最終回 ケアとの邂逅【横道誠】

最終回 ケアとの邂逅【横道誠】

2021.8.10 update.

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横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

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2019年4月は私の人生の分岐点だった。第一に私はこのときから約1年半休職し、自分の人生を見つめなおす時間を多く得た。第二に、私は前月の検査にもとづいて発達障害の診断を受け、生まれながらの「障害者」だったことを40歳にして知った。第三に、未破裂脳動脈瘤の手術を受けた。今回の内容は、この第三の経験を核としている。
 
その前年に受けた生まれて初めての人間ドックで、私の体はあちこちに不具合があることがわかった。もっと早くに人間ドックを受けていれば良かったと呻いてしまった。35歳のとき、健康診断で看護師と話していて、軽く「人間ドックを受けてみたい」と発言したことがあった。すると、その看護師は「まだ少し早いですね」と答えたから、私は「そうか。焦らなくても大丈夫なんだ。とっても健康なんだ」と安心してしまっていた。私がバカで、やはり焦るべきだった。
 
人間ドックの結果を受けとった私は、しばらく問題を放置した。発達障害者によく指摘される「先延ばし癖」だ。「要再検査」、「血液・中性脂肪」、「緑内障」、「未破裂脳動脈瘤」などの言葉を見ると、気分が暗くなった。ギリギリの年度末まで伸ばして、再検査を受けると、脳神経外科の担当医が脳動脈瘤について説明してくれた。「かなり大きい動脈瘤がある」こと、「クモ膜下出血の恐れがある」こと、「急いで精密検査を受けたほうが良い」ことなど。
 
クモ膜下出血とは何か、私は正確に知らなかったのだが、その名に致命的な恐ろしいイメージが付属していることは知っていた。私は「クモ膜下出血」をiPhoneで検索し、それが「破裂脳動脈瘤」のことを意味していると知った。つまり私の脳内の未破裂脳動脈瘤が何かの拍子に破裂したら、それがクモ膜下出血ということだったのだ。私は「クモ膜下出血」に「即死」や「生存率」や「後遺症」などの言葉を組みあわせて検索し、さまざまな記事を読んで絶望的な気分になった。「これが死に体か」とつぶやいた。
 
私は京都市に住んでいて、検査を受けた病院も京都市にある。京都市内の大学病院への紹介状を書いてもらったが、インターネットで調べて、できるだけ安心できる病院で精密検査を受けたいという思いが湧いた。さいわいにして、大阪市に「脳動脈瘤の手術件数が日本一」だと評判の病院を見つけた。私は紹介状をその病院の医師宛に書きなおしてもらって、大阪に向かった。私は大阪市の出身だから、どうせ死ぬなら京都よりも大阪がうれしかった。
 
その大阪市の病院(A病院と呼ぶ)でのこと。診察を始めた医師は私が持参したCD-ROMに入ったMRI写真を見て、「これはかなり大きいね!」と口走った。私は絶望的な気分になった。医者はこのまま放置していると70歳までに破裂する確率は9割以上だと述べた。「私や私の家族がこんな状況なら迷わず手術を選びます」とも言った。その言葉から、問題を放置して逃げまわる道が塞がれた。開頭手術とカテーテル手術という二つの術式があること、問題の動脈瘤は左目の後ろ側に位置しているため、カテーテル手術が適切だという説明を受けた。「手術しますか」とすぐに尋ねられて、私は「詐欺師のテクニックか?」と思いつつも、「わかりました。お願いします」と述べた。
 
開頭手術、つまり頭蓋骨を開いて脳を触って手術するのは、若いころに読んだ悪夢的なディストピアSFやサイコホラーを思いださせた。不安感を大いに刺激する。だから、そちらではない術式を取ると伝えられえて、私はホッとした。太ももから極細の管を挿入して、頭まで到達させ、動脈瘤にプラチナ製のコイルを詰めていく。脳みそを手でいじられるよりずっとマシに思えたが、しかし担当医――手術と入院を決意したため、主治医ということになった――は、どちらの術式にもそれぞれリスクがあることを指摘し、カテーテル手術だから開頭より安全というわけでないと断言した。私は「この人の話し方は私と同じでアスペルガーっぽさがよく出てるな。医者って発達障害っぽい人が多いよね」と考えていた。
 
