かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2017.11.06 update.
日々の臨床のこと、学生時代の思い出、中南米のめずらしい食べ物、そして看護をめぐる世界の出来事まで、柔らかな感受性で縦横無尽に書き尽くしたブログ《漂流生活的看護記録》は圧倒的な人気を誇っていました(現在閉鎖中)。
その人気ブログを、なんと我が「かんかん!」で再開してくださるとのことッ! これはこれは大変な漂流物がやってまいりました。どうぞ皆様もお楽しみに!
私事ではあるが、この7月に父が心筋梗塞で亡くなった。
夜勤中に報せを受け、明けで東京から岡山にある実家に直行して入院先に行ってみると、PCPS(経皮的心肺補助)が入って透析も回していて人工呼吸器つき。LMT(左冠動脈主幹部)の完全閉塞という、ほとんどの場合起きれば即死、残りは救急車のなかで心停止かという状態だった。もともと丈夫な人だったとはいえ、よくぞ病院に到着して検査を始めるまで心臓動いてたなと。娘としては「なんとかならねえかな」と思いつつも、看護師としては「なんともなりそうにねえなあ」というのが正直な感想だった。
今日は決められない……
父は物心つく前に親を亡くしていて、育ててくれた親戚もほとんど亡くなり、つきあいもなかった。だから母方の親戚ばかりだったのだが、入院の知らせを聞いて、遠方からも集まった。こと父が娘以上にかわいがっていた姪たち(わたしの従妹たち)も毎日ICUに面会に来ては、「おじちゃーん、相変わらずかわいいねえ、手がむつむつでクリームパンみたいなのも相変わらずー」と撫で回し、母の妹や従姉妹たちもそろって「悪口言うたら起きるかなあ」と父を囲んでつつき回す。
お父さんモテモテやったんやねえ、とわたしが言うと「そりゃそうよー、かわいいこと言ってくれるんだもん」と、さすが女系一族にやってきたムコどの。とはいえ父をみんなで囲んで笑いながら話をしていても、みんなそれぞれに覚悟をしている最中だったのである。
母がある日、テレビの上に飾ってある写真を指差して、
「遺影はあれにしようね」
と言い出した。いろいろ治療を施され、輸血もかなりの量をいっていたし、昇圧剤だって2種類それなりの量が入っている。一つひとつの治療についても、わたしはその意味を説明してきたので、もう回復の見込みはない、ということが母にもわかってきたのかと思っていた。
そして入院から1週間経った日、そろそろPCPSを抜こう、という話になった。おそらくこの様子では、抜去後それほど経たずに心停止するだろう。しかし母は、
「わかってるんだけど、今日は決められない……」
と言うと下を向き、初めてしくしくと泣き出した。「待ってももう戻らないってわかってるんだけど」と。
父の足元には防水シートが準備されていたし、循環器内科の医師も3人ぐらい集まってスタンバイしていたのだが、その日は抜かないということになった。
小ぶりなだんじり
その翌日、夕方の面会時間にまた病院に行くと、担当の医師が言いにくそうに「実はさっきから瞳孔が開いていまして……」と言う。
「左右差はあります?」とわたしが聞くと、
「同大なんですよ、できればCTで確認したいんですが……それもかなり負担になることですし、もし希望があるなら」
わたしはわざわざCTを撮らなくても脳出血は間違いないと思っていたし、もし母や弟がやってくださいと言うなら止めるつもりでいた。しかし母も弟も「……もういいよね?」と言ったので少し拍子抜けした。それでも「やらないよりは」と撮影はしたのだが、各種器械を引き連れてベッドごと大人数でCTを撮りに行く姿を見ながら母が「小ぶりなだんじりやな……」と小さな声でつぶやいていたのを確かに聞いた。
結局、かなり広範囲に脳出血が起きていた。まあこれは予測されていたことであったし、画像として脳出血を見たことで、わたしたちも本当に納得した。全員に諦めがついたと言ったほうがよいかもしれない。その翌日からわずかにあった自発呼吸もなくなり、尿の流出が止まった。
そして入院から11日目、母と叔母が「ちょっと行って見立ててきて」とわたしに言うのでICUに様子を見に行った。心拍数はあるけど心電図の波形がなんや間延びしてきたから日が沈む頃まではもたんかも、と言ったら本当にそのとおりになった。そこではじめて家族から「さすが看護師やなあ」と言われた。15年この仕事してきて、やっと。
初七日のインスタ
葬儀を終え初七日まではバタバタとあっという間だった。わが家の慣習ではそこから七日ごとの逮夜を7回目の四十九日までお寺さんに自宅に来てもらって行う。毎回はさすがに来られないけど四十九日には戻って来るわ、と母に言うと「四十九日すぎてからもな、当分納骨せんで、お父さん家に置いとくけどいいかなあ」と言う。
「亡くなった患者さんのご家族でそんな感じで半年ぐらい置いとってな、最初のうちはいろいろ思い出して『なんで死んでしもうたんや』って悲しんでたんやけど、そのうちいらんことまで思い出してお骨見てても腹が立ってくるようになったんで『今が埋め頃だな』って思って納骨したって言うてた人がいるよ」
母は、「そんな日が来るんかなあ……来たらええなあ」と言いながら、仏膳の写真をスマホで撮っていた。
「インスタに上げとくねん。お父さん同じおかずが続いたら食べへんかったから」
毎日作って供えるので、記録に残して同じものを続けて出さないようにするためらしい。
ゴ、ゴヒャクマンエン!?
