かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2021.6.21 update.
1976年京都生まれ。京都大学医学部卒業。JR東京総合病院、聖路加国際病院リウマチ膠原病センターを経て、現在、NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科部長。北里大学東洋医学総合研究所客員研究員。現代医学と漢方、両方を取り入れた診療を実践している。昨年9月に長男、曜穂(あきお)くんが誕生。本稿は初めて親となる津田氏の当事者研究(?)である。著書に、『未来の漢方』(森まゆみとの共著、亜紀書房)、『病名のつかない「からだの不調」とどうつき合うか』(ポプラ新書)、『漢方水先案内──医学の東へ』(シリーズケアをひらく、医学書院)などがある。
さて
あかんぼは
なぜ あん あん あん あん
なくのだろうか
ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでいるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな
「みんなもよびな」八木重吉 信仰詩集『神を呼ぼう』
赤ちゃんが泣く理由
新米のパパママにとって、子育ての最初の難関の1つが、泣きわめく赤ちゃんとどう向き合うか、であろう。おむつを替える、ミルクをあげる、ということで泣きやむのなら簡単な話であるが、夜も頻繁に泣き声で起こされ、寝不足のぼーっとした頭で考えると、この簡単な解決策すら思いつかないこともある。
医者の世界では、次の手が思い浮かばないときのために、あらかじめ「鑑別診断」の一覧表を用意しておくとスムーズで、一覧をチェックする習慣をつけておくと診断の“漏れ”がなくなる。心理的に追い込まれた状況では、とても視野が狭くなってしまい、普段なら容易に思い付くことにたどり着けなくなってしまう。チェックリストを外部化しておくことは、視野狭窄を解除して普段の水準に近付けることにかなり役立つのである。
では「泣く」原因のチェックリストをつくってみる。
①おなかがすいた
②おむつが汚れている
③眠りを妨げられた
④(ミルクを飲んだ直後)げっぷが出ずに苦しい
⑤体のどこかに痛みを感じている
⑥部屋の温度が暑い/寒い
⑦体の向きを変えたい
……このぐらいであろうか。
こうやってリストをつくってみると、いわゆる「生理的欲求」が多く、原因にたどり着ければ解決策もおのずから見えてくるなと思えた。生後1~2カ月のときは、夜泣きで睡眠時間が寸断される回数が多かったけれども、これら「生理的欲求」に応えることで泣きやむので次第に頭を悩まさなくなった。
疳の強い子とは
ただ、赤ちゃんによって泣く「閾値」には個人差があるようだ。いわゆる「疳(かん)の強い子ども」は、そうでない子どもに比べ、わずかなストレスが加わっただけで泣いてしまう。しかも泣き方に特徴があり、より響き渡る声で、高い声から低い声まで幅広い周波数帯を使って泣きわめくのである。これが、泣き声を聞く側の「カンに触る」わけである。
東洋医学では聞診(ぶんしん:問診ではない)といって、患者がどんな調子の声でしゃべるかを、診断につながる情報として重視するので、地下鉄やバスで子どもがぐずっている場面に出くわすと、私はついつい「ああ、疳の強い子だな」とか「まだ本気で泣いていないな」とか観察してしまう。「疳」という漢字は、昔は「肝」と書いた。つまり、人目をはばからずギャン泣きしている子どもは「肝」の臓の働きが強く、昂(たかぶ)っていると考えられてきたのだ。
小児科で漢方の専門ドクターに言わせると、そもそも子どもは「肝」の働きが高まりやすい生き物なのだそうである。人体の機能を支える5つの器官系「(五臓」)は、小児期において「二有余三不足」、すなわち2つの臓器は機能亢進を来しがちであり、残る3つの臓器は未熟なため機能低下となりがちである、という学説がある。
例えば、消化器系「(五臓」のうちの「脾」に当たる)は未熟であるがゆえに、ミルクしか受けつけず、容量にも限界があるので、昼夜を問わず2~3時間おきに哺乳が必要である。早産児では「肺」の成熟が生命予後を大きく左右し、泌尿生殖系「(五臓」のうちの「腎」)の発達は思春期までかかる、というわけで「三不足」は脾・肺・腎である。
OSが頻繁にアップデートされている状態