同じ月の下旬の月曜から金曜までの5日間、入院した。月曜の正午過ぎに入院手続き。入室してすぐに看護師が、局部の剃毛にやってきた。右足の付け根からカテーテルを通すため、そういう事前処置が必要らしかった。入院のために持参すべき用具を前もって教えてもらっていたが、中途半端にしか守っていなかったので、さっそく外出許可をもらって、近所の100円均一ショップにタオルなどを買いに行った。「これが発達障害ってことかな」と私は思った。血圧や体温の検査のあと、それぞれの専門医から集中治療室や麻酔に関する説明を受けた。夜になって主治医との面談。「この病院は脳動脈瘤の手術をたくさんしています。でも毎年1割以下ではあるけど、手術中の動脈瘤破裂で亡くなっています。絶対に事故が起こらない手術はできません」。私はなんとなく「騙された! もっと早くに教えてよ」と思ったが、「分かりました」と答えて、手術の同意書に署名した。
 
主治医が去り、別の医者が来て、「質問などがあったらどうぞ」と言ったので、カテーテル手術の仕組みを尋ねた。太ももから管を入れて、血管伝いに脳まで送る、その管はちゃんと脳の動脈瘤に辿りつく、細い管をさらに細いプラチナが流れていき、瘤の内側に溜まってゆく。私には遠い未来の手術のように感じられた。「さすが21世紀だぜ!」と興奮した。肝心の説明は、よく分からなかった。相手は若く、業務に慣れていなさそうだった。
 
翌日の火曜は朝9時から絶食。16時から手術の予定だったが、時間がずれて18時45分からになった。その延期された3時間近くは、異様なほどゆったりと進行したから、私は船酔いになりそうなほどだった。10歳のときに鼠径ヘルニアで手術を受け、20歳のときに(告白するのになんだか抵抗があるが)真性包茎の手術を受けた。それから20年が経って、未破裂脳動脈瘤の手術を受ける。鼠径ヘルニアは下腹部の手術だったし、真性包茎は陰茎の手術だったし、今回は頭の手術だけど、手術は陰部からおこなう。私の手術歴はおもしろいなと思った。出産は経験できないが、経験できたら「総仕上げ」みたいになったのに、と考えた。そんなことを考えながら、久しぶりの手術室に緊張して入り、手術台に横たわった(注:読んでくれた読者の皆さん、もしこの段落の内容がおもしろかったら、「「シリーズ ケアをひらく」から横道誠さんの新しい本が出てほしいです、書名は『私が真性包茎だったころ』にしてください、と編集部に連絡してください)。
 
全身麻酔を体験するのは生まれて初めてだった。顔の下半分に透明なマスクを装着され、「全身麻酔って、どういうふうに眠ってしまうか興味があったんだよな」と思っているうちに意識が消えた。つぎの瞬間に眼を開くと、主治医の笑っている顔が飛びこんできた。「大成功ですよ! 良かったですね」。私は朦朧としながら「ありがとうございます。いまは何時ですか」と尋ねた。「ちょうど3時間が経ちました。がんばりましたね」と伝えられた。私は何もがんばったつもりがないので、不思議に感じた。だが、私の精神はがんばらなかったとしても身体はちゃんとがんばってくれた、と思いなおした。
 
すぐに集中治療室に入ったが、耐えられないくらいに寝苦しかった。夜勤の看護師が、私には無呼吸症候群があることを指摘した。数年前から不眠傾向が発生していたが、ふだんは寝返りを打つから、ごまかせていた。体の体勢を変えることで、のどに空気が通るのだ。しかし集中治療室では体が仰向けで固定されているから、寝返りが打てない。それで無呼吸が顕在化した。退院後、私は京都市内の耳鼻科のクリニックに行き、無呼吸症候群の治療を受け、別の口腔外科のクリニックで睡眠用のマウスピースを作成してもらうことにした。
 