さて、父の死後に病院からきた請求書を弟と一緒に広げて見て、二人でギャー!と叫んでしまった。
医療費総額が入院から最初の4日間で(1点当たり10円なので)338万6720円、月が変わってそこから亡くなるまでの7日間で176万1610円で、合計で514万8330円。70歳以上だったため、月額の上限が4万4400円であり、支払金額自体は実費のおむつや死亡診断書、死後処置費用などを含めて総額11万円程度だったのだが、実際に支払う金額が安く済んだからよかったじゃないかという話でもない。
わたしはもう10年近く、遷延性意識障害や神経難病の終末期で人工呼吸器管理をしている患者のケアを仕事としている。父が入院したとき、最初にわたしが考えたのは「このまま回復して、うちの患者さんみたいになったらどうしよう」ということだった。実際にうちの患者は、第3次救急に搬送されて蘇生はしたものの、という人がほとんどだったからである。
こういった患者は近年「医療費の無駄遣い」などと同業者から(ときには蘇生させた側であるはずの救急医から)も、そしりを受けることが多く、なぜかケアする我々の側すら肩身が狭い思いをするほど批判されることもある。しかし実際に彼らの使う月々の医療費は大した額ではなかったりする。持病が悪化しても特に積極的な治療を希望されるわけでもないし、病棟の人員配備も低く、人件費もあまりかからない。
そういう医療費請求をここ数年見慣れていたせいか、父の請求書を見て驚くとともに、ああ、医療ってお金がかかるものだった、と思い出した。脳出血が判明してからは積極治療は差し止めてもらったのだが、そこまでは普通に生かすつもりの治療をしていたのだから、最初の4日間の約340万円と、月が変わってからの数日分のお金はそういう費用である。
一人ひとりの医療費はトントンかも
生かすためにつぎ込む医療のほうが、死なせるまでの医療よりもはるかに高くつくんだろうな、と思う。父の場合はもうすぐ後期高齢者になろうという年金生活者の心筋梗塞なので、それなりだったのだろうとは思う。でもこれが20代や30代の、まだ小さな子どもがいる、働かねばならない、という人の病気や事故だったら、それこそ救命救急でも生かすつもりでさらにどんどん医療をつぎ込んでいたかもしれない。それは心情的にも、それこそ医療経済学的にもごく当たり前の判断だとは思う。
寝たきりの高齢者が医療費を食いつぶす、と思われるのは、さらにその(たいした金額でないとはいえ)医療を受けながら生きるであろう期間が決して短くはないと予測されている、そして今後の高齢者の爆発的な増加の見通しがキッチリ立っていることも不安をあおるからだと思う。しかし今回父の件では、ごく普通に生活している人の場合、人生の期間中に集中する時期が多少違うぐらいで、もしかすると死ぬまでに使う医療費の総額はそれほど大差はないのではないかと思った。
医療費総額の半分はレセプト点数上位5%の人々が使っている、そして医療費のほとんどは死ぬ前の1週間に消費される、というある病院の報告を十数年前に読んだ記憶がある。なにぶんにも十数年前なので数字の記憶はかなりあいまいだし、今とは状況も変わってきていると思う。ただ、こういうデータをもっと大規模に取れないか、取れたらもう少し具体的に「医療費削減」について考えられるんじゃないかなと思っている。
(えぼり「漂流生活的看護記録」第12回 了)