『やっと言えた』を深掘る。

『やっと言えた』を深掘る。

2026.7.06 update.

対談者プロフィール

齋藤美衣(さいとう・みえ)
1976年広島県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒。4歳頃から他者に「言葉が通じない」感覚を持ち、外部とつながることを難しく感じる。14歳のとき急性骨髄白血病で1年間の入院生活を送る。19歳から摂食障害を発症し、以降、断続的に精神科にかかる。30代前半から半ばにかけて精神科への入退院を繰り返す。40代で精神科病院へ措置入院し、その経験が2024年『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(医学書院)の出版につながる。同年、第一歌集『世界を信じる』も出版。2025年に『やっと言えた』(医学書院)を出版。


小山内園子(おさない・そのこ)
ソーシャルワーカー、韓日翻訳者。NHK報道局ディレクターを経て、延世大学などで韓国語を学び翻訳家に。著書に『〈弱さ〉から読み解く韓国現代文学』(2024年、NHK出版)、『2人は翻訳している』(すんみとの共著。2025年、タバブックス)。訳書にク・ビョンモ『破果』『破砕』、チェ・ソンウン『働きたいのに働けない私たち』、カン・ファギル『大丈夫な人』、キム・イソル『わたしたちの停留所と、書き写す夜』など。共訳書にイ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ』、ホンサムピギョル『未婚じゃなくて、非婚です』、チェ・テソプ『韓国、男子――その困難さの感情史』などがある。

2026年1月24日、医学書院本社にて、齋藤美衣さんの『やっと言えた』(シリーズ ケアをひらく)の刊行記念トークイベントを行いました。
対談のお相手は、ソーシャルワーカー・韓日翻訳者の小山内園子さん。社会的に追い詰められた女性たちに関心を寄せ、相談事業に携わってきた小山内さんだからこその現場的な視点で、対話を深めていただきました。その一部を抜粋してお届けします(全文は『精神看護』2026年3月号144ー152頁)。
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齋藤美衣さんの言葉

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「私は、原因不明にやってくる死にたい気持ちや身体の不調と何十年も闘ってきたなか、カウンセリングに出会いました。3年以上通い続け、自分がどういう道をたどり、苦しみの根本原因にたどりついたかを、一部フィクションも交えて書いたのがこの本です。

 書きたいことはあふれんばかりにあったのですが、うまく書けないことには苦しみました。カウンセリングのきれいなお話にはしたくないと思っていたはずなのに、読んでくださる方に納得してほしくて、つい、こういう理由でこうなんです、と説明したくなってしまう。そうすると物語としてはまったくつまらないものになってしまうので、その加減に苦しみながら書き上げました。

 この本は、現在、傷に苦しんでいる人と、周囲で支える人、その両方生きる読んでいただきたいです。私の体験が、皆さんが"生きる"ことになんらかでもお役に立てば幸いです」

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「リアルなカウンセリングを
書きたいと思ったのです」(齋藤)


小山内 齋藤さんは今回なぜ、「カウンセリング」の場を舞台にして書くことに挑戦したのですか。

齋藤 カウンセリングを受ける立場になったとき、本をいくつか手にしたんですが、ほとんどは支援者の立場から書かれていて、守秘義務のせいだとは思うのですが、事例がぼかしてあり、わりと一直線に良くなって終わりました、という綺麗な話が多かったんですね。

でも、自分がカウンセリングを受けてみると、もっとわけがわからないし、泥臭いものだと思ったのです。そのリアルな場のことを、自分が感じたままに書きたいという思いがありました。

また、カウンセリングの教科書的にはあまり書かれないようなやり取りがあり、それについては本を読んでいただきたいですが、それを「なかったこと」にはしたくないなと思ったのです。

「支援側として追い詰められた

気持ちにもなりました」(小山内)


小山内 私は社会福祉士の資格ももっており、女性たちから相談を受けるという仕事を続けてきたので、1回目はほぼカウンセラーの西尾さん側の立場で、2時間くらいで読み終えました。そのときは正直に言うと、「お願いだから追い詰めないで。それ以上言わないで」と感じることがたびたびあって。私がこれまで面接室でシールドをかけてきた部分に手を突っ込まれるような感覚がする読書だったんです。