特筆すべきは、手術を受けた直後から激甚な頭痛に苦しむようになったことだ。主治医にも看護師たちにも訴えたものの、原因が分からない。「脳動脈瘤」「術後」「頭痛」などの言葉を組みあわせてインターネットで調べてみたが、それらしい情報が出てこない。痛み止めのロキソニンをもらって飲みながら堪えていたが、退院後も何週間も頭が痛い。頭をさすると、瘤がある。でもその瘤は5年以上も前からあって、一度も痛んだりしないものだった。「だがもしや」と私はようやく思いいたった。「最近になってその瘤に雑菌が入り、膿んでいるとしたら?」
 
さらに私は想像をめぐらせた。手術の日から痛みだしたが、それは手術中に何か事故が起こったからで、頭をどこかにぶつけられて、それで傷ができ、雑菌が入ったのではないか。私がそのように考えたのは、実は術後、別の医療ミスに気づいていたからだ。カテーテルを挿入した跡とは別に、何か硬いもので数回えぐったような生傷が下腹部にできていて、病室で体を拭いてくれた看護師が見るや否や、「これは一体?」と顔をしかめ、どこかに連絡したことがあった。私はその傷を見て、私の体は意外と粗末に扱われたんだな、と少し傷ついた。そんな記憶があったから、私の頭頂部も何かで引っ掻かれたとしてもおかしくはないと考えたのだ。
 
私は、京都市内の皮膚科のクリニックを受診した。「これは粉瘤かな?」。皮膚科の温厚そうな担当医はつぶやいた。「やはり皮膚の問題だったのか」と私は溜め息をついた。患部を触っていた担当医は「これは膿んでるな」と小さく叫んだ。注射器の針を刺して中身を吸いだすと、膿がたっぷり混じった血液が出てきた。しかも、時間をおいて吸いだすたびに、血液と膿が補充されていくようだった。担当医は、「粉瘤ではなさそうだ。これ以上はここでは処置できない」と説明し、大学病院の形成外科宛に紹介状を書いてくれた。
 
その大学病院に行くと、検査をして、1週間後に手術を受けることになった。主治医から「手術しないとよく分からない」と言われ、心に暗い陰が差した。だが後日受けた手術は局所麻酔を掛けられて45分ほどで終了する簡単なもの。研修医たちが仰向けの私の周りに群がっていて、「何これ?」「わからん」などと会話していた。後日、その腫瘍の分析結果をもらって、「良性のカンセンシュ」だったと伝えられた。「カンセンシュ」は頭のなかで「汗腺腫」に変換されたが、あとで調べてみると「汗管腫」はあっても「汗腺腫」はないようだった。「肝腺腫」というものはあるようだが、これは関係ないだろう。皮膚に関わっているということは「乾癬」の何かだろうか。しかし「乾癬腫」という言葉もない。「乾癬の一種」ということか。それとも「感染腫」? この言葉も存在しない。真相は闇のなかに消えた。
 
話が前後したが、動脈瘤の手術を経たことで、私はケアの問題に目覚めた。集中治療室で寝返りを打てないように拘束された心細い状況。排尿用のカテーテルが尿道に差しこまれて、横たわっていた私は、「空気ポンプで跳ねるプラスチックのカエルのおもちゃに似ている」と考えていた。何度も水を飲ませてもらい、点滴を交換してもらい、尿道のカテーテルを抜いてもらう。ハイデガー哲学を好む私は、「世界・内・存在」をもじって「集中治療室・内・存在」と自分を呼んだ。「存在」と「時間」に対する思索が深まった。
 
集中治療室で対応してくれた看護師はふたりいた。そのうち片方は、びっくりするくらい当時の私の8歳下の恋人に似ていた。だが、それはそれほど不思議ではないのかもしれない、韓国風の流行の化粧をした美人という点で似ていたのだと思う。彼女はデパートで美容部員を務めていたが、もと看護師だった。かつて彼女もこんなふうにして働いていたのだろうかと思うと、看護師の世界が身近に感じられてきた。
 
ベッドから台車に移されて、集中治療室から運びだされた。集中治療室での看護師たちによるケアに私は自分の世界観が更新されていくような感覚を得た。「私は生きのびたのだ」という思いが、世界をきらめかせていた。あらゆるものに感謝したくなっていた。しかも、私がここまで主体性や自由意志を失ったと感じたことは、生まれてから一度もなかった。苦難のあとに恩寵を感じる宗教者の心を理解できた。その喜びに満ちた新世界を体現するのが、周りで忙しく動きまわっている看護師たちだった。
 
