かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2016.2.26 update.
斎藤環………筑波大学教授/青少年健康センター参与=司会
野口裕二……東京学芸大学教授
信田さよ子…原宿カウンセリングセンター所長
向谷地生良…北海道医療大学教授、べてるの家
レポート=『精神看護』編集室
2015年10月17日、公益法人青少年健康センター★1の主催で「オープンダイアローグ――フィンランド発の“対話による治療”」と題された講演とシンポジウムが、筑波大学東京キャンパス文京校舎で行われた。
講演開始の午後1時前には、会場は聴衆でびっしり埋まるという盛況ぶり。
定員は200名だが、申し込みが殺到し数週間前には締め切られたという。
これほど注目されるオープンダイアローグについて、4人の講師陣は何を語ったのか。編集部がレポートする。
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総論 オープンダイアローグとは何か
斎藤環氏[筑波大学教授/青少年健康センター参与]=司会
最初に斎藤氏が語ったのは、オープンダイアローグを知ったときの衝撃である。
まず対話で精神病を改善・治癒するということ。これは精神科医にとって大げさにいうと傷つけられる体験というか、「俺が今までやっていたことは一体何だったんだろう」となる経験です。
本当はあまり薬なんて使いたくないけれど、使えと教科書に書いてあった。病院でもそうしろと先輩から指導された。だからしょうがなくやってきた……。
そんな思いがある精神科医にとって、オープンダイアローグはホッとすることでもあり、衝撃でもあり、傷つけられもするという経験だということです。
続いて、診断や治療方針に固執しない、スタッフミーティングがない、本人の目の前でカンファレンスをする、チームで面接をする……など“衝撃”の理由となった要素を10近くあげた。なかでもチームで行う面接については、「個人精神療法というのは、ひょっとしたら100年前にフロイトが変な方法を発明しちゃったんで、なんとなく続いてきてしまった悪い習慣かもしれない。そんな疑惑すら私はいま持っています」と述べて会場を沸かせた。
斎藤氏は、現在YouTubeで無料公開されているダニエル・マックラー監督によるオープンダイアローグのドキュメンタリー映画や、この8月にフィンランド・ケロプダス病院に見学に行ったときの写真を見せながら、オープンダイアローグの成果、手法、理論を簡潔に説明。オープンダイアローグは「医療資源に乏しい地域で、手探りでニーズに答えて彫琢されてきた、お金のかからない治療法」であることを強調した。
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ナラティヴとオープンダイアローグ
野口裕二氏[東京学芸大学教授]
続いて壇上に立ったのは、野口裕二氏。オープンダイアローグの主柱の1つであるナラティヴアプローチ研究の第一人者である。野口氏もオープンダイアローグを知ったときの衝撃から話を始めた。
去年の春ごろ、オープンダイアローグの論文をまとめて読んだら、久々に興奮してしまいました。だから先ほどの斎藤先生の興奮がよくわかるんです。
じつは私は10年くらい前にこの論文を読んでいたんですね。セイックラという名前に見覚えがあったので、昔取った論文コピーの山をひっくり返したらやっぱりあって、おまけにたくさん線が引いてあったんですね。
きちんと読んだけれど何かに引用したりしたことは一切なく、さらに、読んだことさえ忘れていたんです。
「10年前にはその素晴らしさが理解できなかった」のはなぜなのか。理由の1つは、リフレクティングチーム★2の“ちょっとした応用版”程度にしか見えなかったから。しかしそれ以上に大きかったのは、「ミーティングの場に愛の感情が共有されるときに治療的効果がある」という論文についていけなかったからだという。「愛って言っちゃおしまいでしょう」と。しかしこれこそが、専門職が囚われている「感情中立性」という名のドグマだったのかもしれないと野口氏は述懐する。
これは従来の臨床理論が慎重に避けてきた「専門家というのは感情中立的でなくてはいけない」というある種のオブセッション(強迫観念)、あるいはドミナントストーリー(支配的な物語)かもしれません。この論文でセイックラは、中立どころかむしろ積極的な愛が重要なんだと言っています。
ただ間違ってはいけないのは、「だから愛を持って患者さんに接しなさい」と言っているのではありません。そうではなくて、ミーティングをやっていくなかで愛の感情が生まれ共有される瞬間がある。それが大事なんだということです。
おそらく多くの臨床家たちは、うまくいったセッションにはそれに近い感覚を持っているのではないでしょうか。
