第3回 専門性を〈ほどく〉(1)by 西村高宏

第3回 専門性を〈ほどく〉(1)by 西村高宏

2015.4.09 update.

西村 高宏(にしむら たかひろ) イメージ

西村 高宏(にしむら たかひろ)

東北文化学園大学教員。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了(文学博士)。「てつがくカフェ@せんだい」主宰。専門は臨床哲学。
哲学以外の研究者や様々な職業従事者と連携し、医療や教育、科学技術、政治、アートなどのうちに潜む哲学的な諸問題を読み解く活動を行っている。2011年3月11日以降は、「せんだいメディアテーク」と協力しながら、震災という〈出来事〉を〈対話〉という営みをとおして自分たちのことばで語り直すための〈場〉を拓いている。ポール・ボウルズとパンク・ロックをこよなく愛す。執拗なまでのモロッコへの偏愛傾向あり。

震災以降、もっとも辛かったこと

 

 貧相で、窮屈な〈支援〉観……。

 

 震災以降、もっとも苦しかったことは何ですかとよく訊かれることがあります。そういったとき、私はいつも、決まってそのようにこたえてきたように思います。

 

 震災という〈出来事〉を前に「あなたには何か支援ができるのか、できないのか」、そういった〈できる/できない〉といった一つの判断基準からだけで遺された者の多くが一気に試され、自分の立ち位置や能力についての問い直しを迫られ、裁かれ、それなりに傷つけられていることに対してあまりにも無頓着ではないのかと、震災直後は本当に心配でなりませんでした。そして、そういった窮屈さはすぐさま反転し、被災地(者)に対して物資を送ったり瓦礫の撤去をおこなったりするような「実効性や即効性があり、しかも結果の見えやすい支援」以外は〈支援〉ではないといった、ひとつの凝り固まった〈支援〉観へと結晶化していくようで、本当に怖かった記憶があります。 当時、巷でよく耳にした「いま自分にできることをやる」などといった呪文にも似たスローガン的な物言いは、震災という〈出来事〉への私たちの係わり方が〈できる/できない〉といった切り口以外にはイメージすらできないことを皮肉にも物語っていたのではないでしょうか。そこには、貧相な〈支援〉観、多様性の欠如という息苦しさ、さらには経済的・身体的などの様々な理由から直接的で実効性のある〈支援ができない〉者たちが申し訳ない気持ちで震災のなかを生きるという、一層厄介な事態が二次的に生まれていたような気がしてなりません。

 

わたしたちは、震災直後からずっと違和感を抱き続けてきたこの凝り固まった〈支援〉観についても、「〈支援〉とはなにか?」というテーマ設定のもとに、2011年9月25日に開催した第3回「考えるテーブル てつがくカフェ」のなかで、80名以上の参加者(被災者の方々も)とともにその問題性について問い直しました。ちみにその回では、震災直後から〈支援〉の意味について考え、また災害ボランティア・ナースとして被災地(石巻)に赴いて積極的に〈支援〉活動を行なってこられた看護師の方をゲストに迎え、「時間を共有すること」、「寄り添うこと」、「関心を向け続けること」などをキーワードに対話を深めました。対話が深まるにつれて、個々の参加者の〈支援〉観の違いがゆっくりと際立っていき、参加者個々人の考えも逞しくなっていきます。この時期にそのようなプロセスに立ち会えたこと自体、とても素晴らしい経験だったように思います。

 

イメージに苦しめられる?

 

 貧相な〈支援〉観のもと、すべての人が一気に試されるという状況のなかで、興味深いことに支援に関する専門的な知識や技能をもっとも備えているとも言える看護師の方々が、逆に、さまざまな文脈において自らの専門性について戸惑い、またそれに対する問い直しを余儀なくされておられたように思います。  そのような問い直しの作業を看護師にしつこく迫る背景のひとつに、本連載の「第1回〈対話〉のチカラ(1)」のなかでも紹介した、被ばくを恐れて職場から避難した福島県南相馬市の看護師さんたちに突き付けられていたような、看護という〈専門職〉に特別纏わりついているかにみえる「美徳」、すなわち看護師という職業にべったりとへばりつく「使命感」や「忠誠心」、さらには「献身的な行為」といった職業上のイメージに因る厄介さがあるように思います。  もちろんそれだけではありません。これまで、被災地支援に入られた看護師の方々と「てつがくカフェ」を進めていくなかで徐々に明らかになってきたのは、専門性を保証する特別な知識や技能を備えており、またそれらをどのような状況においても十分に発揮することができる(はずである)という看護師の理想的な姿と、現在自分自身が置かれている現状とのあいだに覘く微妙な〈ズレ〉に基づいた戸惑いです。「そもそも看護の専門性とは何か」という継続的なテーマが浮上してきた背景には、このような、被災地支援に赴かれた看護師の方々の独特の〈戸惑い〉があったからとも言えます。

 

