの月曜特売はチラシ入ったのかい」
「いいですか、マルジューには行ってません。だから、わかりません。」
「そうかい」
4秒ほど沈黙してからノジマさんはまた尋ねた。
「マルジューのトイレットペーパーは特売になったのかい、今度は転ばないようにしなきゃ」
一瞬アキコさんが息を呑む気配がした。それは怒りを抑えるために必要だったのだろうか。アキコさんは否定も肯定もせず、沈黙したままベッドまわりの整理をを続けていた。
ノジマさんの世界はマルジューというスーパーを中心に回っている。そこに買い物に行くことが彼女の日常を支える唯一の確かな行為なのだろう。次の特売日が何より大切な未来なのだ。
どれだけアキコさんが否定しようと、ノジマさんはマルジューにトイレットぺ―パーを買いに行く途中にころんで顔を打ったのだ。
嘉子は、そしておそらく傍らで聞いている真衣も、ノジマさんという老人の生きている世界の一端を、カーテン越しの会話から知ることができた。
気がつくとアキコさんの気配が消えていた。音もなくいつのまにか隣のベッドサイドからいなくなってしまった。
「逃げたんじゃない、それにしても黙っていなくなるなんて」
真衣がぼそっと小声でつぶやいた。
それからしばらくして、ノジマさんの混乱が始まった。
「アキコは? アキコ〜
」ノジマさんは娘を呼んだ。それでも返事がないと知ってナースコールのボタンを押した。
パタパタという音をたてて駆けつけたナースはノジマさんに聞いた。
「ノジマさん、どうされました?」
「アキコは? アキコはどこにいったの?」
「アキコさんって娘さんのことですよね」
「アキコはどこにいったの?」
「アキコさんはお帰りになったと思いますよ」
「そうなの、アキコ、帰ったの」
「じゃ、戻りますね。よろしいですね」
「はいはい、ご迷惑おかけしました」
ノジマさんはていねいにお礼を言い、パタパタと音をたててナースは戻っていった。
わずか5分ほど沈黙ののち、ノジマさんは再びナースコールを押した。
パタパタと走ってきたナースはノジマさんに聞いた。先ほどと同じ言葉だ。
「ノジマさん、こんどはどうされました?」
「アキコは? アキコはどこにいったの?」
ナースは淡々と同じ口調でさきほどと同じ内容を繰り返した。落ち着いた口調は見事なほど変わらない。そして同じようにパタパタという音を立ててナースは戻っていった。
今度はどれくらいもつのだろうとドキドキして聞いていると、3分後には予想通りノジマさんはナースコールのボタンを押した。
パタパタと走ってきたナースは尋ねた。
「ノジマさん、こんどはどうされました?」
「あのね、痛いの、とっても痛いの」
「どこが痛いのですか?」「ここ、ほらここ」
「ここですか」「う〜
ん、違う、ほらここ」「ここですね、ああ、ちょっと赤くなってますね。じゃ、お薬塗っておきますね、ちょっとお待ちください」
立ち去ろうとするナースを引き留めるようにノジマサンは言った。
「あのね、薬じゃないの、そこさすってくれない? 痛いの、とっても」
「ここですね、わかりました。じゃさすってみますね」
皮膚をさするひそやかな音がする。体のどこかはわからないが、さすられて気持ちよさそうにしているノジマさんの顔が目に浮かぶようだ。
「どうですか? まだ痛みますか?」
「ありがとうございました、お世話になりましたでございます」
丁寧な言葉でお礼を言ったノジマさんは、やっと娘がいなくなったことから解放されたようだ。
嘉子母娘は、すぐ隣のベッドで起きたノジマさんの娘失踪事件、その後のナースコール連発を実況中継で聞いていたような気分に襲われた。あまりに生々しかったので、息抜きをして真衣と総括をしなければと嘉子は考えた。
その思いが伝わったように、真衣もうなずいている。
一言も発することなく、まるでアキコさんのように二人はそっとベッドを離れ、ロビーへと脱出した。
(第8回了)
[次回は4月下旬UP予定です。乞うご期待。]
アディクションアプローチ もうひとつの家族援助論 A5判・224ページ・1999年06月発行 定価 2,100円 (本体2,000円+税5%) ISBN978-4-260-33002-2
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DVと虐待 「家族の暴力」に援助者ができること
A5判・192ページ・2002年03月発行 |