ところで、同じく対話をベースとするナラティヴアプローチとオープンダイアローグだが、この2つはどこが違うのか。
野口氏は、①ネットワークの再生を直接目指す、②言葉を持たない経験に言葉を与える、③感情を重視する、という3点でオープンダイアローグはナラティヴと違うと述べ、なかでも①には大きな衝撃を受けたという。
普通は患者さんがある程度回復してから社会復帰を目指す。ところがオープンダイアローグでは、家族や友人など、患者さんのプライマリーなネットワークを直接再生していく。つまり最後に復帰すべきとされていた所に、最初から行ってしまうわけです。
これはある意味コペルニクス的というか、目からウロコでした。これも10年前には理解できなかったことです。ということは、ネットワークの再生というのは回復のための「手段」ではなく、それ自体が「目的」なんですね。
かつて私がかかわったことのある「ネットワークセラピー」も、ネットワークを変えることによって個人に変わってもらうという意味で、ネットワークは目的ではなく手段でした。ナラティヴアプローチでもやはりどこかで1対1の医療者-患者関係が前提にあって、そこである程度回復してから、なんとか行けそうになってから社会に復帰するというプロセスがやはり前提にあるように思います。
従来、回復のための「手段」とされていたことが、じつは「目的」であったという驚きがここにはある。〈ネットワーク〉という言葉を〈対話〉に入れ替えれば、オープンダイアローグは「対話という手段で病気を治す」のではなく「、対話自体が目的」だという結論もまた導かれるだろう。
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カウンセラーからみたオープンダイアローグ
信田さよ子氏[原宿カウンセリングセンター所長]
野口氏から「ここまでの2人がオープンダイアローグを誉めすぎたので、きっと次の方が水を差してくれるでしょう」と紹介され、3人目の信田さよ子氏が登壇した。
開業カウンセラーの草分け的存在である信田氏は、DVや虐待の被害者支援・加害者対応、グループカウンセリングの活用、自助グループとの協働など、当事者の語りの力に自覚的な実践を重ねてきた臨床家だ。それだけにオープンダイアローグに対しても違った角度からの感想があるかもしれない。信田氏は、期待通り(?)こう切り出した。
私はオープンダイアローグを知った時に、正直、目からウロコも落ちなかった。「え、何が新しいの?」みたいな感じ。私の読解力が足りないんじゃないかと思って、きのうもう一度読み返したけれど、それは変わりませんでした(笑)。
それはもしかして、私のなかで抵抗が生じたからなのかもしれません。臨床における自分のアイデンティティはどこにあるかといえば、公的相談機関(パブリック)と精神科医療(メディカル)という大きな山の谷間に咲いた白百合のように、ニッチで生きること。これが私たち開業心理相談機関の宿命であるとずっと思ってきました。
ところが斎藤先生の『オープンダイアローグとは何か』を読んで、メディカルの山が崩れかけているんだなぁと。山が高くて初めてニッチの意味があるのに、山が低くなったら存在意義がなくなってしまうと。
新しさを感じなかったのは、大学院時代の心理劇からずっと集団療法の道を歩んできたからではないかという。1対1幻想はもともと持っておらず、医療的なアプローチにも近づかなかったからだ。
それでも信田氏は、オープンダイアローグには大きな意味があると強調した。1つは、すでに行われていたことに名前が与えられたことだ。
今私たちのセンターは家族の紛争処理の場となっています。その結果、増えているのが夫婦面接なんですね。そういう時、クライアントの面前でファシリテーター同士が方針を確認し合ったり、相談することがあります。
これはオープンダイアローグでいえばリフレクティング・チームに近く、『オープンダイアローグとは何か』がすごく参考になりました。名前が付くことによって、意識化できるようになるのです。
グループを1人で担当する時と2人で行う時では、ファシリテーターのあり方は全く違うという。感情中立性という意識はないにしても、1人で担当している時は「私が崩れたらグループみんなが崩れる」という意識がどこかにあり、感情的な距離をとるようにしているそうだ。ところがファシリテーターが2人だと、もう1人がいるから自分は感情に押し流されてもいいという気持ちになる。オープンダイアローグ的にいえば、そこから生まれるビビッドな応答性こそがクライアントにとってもよい効果を与えることになるのだろう。
アディクションの自助グループには「言いっぱなし聞きっぱなし」という原則があるが、一方でオープンダイアローグでは「応答」が要請される。この違いについては次のように述べた。
AAとか断酒会とかNAとかの自助グループは、ある種の共通言語をすでに持っている。言葉を共有しているからこそ、言いっぱなし聞きっぱなしに意味がある。
