かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2010.12.16 update.
1960年生まれ。近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院精神科主任を経て、99年、名越クリニックを開業。専門は思春期精神医学。精神科医というフィールドを越え、テレビ・雑誌・ラジオ等のメディアで活躍。著書に『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』(角川SSC新書、2010)、『薄氷の踏み方』(甲野善紀氏と共著、PHP研究所、2008)などがある。
心は言語化以前のエネルギー
心のことを考えるうえでひとつ、大事なことがあります。それは「心は自分ではない」ということです。「心」とか「感情」という言葉で僕らがイメージすることはいろいろあります。腹が立ったり、大好きだったり、落ち込んだり……。でも、それらは明らかに、意識化され、言語化されたもので、人間存在の本質からは、ちょっと離れているんです。
前回の原子炉のたとえでいえば、核融合のもたらすエネルギーの本質って、もっと潜在的な、言語化以前の衝動のようなものです。もはや感情とは呼べないような暗さとか、どんよりしたもの、胸がムカムカするような感じといった、すごくあいまいで、範囲の広い物を僕らは心の中に抱えている。そう考えたほうが、現実に近いのではないでしょうか。
そういうふうに心を捉えたとき、僕は医療においてよく主張される「共感」という言葉に違和感を覚えます。もちろん、すばらしい実践を行い、その内容を共感という言葉に込めた先人の取り組みを否定するわけではありません。しかし、現状においてはこの言葉がミスリードしてしまっている側面は強いんじゃないかな、と思うんです。
作為的な共感の限界
まず、共感という言葉自体、どうしても作為的な印象を与えますよね。つまり、「共感してあげる」「共感せねばならない」みたいな作為が、どうしてもくっついてくる。これは現場の実践を言語化していくときには避けられない問題なんですが、共感ってそのなかでも特に「must」「should」がつきやすい言葉だと思います。
抽象的に感じられるかもしれませんが、これは実は、すごく実践的な話なんです。というのは、そういう「○○せねばならない」という意識のなかで行われる共感は、どうしても自分が作った妄想とか、ある種の鋳型に相手の心を押し込めるようなものになりがちだからです。
そういう意味では、僕は「感応」という言葉のほうを好みます。この言葉のほうが、少なくとも現状では、作為が入りにくいから。正しいかどうかよりも、より安定した、より自然な、より実感がある、より居心地のいい、持続性のある「共感」というのは、相手の気持ちに感応する、というところがベースに置くべきだと思います。
もう少し具体的にいえば、感応とは、相手とのコミュニケーションが盛り上がって、互いの気持ちが通じ合ったというある種の興奮状態の中にいるときよりも、それらがいったん落ち着いて、静かな心になったところへ湧き上がってくる感覚のことです。こちらを大事にしたい。
もちろん、そういう静かな気持ちのなかで湧き上がってくるもののなかにも、思い込みや固定観念は混じってきますが、比較的、危険性は少ないんじゃないかと思います。
そのように感応することができたときには、もしかすると、相手との新しい、ポジティヴな関係性が開けてくるかもしれません。でも、これはあくまでも「もしかしたら」です。見返りを期待してはいけない。
共感という言葉に抵抗を覚える最大の理由がここにあります。共感という言葉は、どうしても医療者の側に利益、見返りを求める気持ちが生じがちです。相手の話に耳を傾けることで、「この人、これで薬飲んでくれるかなあ」とか、「こんだけ時間かけて話を聞いて、なんにも変わらんかったらたまらんなあ」という気持ちを、どうしても持ってしまう。
でも、人間というのは、相手にわかってもらいたい、一体となりたいと思いつつ、もう一方では自由を求めます。だから、そういうコントロール願望を載せた共感というのは、短期的にはうまくいっても、長い目でみると必ずしっぺ返しを食らいます。
触媒としてのかかわり
生命は海から生まれたということは定説ですが、海は人を拒絶します。母なる海と一体になろうとしても、溺れるのがオチですね。共感の問題でも同じことが言えて、わかりあいたい、一体になりたい、と思うだけれど、それに対するものすごく強力な拒否感も同時に存在している、とういことにはもっと目を向けてよいと思います。
そこで先ず理解すべきことは、他者というのは救いそのものではない、ということです。他者は触媒に過ぎません。自分が成長したり、苦しさを解消していくにあたって、他者、あるいは世界との関係性をどう取り結んでいくかはすごく大事なんだけれど、それで万事解決とはいかない。
そのことを理解していただいたうえで、さらにある意味、反転したことを言うのですが、その触媒作用が、実は問題解決に向けての、おそらく本質的な原動力になるんです。
つまり、他者は時として答えを与えてくれる存在ではあるけれども、それはまあ、たまたまで、期待するものではない。でも、他者に「相談する」という行為の中である要件が果たされる。それはつまり、他者との関係性の確認あるいは関係性の再編成です。
ベタにいうと、より深く相手を知るとか、信頼という感覚を得るとか、安心させられるとか。それらはつまり他者、それが友人であろうと異性であろうと、配愚者であろうと、自分の周囲にいる他者との関係性が再編成されたということです。
関係性の再編成。そして、そこで生まれ得る瑞々しい感覚が、ある種の起動力をその人に与える。すると、目の前に見える壁の如き問題が、着手可能なものに姿を変えていく。その働きは時として劇的ですらあると私は感じています。
自分の心のことは自分でなんとかするしかありません。しかし、そのためには触媒となる、他者が必要だということです。そして医療者もまたその触媒として、回復のプロセスにかかわっています。
地味なモデルのようですが、これからの医療やケアを考えていくうえで、この方向性には、可能性があると僕は感じています。
第1回 3年で辞めないために(1)
第2回 3年で辞めないために(2)
第3回 3年で辞めないために(3)
第4回 愛情欲求から自由になる(1)
第5回 愛情欲求から自由になる(2)
第6回 共感は可能か(1)
第7回 共感は可能か(2)
第8回 共感は可能か(3)