たとえば、西尾さんがアポイントのメールで「お会いするのを楽しみにしています」と書いたら、「この人は思ってもいないことを書く嘘つきなんじゃないかと警戒した」と書かれていましたよね。「お会いするのを楽しみにしています」って、社会の潤滑油としてはよく用いる表現ですが、「あ、こういうことを書くのもダメなんだ、うわあ、どうすればいいんだろう」と思ったり。

あと、「わかります」ふうのカウンセラーの態度にも、齋藤さんは「損なわれた経験のないあなたにはわからないはずだ」と何度も問いただしていますよね。「うわあ、共感もダメなのか」と思って。

専門職としての知見を与えるために、教科書や講座って「こういうときはこんなふうに言ったほうがよい」とか「こういう態度がよい」などを教えますよね。だからベテランになればなるほど‶手垢″みたいになった言い回しや態度があるのですが、こういう箇所を読んで、そのことをすごく問い直された感じがしたのです。と同時に、じゃあ何に依って専門職として立てばいいんだろうとグラグラしてしまって。

齋藤 すみません、怖いですよね(笑)。ただ、そのときどういう気持ちだったかというと、私は当初から「全力を使って、私はこのカウンセリングに通う」って思っていたんです。

一般的な人間関係の中では、この人の答えはちょっとあいまいだけれど、きっとこう思ってるだろうからまあいいか、と済ませることが多々ありますよね。でも私はカウンセリングの場では、そういうやりとりを絶対にしないぞと決めていたんです。なぜなら私は命をかけて来ているから。だから、とりあえず出しておこうみたいな言葉や態度があるなら、そんなものはこの場に持ち込まないでほしい、私はそんな覚悟で来ていないのだから、って思っていました。

小山内 なるほど。「命をかけて来ている」という言葉がずしんと来ました。

「性交という言葉は

避けて通れなかった」(齋藤)


小山内 齋藤さんが受けた精神分析という手法では、「カウンセリング中に心に浮かんだものをそのまま口に出す」というルールがあったんですよね? そのルールのもとに、カウンセリングルームで齋藤さんは「西尾さんと性交したい」という言葉を何度も繰り返しましたよね。

私の場合は、女性の相談者とお目にかかることが多いのですが、もし男性の相談者が私に「性交したい」と言ったら、その関係性や時間を共有する前に、たぶんいろんな理由をつけてお断りすると思うんですね。「性交」という言葉に、齋藤さんが言うような豊かな意味合いがない場合も少なからずあるので。

その意味で言うと、齋藤さん自身にも、精神分析のルールのもととはいえ、「性交」という言葉を出せばセクハラになるかもという恐れもおもちだったと思うので、これはますます「口にせずにはおれない」状況だったのだろうなと感じたのです。

齋藤 そうですね。「性交」という言葉は避けては通れない感じがありました。本にも書きましたが、それまでは死にたい気持ちが湧いてくると、嫌で仕方がないのに自分を痛めつけるようなセックスをわざわざしていました。今から振り返ればそれは、「傷は確かにある」という確認行為だったのだろうと思います。

しかしカウンセラーの西尾さんと出会い、信頼を少しずつ築いていったときに、いろいろなものを超えて、もしかしてわたしは他人と真に「心の交わり」ができるのかも、という淡い希望のようなものを感じ始めたのだと思います。ずっと何十年も、理由もわからないまま支配-被支配の気持ちのなかにいて、いつも怒ったり恐怖したり、精神的にも身体的にも具合が悪い人生を生きてきました。それはとてもキツイことでもありましたので、無意識化では「人を信じたかった」のだと思います。それが「性交したい」という言葉になったのだと思います。

小山内 確認ですが、カウンセリングを行う前は、過去に性暴力被害があった可能性は全く見えていなかったんですね?