一方でオープンダイアローグでは共通言語を探索している集団なので、そこはやっぱりまず応答するのが必要なんじゃないかと思います。
さらに、臨床現場でつかんだ感覚をこう表現した。
言いっぱなし聞きっぱなしで話しても、そこで語られたことはすべて上空のiCloudに保存されているんですよ。ですので私たちはその言葉をただ聞いていればいいし、もし聞きたくなければ聞かなくたっていい。
どちらにしてもそれらは、モノローグの集積としてiCloudに保存され、皆に共有されていくのだから。
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べてるの家のオープンダイアローグ
向谷地生良氏[北海道医療大学教授、べてるの家]
最後に登壇したのは向谷地生良氏。北海道浦河(うらかわ)町にある精神障害者のコミュニティ「べてるの家」の創設者である。「手を動かすより口を動かせ」をキャッチフレーズにしているべてるの実践は、いうまでもなく対話ベースである。毎日さまざまな場所で幾度となく行われるミーティングはオープンダイアローグそのものとさえいえる。
向谷地氏は、前講演者の信田氏と出会った時のエピソードから話を始めた。それは向谷地氏が『べてるの家の「非」援助論』、信田氏が『DVと虐待』―それぞれの本を医学書院の会議室でそれぞれカンヅメになって書いていた時のことだ。昼休みになり、ランチブレイクで2人は雑談を交わした。信田氏は向谷地氏にこうこぼした。「アディクション(依存症)の支援者は統合失調症のケアはできないと言われているんですよ」。すると向谷地氏は即座に「それは逆じゃないですか」と応えたという。
アディクション領域でずっと担われてきたこと、つまり「語ること」「仲間の力」あるいは「専門家の無力さ」を背景にしたアプローチこそが、今の統合失調症治療や精神科医療に一番必要なのではないか。
私は『べてるの家の「非」援助論』を書いていたその時から、ずっとそう主張し続けてきたんです。
「語り」をベースにしたオープンダイアローグと、べてるの家の発想は近い。たとえば先に野口氏は「回復してからネットワークにつながるのではなく、ネットワークそのものを再生する」と語ったが、まさにべてるの家は回復してからではなく、「病気のまま、まず商売しよう」と立ち上がった共同体である。
べてるの家ではさらに、ネットワーク(=仲間)が治療システム内に入り込んでくる。そしてオープンダイアローグでも重視される肯定的なフィードバックも常識化している。
べてるでは、メンバーがカンファレンスが必要だと思うと自分からリクエストして開催するんです。そのカンファレンスには、好きな人に勝手に参加してもらうことができる。そういう、かなりいい加減なカンファレンスです(笑)。
よく「個人情報保護はどうなるんですか」と聞かれますが、人に言いにくいこと、言えないことってほとんど大事じゃないです。言いやすいこと、言ったらみんなが元気になることこそが大事なんです。
向谷地氏は現在いくつかの精神科病院で、医師に「最も難しい患者さんを紹介してください」と頼んで、その人たちと一緒に当事者研究をしている。おはようと言ったのに「あっち行け」と聞こえ、ニコッとしたら「睨まれている」と感じてしまうような、なんとも表現しようもない世界に生きている人たちと一緒にその世界を歩き回り、探索し、その人がどんな感覚で日々生きているかを発見するのだ。相手にしかわからない世界を「研究」するのだから、向谷地氏は患者さんにあれこれ質問することになる。
ある患者さんは、民話のなかに出てくる山姥(やまんば)との戦いに明け暮れて、現実的なコミュニケーションをとるのが難しい方でした。
そこで私たちもその壮大な物語のなかに入り込み、一緒に抗争の世界を眺めながら「ちょっと教えてください。これとこれの戦いはどうなってるんですか」と聞く。それを書き出して、一緒に考えていく。するとだんだん「抗争の物語」が「和解の物語」に変わっていくんですね。
最後に彼は、山姥に結婚を申し込まれてしまいました。これはさすがに断ったそうですが。
面白がって、興味本位で、Why(なぜ)ではなく、How(どんなふうに)で聞くのがポイントのようである。
そうしたら突然麗しい女性が出てきて、患者さんに「それやめといたほうがいいよ」とか「お薬飲んだ?」とか囁いてきた。
つまり自分の身の回りを世話人としてサポートする新しい幻聴さんが育ってきて、今はその女性に支えられながら、退院を目指しています。
わかりにくい世界に一緒に入り込み、その世界の意味を解き明かし、共有する。その時、妄想という症状は全く変わらないにもかかわらず、はるかに生きやすくなっているという実例である。
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◆シンポジウム再録