他方、「二有余」の肝・心は生下時からロケットスタートである。新生児の心拍数は普段でも120~140/分とされ、これはジョギングをしている大人並みの速さである。
そして「肝」であるが、東洋医学では腹部臓器のレバーだけを指すのではなく、神経系や免疫系も包含した一大ネットワークと捉えている。ヒトをヒトたらしめている巨大な脳は、その大きさゆえに出産を危険にさらしているが、出産を終えた後も脳は大変な勢いで発達を続ける。
パソコンにたとえればOSのメジャーアップデートが一日のうちに何度も何度もあるような状況だろう。当然、システムとしては不安定になっており、わずかなインプットがあるだけでメモリはオーバーフローしてしまい、異常で過剰な出力を返してしまいがちなのもやむを得ない。
新生児期は睡眠時間こそ長いが、睡眠の深さは非常に浅いといわれる。すやすやと寝ていると思っていたら、急に何の原因もなく両腕をパッと広げるモロー反射が出てしまい、それに驚いて目を覚まし、せっかく気持ちよく寝ていたのに起こされたとばかりに、大泣きしてしまうことがある。本当に何も原因がないのではなくて、大人には聞き取れないような、わずかな音に反応してしまったか、あるいは脳内で神経回路が新しくつくられて電気信号が流れたか、そういった要因が働いたのであろう。「肝」が強く神経系の成長力が大きいとはいえ、ゆっくり眠れないようでは気の毒に思える。
「カンが強い」親子と視覚優位社会
あまりにも「肝が強く」、昼夜を問わず騒ぎすぎて疲れ切ってしまう場合には、「抑肝散(よくかんさん)」という薬を処方するのだが、新生児に漢方薬を服用させるのは難しいため、母親に漢方薬を飲んでもらい、母乳を通じて子どもに投与する方法が古くから採られてきた。この方法はもう1つのメリットがある。子どもの夜泣きで母親も睡眠不足になってしまうと、イライラして「肝」が昂ってくる。そうした母親の状態も含めて改善が期待できるのだ。
余談になるが、「抑肝散」に似た名前の「抑肝扶脾散(よくかんふひさん)」という薬がある。これはかつて「神仙労(せんせんろう)」と呼ばれた思春期の神経性食思不振に使われた。身体イメージが歪み、極端に食事を減らしたり、リバウンドで過食に陥ったりする状態も、「カンが強い」ために起こると考えられたのである。厚生労働省の国民健康・栄養調査によると、20代女性の1日の平均摂取カロリーは、今世紀に入って1700kcalを下回っており、これは食糧難で餓死者も出た第二次大戦直後の数字よりも低い。日本の若年女性、妊娠適齢期の女性は総じて「カンが強い」と言ってよさそうである。
私の想像だが、最近増えているとされる「発達障害」は、「カンが強い」母親から生まれた「カンが強い」子どものことなのではなかろうか。ここで注目したいのは、西洋医学では「障害」と名付けられているものが、東洋医学では「強さ」とみなされている点である。私は漢方医として「カンが強い」大人の患者を外来で何人も診ているわけであるが、総じてインテリジェンスが高く、優れた視覚的認知を持っている人が多い(ただ、それゆえに体調の悪さを抱えてしまう)。
鍼灸医学の古典「黄帝内経」によれば肝は「目に開竅(かいきょう)す」、すなわち目の働きを司るとされている。母親世代が他者の視線を気にして食事の摂取量を減らし、生まれてくる次の世代が鋭敏な視覚的認知を生かしてネット社会を発展させているのだとすると、現代社会は大変な視覚指向社会である。「発達障害」とみなされる子どもの増加も、それに適応した現象と言えるのではないかと思う。
シンクロを崩すあやし方
さて、「抑肝散」の話に戻す。
この漢方薬を飲ませても、ぴたりと泣きやむものではない。それが現代医薬の鎮静剤とは違う点である。少しずつ落ち着いてくる感じで、夜泣きが減るよりむしろミルクを吐かなくなったり、体重が増えるようになったり、胃腸の具合がよくなるという“副作用”が実感されることもあるかもしれない。従って、泣き出してしまった子どもを泣きやませるには、結局あやすことになるわけだが、肝の働きが昂って泣いている場合は、あやし方に多少コツがありそうである。
肝の働きが過剰であるということは、神経系が入力に対して過剰な出力を返しているということであり、入力と出力の差分は、自身が生み出している。おそらく自分の発している泣き声や促迫する呼吸のリズム、筋肉の運動が、入力となってしまい、一種のハウリングのようになっているのであろう。うまく泣きやまないときは、だいたいあやす方も焦ってしまっていて、過呼吸になっている赤ちゃんのリズムに合わせて速いリズムで体を揺らせてしまっている。このように、あやす方の入力もシンクロしてしまうと、よりいっそう強い入力となりハウリングを強めてしまう。