 医師や看護師などといった専門職と呼ばれる人たちは、誰にでもできるわけではない専門的で特別な知識や技能(能力)を備えているだけでなく、一般の人たち以上に、困った人たちをケアしたいという志もしくは意欲を備えていなければならない。これは、看護師本人だけでなく、一般の人たちが看護師に対して抱くイメージ像とも言えます。それだからこそ、震災時、看護師は、一般の人よりも余計に、何をさしおいても他人のために行動すること/できること/したいという心構えが求められ、またそのことを自分自身にも強く課しておられたのかもしれません。この面倒な理想的なイメージ像と、被災地での自分自身の状況との狭間で、多くの看護師が自らの専門性に対する戸惑いの声を挙げておられたのかもしれません。

 

「私は、看護師ではありませんでした。」

 

 たとえば、昨年の11月8日、日本赤十字看護大学広尾キャンパスにて行なった「てつがくカフェ~震災と看護」のなかで、ある参加者の方が、被災地支援に赴いた知人の看護師の話を例に、次のような専門性に対する戸惑いを述べられました。

 

「震災のとき、すごく切羽詰まって、自分も何かしなきゃって考えて、ご自分の仕事を辞められて、わざわざ東京から被災地に支援に来られた看護師さんがおられたんです。それで、その方が、『私は(被災地では)看護師ではありませんでした』っておっしゃるんですよ。もうびっくりして。よくよく聞いてみると、『私は被災地に行っても(何か専門的なケアをするわけではなく)、ただ被災地の方々のお話しを聞いていただけで、そのとき自分は看護師ではなかったのでは』、と疑問を抱かれたとのことでした……。『私、被災地の現状を見て何かしなきゃと思って来たんですけど、実際は何もしてないんです』っておっしゃるんです。」

 

「自分の仕事を擲って、そのことで周囲の目とかいろいろと思い悩み、気にかけながらも被災地に来たにもかかわらず、結局、『自分が被災地でやっていることは看護じゃない』みたいなことを言い出すってこと自体、逆に、そういう看護とか専門職、看護における専門性みたいなものの定義が被災地に赴いた看護師個々人のあいだで、きっとちょっとずつ違ってたりして、そのことで逆にまた苦しむみたいな、それもすごく大事な問題のように思うんですよね。」

 

「それでわたし、その方に 『それも看護なんじゃないですか』、『看護師として大事なことじゃないんですか』みたいな話をしたんです。でも、話を聞くうちに、『それって看護師じゃなくても誰にでも、なんて言ったらいいか、隣の近所の奥さんにでもできるじゃないですか』みたいな話になって、『それは別に、看護師としての私じゃなくったってできるんですよ』みたいにきり返されちゃって……。」

 

「てつがくカフェ」に参加してくださった看護師の方々のなかには、実際に被災地に行って、自らの専門性を発揮できずに逆に思い悩んだり、妙な負い目を感じたという声が思いのほか多いように思います。このエピソードを話してくださった看護師さんは、昨年の3月に、京都にある訪問看護ステーションで開催した「てつがくカフェ~震災と看護」(2014年3月16日開催)に参加してくださったある看護師の方の発言もその場で紹介してくださいました。その方もまた、東日本大震災の被災地に災害支援に入ったときに感じた自身の専門性への戸惑いを話しておられています。

 

「さきほどの話のつながりで思い出したんですけど、大阪から福島県の南相馬のほうに支援に行ったある看護師さんがおられたんですけど、その方が、『被災地に行っても私はとくに専門的に何かができたわけではなくて、ただ周りのスタッフを笑わかすことしかできなくて、ただ笑わせるために何をしようかと考えて、大阪のたこ焼きを一生懸命焼いて笑わしてた』っておっしゃったんです。『でも、私はそのとき、はたして看護師をやっていたのかどうか……。いや、看護師じゃなかったのかな』って、その方は、大阪人気質でしょうか、笑いを交えて話されておられましたけど、とても戸惑われておられたようにも感じました。『たこ焼きを焼いて笑わせることぐらいしかできませんでした』みたいな言い方で……。それで私は、『それは看護師としても大事なことなんじゃないですか』みたいな話をその方にもしたのですが、最終的には、『いや、でも私が思っていたのはそうではなくて』みたいに呟かれて、そのまま押し黙ってしまわれた。ここでもやはり、専門職としての看護のイメージというか、確固とした看護の専門性についての理想やイメージが一方にはあって、それといまの自分の現状との〈ズレ〉が問題になっているのかなって思うんです。」

 

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写真:2014年3月に京都の訪問看護ステーションにて開催した「てつがくカフェ~震災と看護」の際のファシリテーション・グラフィック(近田真美子による)。

 

専門性を〈ほどく〉~距離をとらなければ見えてこないものがある!?