以上、持ち時間の30分をそれぞれオーバーする熱のこもった講演の後、全員が登壇しシンポジウムに移った。さまざまなテーマが話し合われたが、ここでは「話の聞き方」に絞って報告したい。
カール・ロジャースは、統合失調症の人に徹底した“傾聴”をベースにして対応したらうまく行かなかったという。聞いているようだけど、腹で何を考えているかわからない。そんな“お客さん”(自己否定的な認知)が、患者さんの頭のなかにやってくるからだと向谷地氏はいう。
「言ったことに対して面白かったのか、違うと思ったのか。こちらが常にレスポンスしていかないと、患者さんのなかでどんどんイメージが悪いほうに傾いてしまい、その場にいられなくなるんです」
まとまりのなさに気持ちが泡立ってくる感覚の人にとって、対話とは、自分の感覚の確かさを再確認するものらしい。ではどうやって患者さんと対話を続けていけばよいのか。斎藤氏は向谷地氏の山姥のエピソードを例に、「面白い」がキーワードだと指摘した。
「好奇心を持って聞くということは、違和感と同時に肯定感を表明していることでもある。未曾有の経験であると同時にそれを肯定している。この2つの契機がないと、そもそも対話は始まらない。対話というのは差異性と同一性を相互確認しながら進むものなのだと思う」
これを受けて野口氏は、「無知の姿勢NotKnowingApproach」を編み出した米国のハロルド・グーリシャンという臨床家の逸話を出した。
どこに行ってもうまく行かなかった統合失調症の患者さんと出会ったグーリシャンは、好奇心を持って彼の妄想(恐ろしい伝染病)についてさまざまなことを尋ねた。いくら専門家であっても当事者であるあなたの経験したことは知らないという無知の姿勢で、だ。後で語ったことによるとその患者さんは、初めて自分の話をまともに信じて聞いてくれる人に出会ったと思い、自分のことを話したくなったという。それ以来、伝染病の話はあまりしなくなったそうだ。
結局、当事者のなかに「聞かれた感覚」が生まれるかどうかがポイントだと向谷地氏は言う。オープンダイアローグで「応答すること」が要請されるのも、おそらくそのためであろう。では、対象者の特性からあえて応答を禁止する「言いっぱなし聞きっぱなし」はどう理解したらいいのか。
ここで信田氏のiCloud論が効いてくる。語られたことすべてはiCloudに保存されており、上空で共有され、いつか誰かがそれを引き出して聞くだろう。つまり「言いっぱなし聞きっぱなし」と「応答せよ」を対立させて理解するより、応答のストロークが違うにすぎない、と考えてもいいのかもしれない。
今回の講演会とシンポジウムは、ひきこもりなど社会的に開かれた問題を主に扱う精神科医(斎藤氏)、アディクションやナラティヴの革新性に着目する臨床社会学者(野口氏)、グループをベースに心理学に収まらない実践を重ねている開業カウンセラー(信田氏)、奇しくも北の僻地でケロプダス病院と同様の実践を続けてきたソーシャルワーカー(向谷地氏)という微妙に立場の違う四氏が自由に語り合う、極めて刺激的かつ「オープン」なダイアローグ・イベントだった。
★1 青少年健康センターは、不登校・無気力・ひきこもりなど、青少年の問題行動に取り組む公益社団法人。若者の居場所づくり(茗荷谷クラブ)、電話や面接相談、相談的家庭教師の派遣や訪問活動などのほか、講演会・シンポジウムの開催など多岐にわたって活動している。
平成22年から、子ども・若者育成支援推進法が施行されるなか、文京区・世田谷区より委託
を受け、事業を運営している。なお今回のイベントは、公益財団法人JKAの助成を受けて実施された。
★2 リフレクティングとは、クライアントの目の前で、専門家同士がカンファレンスをする手法。通常とは逆に、クライアントの側が専門家を観察する形になる。
このレポートが掲載された『精神看護』の最新号がこちら⇒
◆◆◆特集2 日本でできるの? オープンダイアローグ
いま話題のオープンダイアローグ。今回の特集テーマは「日本でオープンダイアローグはできるのか?」。やれない理由を列挙するのは簡単ですが、今回は、やるためにはどうすればよいかを見つけていこうとする企画です。
2015年末に、日本で初めてケロプダス病院のスタッフ、カリ・バルタネンさんとミア・クルティさんを招いてのオープンダイアローグセミナーが開催されました(主催:オープンダイアローグネットワークジャパン)。
まず最初に、その講演の目玉を斎藤環氏に解説いただきます。会場参加者とカリさん、ミアさんとの間に交わされた質疑応答も紹介します。
次に、フィンランド・ケロプダス病院で研修を受け、トルニオの街を自分の足で歩いて感じたことを三ツ井直子氏に。そして、フィンランドとの違いを超えて日本でどうすればオープンダイアローグが実践できるかを森川すいめい氏に論じていただきます。