このようなシンクロを抑えるには、わざとリズムをずらして体を揺らす必要がある。子守歌のリズムは、だいたいゆったりとしていて、シンクロを崩す効果がある。また、黙って抱きあやすよりも、声を発している方がよく、それも赤ちゃんのリズムとずらして声を発すると早く泣きやむ印象がある。歌を歌うのもよいが、私は歌に自信がないので赤ちゃんの泣き声をまねて、エコーのようにずらして発声するようにしている(最近、リモートで講演する機会が増えているが、器械の設定ミスで自分の話し声が少しずれてスピーカーから漏れてくると、とても話しづらい。おそらく赤ちゃんもタイミングのずれた泣き声を聞かされると泣きにくいのではないか)。
赤ちゃんと認知症――寝入りばなに泣く理由
これだけいろいろ工夫しても、どうしても泣きやまないこともある。実は空腹だったとか、おむつが湿っていた、といった「鑑別診断表」のチェック漏れがあると、まったく泣きやまない。生理的欲求は絶対的であり、小手先のテクニックを弄したところでまったく太刀打ちできない。もう1つは、寝入る前に泣くパターンである。
昼寝や夜の遅い時間、ほかに理由がなく不機嫌になっていると、あぁこれは眠いのだなと気付く。あたりを静かにして、照明を暗くすると、眠りに陥るのを嫌がるかのようにやや低い声で長く引っ張り、引きずるような調子で泣くのである。睡魔に抗わずにおとなしく寝ればいいのに、と思うのだが、まるでこの世の終わりを迎えるのを嘆き悲しむかのように切々と泣く。その様子は、生理的欲求の表現として泣くのとは明らかに異質に感じられる。
眠りに落ちるのをひどく嫌がったり、恐れたりする“症状”は、成人でも見られることがある。それはたいてい、認知症などで見当識障害がある場合か、終末期を迎えた患者さんで死の恐怖を抱えているケースである。
よく考えると、新生児は先述したように神経系が急速に発達していく途上であり、頻繁にシステムの更新が起こっている状態なので、記憶が日々積み重なっていかず寸断された状態であると思われる。私が朝出勤して、夜に帰宅すると、わが家の赤ちゃんは「どちらさまですか?」というような怪訝な顔で出迎えてくれる。これは半日以上も間が空くと、記憶が失われてしまうからであろう。それが証拠に、私たちは新生児の頃の記憶をたどることができない。脳のシステムが安定し、過去から現在に至るまでの記憶が一続きになるのは学童期、つまり物心付いた頃、ということになる。
赤ちゃんの脳は認知症にも似た状態であるとすれば、眠りに落ちる際に感じる悲しみと恐怖が入り混じった気持ちは理解できる気がする。今日がどんなに素晴らしい一日であっても、親しい人から笑顔で可愛がられた日であっても、その記憶は次の日には引き継がれない。睡眠は一日の人生の終わり、死を意味する。だとすれば、失われる記憶、身近な人と過ごした時間を惜しみ嘆くのも当然であろう。
“大いなるもの”に向けて
このような実存不安を力いっぱい表す子どもに、私はどう声を掛けたらいいのであろうか?「大丈夫だよ~」と言ってあやしても、本当に大丈夫なのか、実のところは確証がない。私たちに今日と同じような明日が来ると、なぜ言えるのか?現在の日本は新生児死亡率が極端に低いが、長い人類の歴史の中では例外的な状態であり、これまでずっと赤ちゃんは頻繁に命を落としていたのである。それに、医療関係者である私は、ひょっとしたら新型コロナウイルス感染症に罹患して、あっという間に命を落としてしまうかもしれない。そういう意味では、子どもの杞憂と単純に片付けられないものがある。
また、逆にこう考えることもできる。
私たちが死を迎えるときに感じる不安は、ちょうど赤ちゃんの寝入りばなの啼泣に似ている。私たちは神様か仏様か分からないけれども、何か“大いなるもの”に抱かれていて、「怖がらなくてもいい」「大丈夫だ」とあやされていても、恐れに支配された私たちの耳にはその声が入ってこない。私たちをあやす“大いなるもの”は、そんなに必死にならなくても、君の存在は滅びることはなく、次に続いていくものなのに……と思っているのかもしれない。
詩人が「みんなもよびな」と呼び掛けているのは、この“大いなるもの”の名を呼びな、ということなのであろうか?
(津田篤太郎「漢方医の赤ちゃん観察記」了)