齋藤 はい。私も西尾さんも全くわからないなかを進んでいました。でも西尾さんがあとになって、「この人には何かあるはずだとずっと思っていた」ということはおっしゃっていましたね。

小山内 私の経験で恐縮ですが、私も性的被害を記憶している女性の相談支援に入ったことがあるのです。その方も、精神的な状況によって、自分の意思にかかわらず異性と関係をもってしまうということが起きていて。私は長期にかかわりながら、「どうして私には届かないところがあるんだろう」と思っていました。でも齋藤さんの『やっと言えた』を読んで、初めてはっきりとわかりました。私は女性支援者で、性的に敵対しない関係、つまり奪ったり搾取する関係にはならないから、本当の意味でその人が私を通して再演したり、復讐したり、ができないんだなって。その意味で、支援者もなかなか限界があるんだなあと、改めて気づいたところです。

「性被害は、人生の選択肢を

奪われること」(小山内)


齋藤 私も性被害のことを明らかに思い出すまでに20年以上かかりました。精神医療へのアクセスは何度もしたし、入院もしましたが、誰もそこにたどり着けなかった。医師も、症状だけを見て「あなたは性的逸脱があるから、双極症の躁状態なのでしょう」と言ったり。

でも、『やっと言えた』にも書いたのですが、私が選んで会っていた男性は、本当に記憶のなかにある加害者像にとても似た人たちでした。だから記憶がよみがえってから、あ、そういうことだったのかと腑に落ちたところはありました。

小山内 医療や支援のなかにいると、「性的逸脱」とか「トラウマの再演」といった単語をつい使ってしまうのですが、そういう言葉ってあたかも「本人が自ら選んで」行っているように聞こえます。でも齋藤さんの1作目『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』を読んでも感じたことですが、選択してやっているのとは違うところから行動している感じが強くありました。

齋藤 はい、コントロールできないですし、自分では選んでないし、選べないです。

小山内 ですよね。だから性的被害というのは、「選択肢を奪われること」、それ自体に被害の重大さがあるということですよね。そこに支援者が気づけていないと、その人が起こす行動だけを見て、「やめましょう」とか言ってしまって、的外れな支援になっていくのでしょうね。

「齋藤さんは悪くないです、と

たくさんの人が言うべきだった」(小山内)


小山内 私は1回目に読んだときは、西尾さん側になって手に汗握りながら、「西尾さん大丈夫かな。持ちこたえてくれよ」って思ってどっと疲れる2時間だったのですが、2回目に読んだときははっきりとわかりました。これは齋藤さん側から書いた「個」の物語なんだと。そこにどこまで寄り添えるかという物語だったのだなと。

そして今日齋藤さんにお目にかかったら絶対にこれだけはお伝えしようと思ってきたんですが、性被害について言うと、全く齋藤さんは悪くないです。

齋藤 ありがとうございます。

小山内 それだけは絶対。これまでもっと、カウンセラーも含めたたくさんの方が言うべきことだったと思うんです。悪くない、あなたは絶対悪くないと、もっと早くに。そういう目に現実に遭って、今も蓋をされている方はとてもたくさんいらっしゃると思うので、「あなたは悪くない」ということは、言うべきときに言うべき言葉だと私は思っています。

齋藤 そうですね。もしこの場の方や配信で見ている方に当事者がおられたら、「それは大変なことだった」と私も言いたいです。その日、記憶がまだらなんですが、警察官も来たような気がするんです。そこで大人から言われたメッセージとしては、「大丈夫。大したことじゃない」だったんですね。思い出したときに、それに傷ついたんです。

だから「大したことない」と今も思われている方がいたら、それは本当に、一生を踏みにじられるような大変なことだったと思って間違いないし、すごく理不尽なことで、本当にどうしたらいいかわからなくなることがあると思うんですが、それをかかえても私たちは生きていく力がなおあると、私は信じています。

(齋藤美衣×小山内園子|『やってくる』を深掘る。|了)

やっと言えた イメージ

やっと言えた

深い心の傷(トラウマ)からの回復の軌跡を、予想を超えた展開で描く意欲作
深い心の傷(トラウマ)から、人は回復できるのか? それはどうやって? 実感を伴わない身体、理由のわからない不調、襲ってくる死にたい気持ち。苦しみをどうにかしたくてカウンセリングルームの扉を叩いた著者が、4年近い苦闘の末に見たものとは──。支援者とのぎりぎりのやりとりが、予想外の扉を開いていく様を描く意欲作。デビュー作『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』では語られなかった、もう1つの物語。

〈シリーズ ケアをひらく〉 『やっと言えた』
齋藤美衣=著、200頁、A5版、2200円(税込)、2025年、医学書院

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