集中治療室から運びだされる際、台車の上で仰向けに見た乳白色の流れさる天井の眺めが、心に焼きついた。同じような光景を10歳のときの鼠径ヘルニアの手術でも見た。でも、あのときは、手術前に読んだ手塚治虫の『ブラックジャック』の影響で、手術中の雰囲気が怖くて盛大に泣きじゃくっていたから、流れる天井には何も感じなかった。20歳のときには、包皮を失って下着の刺激になまなましく曝された亀頭の激痛を耐えしのび、ゆらゆらと歩いて帰ったから、このような流れる天井の光景に見放されていた。家に帰ってから何日も寝たきりになり(起きて動くと顔が歪むほど痛いので)、初めてできた恋人と性交できるようになるのを楽しみにしながら、下宿の動かない天井を苦痛に耐えながら見つめていた。読書できないくらい痛く、集中力が乱されつづけたため、天井を見つめながら、いろんなことを空想した。
 
金曜日に退院した私は、十年来の懸案と言える学位請求論文(博士論文)の作成に集中した。そうして半年ほどが過ぎて、その初稿は完成した。すぐに第二稿の作成に取りかかったものの、「同じ作業を続けすぎて心が塞がりそうだ」と思った私は、この博論のあとにどのような研究をするか考えてみると、良い気晴らしになるだろうと判断した。
 
私はさまざまな図書館に行って、いつもどおり文学や芸術や思想に関する書物を読みふけった。ふと思いたって、自分の発達障害の問題を理解するために学術書を読んでみても良いかもしれないと考えた。それまでは一般書ばかり読んで、発達障害について考えていたのだ。医療や看護や福祉に関する本を読むのは、ほとんど生まれて初めての経験だった。発達障害のことが、明確に理解されてきた。この過程を支えてくれたのは、A病院でケアをしてくれた看護師たちの思い出だった。彼女たちの世界をもっと知りたいと考え、発達障害に関係がない看護の本も読むようになった。読む量の比重は次第に文学、芸術、思想から医療、看護、福祉の本に移行した。
 
しばらくして「シリーズ ケアをひらく」という叢書を発見した。私のこれまでの研究は民俗学に少し重なっていたため、数年前、『驚きの介護民俗学』を読んだことがあった。この「シリーズは期待できる!」と思った私は、1冊ずつ購入して読むことにした。どんどん読んでいき、2020年のなかばには、ついに40冊近くすべて読みおえた。春に新しく出た『誤作動する脳』、『「脳コワさん」支援ガイド』、夏に新しく出た『食べることと出すこと』、『やってくる』もむさぼるように読んだ。
 
シリーズには、『発達障害当事者研究』(綾屋紗月・熊谷晋一郎)という本が含まれていた。一読後、私は「ついに発見した」と思った。「最高におもしろい発達障害関連の本を」発見したという思いもあったが、むしろ「自分の人生を変えるかもしれない本を」発見したと感じた。著者のふたりが10年以上前にやったような考察を、いまの自分がヴァージョンアップしたかたちでやることに、意義があるのではないかと考えた。『リハビリの夜』(熊谷晋一郎)という本も含まれていた。こんなすごい本を自分でも書けたらなと夢見た。そうして、私は夏に論文を書いた。その論文を全面的に改訂した書物として、翌2021年の春、『みんな水の中』が刊行された。
 
(横道誠「発達界隈通信!」最終回(第40回)了)

 

 

 

 

 

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みんな水の中

脳の多様性とはこのことか!
ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)を診断された大学教員は、彼をとりまく世界の不思議を語りはじめた。何もかもがゆらめき、ぼんやりとした水の中で《地獄行きのタイムマシン》に乗せられる。その一方で「発達障害」の先人たちの研究を渉猟し、仲間と語り合い、翻訳に没頭する。「そこまで書かなくても」と心配になる赤裸々な告白と、ちょっと乗り切れないユーモアの日々を活写した、かつてない当事者研究。

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