 

とはいうものの、そもそも看護師の専門性の在り処を探りあて、またそれらを明確な言葉遣いによって定めることなどできるものでしょうか。それ以前に、被災地に赴いた看護師の方々にあの何とも言えない戸惑いを植え付けた看護の専門性なるものが、確固としたかたちで存在し、またそれらが看護師のあいだでしっかりと共有されているとはたして言えるでしょうか。いずれも、相当怪しいものです。しかし、被災地支援に入られた多くの看護師の方々が、その専門性によって何らかの〈負い目〉を抱かれたというのもまた事実です。そして、さらにそれがさまざまな職業上のイメージをもとにかたちづくられた、実体のない、しかも無批判に個々の看護師の行動を測る厄介なモノサシのような代物でしかないのだとするならば、わたしたちは、ただちにその専門性を問い質し、なにをおいてもそれらをいったん解(ほど)いてやるべきなのではないでしょうか。

 

ここで私が「専門性を〈ほどく〉」という言葉遣いで言い当てようとしているものは、端的に言えば、曖昧であるにもかかわらず無批判に用いられている言葉遣いやイメージ、あるいはその前提に対して「そもそもそれは何なのか」、あるいは「なぜそのようなことが言えるのか」などといった遡行的な問いを投げかける  これこそが哲学の営みと言えます  ことで、そこからしっかりと〈距離をとれる〉ようにする、そういった試みのことです。

 

看護師は、単なる素人のボランティアとは異なって、健康面においてとくに困難な状況に置かれている被災者の方々に対して、まさにその専門性を活かした何らかの支援(ケア)ができる存在に違いないという思い込みが多くの人たちには存在しているのではないでしょうか。そこには、なにか看護の核とでもよべそうな、看護独自の専門性が存在しているといった前提が見え隠れしています。それは、はっきりとは見えないにもかかわらず、あるいははっきりと見えないからこそ、妙な強度をともなって看護師の方々に〈負い目〉の感覚をしっかりと植え付けるのです。それは、とてもタチの悪いもののように思われます。

 

無前提に強張ってしまったタチの悪い専門性を〈ほぐす〉必要があります。そのためにも、まずはそれをいったん〈ほどいて(解いて)〉やらなければなりません。わたしたちは、その〈ほどく〉ための一番の起爆剤を、すでに紹介した「哲学的な対話実践(てつがくカフェ)」のうちに見定めています。なぜなら、哲学こそがそういった自明の事柄や、何の根拠もなく凝り固まってしまったタチの悪いイメージを徹底的に問い直し、そこから私たちを引き剥がしてくれる唯一の営みと言っても過言ではないからです。

 

「哲学はわれわれの思考の中の結ぼれ(knots)を解きほぐす」。
(Ludwig Wittgenstein,.Philosophical Investigations, translated by G.E.M. Anscombe. Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall,1958, sec.67.)

 

哲学の役目とは、私たちの中の「結ぼれを解きほぐすことである」とヴィトゲンシュタインも言っています。 われわれが当たり前だと思っていちいち疑わないような自明な事柄からいったん距離をとり、「そもそもなぜそのようなことが言えるのか」などといった根本に立ち還る遡行的な問いを投げかける哲学の営みこそが、強張ってしまった前提を、ヴィトゲンシュタインの言葉を拝借すれば「思考の結ぼれを解きほぐす」ことができるのです。距離をとらなければ見えてこないものがある。いえ、距離をとるからこそ、はじめてそれが自分の目の前にはっきりと見えるようになるのです。専門性を〈ほどく〉作業は、私たちが臨んでいる専門性をマッサージする(ほぐす)ための重要な〈下拵え〉とも言えます。このことについては、第5回「専門性を〈ほぐす〉」のなかで詳しくお話する予定です。

 

「専門職(profession)」って何?

 

 看護の専門性を根本的なところへ立ち還って問い直すためにも、まずは、「専門職(profession)」と呼ばれる職業が、これまで学問的にどのような切り口から理解され、また特徴づけられてきたのかを確認する必要があります。

 

たとえば、専門職としての医師は、長期にわたる教育訓練などを通じて、高度に体系化もしくは理論化された「特殊で専門的な知識や技能(exclusive expertise)」を備えた存在と言えます。またそれらは、「制度化された専門的知識・技術(institutionalized expertise)」でもなければなりません。このことは、裏を返せば、それ以外の職種の人間や社会が、その専門職の職務内容や職務遂行の是非に関して干渉することがもはや困難である、ということをも同時に意味していると言えます。すなわち、専門職の扱う知識は特殊な知識であるがゆえに、その同業者たちがどのように行動すべきかについて最も熟知し、また不正な行動が行われた際にも、それに対してもっともよい判断や対処の仕方を心得ているのは当の専門職集団内のメンバーたちでしかありえない、というわけです。つまり、専門職集団は、その集団内のメンバーたちに対して、各々の専門的な技能の取り扱い方や行動にたいして相互に「監督」しあい、また、各々の専門職性を互いに「批判」・「承認」しあうことなどを義務づけておく必要に迫られるのです。この専門職集団内の「(職業倫理の)相互監督」義務は、専門職集団内の内的な承認(internal recognition)」もしくは「メンバー相互間の(職業倫理の)監督」義務、と言い換えることができるのではないでしょうか。 

 

通常、専門職集団と呼ばれるものは、職業倫理に関連する専門職集団として、自らの「自律性」を、(1)「ミクロ倫理の争点」、すなわち「個人としての専門職と、そのクライアント、同僚、または雇用者である他の個人との、人間関係のモラルに関するもの」と(2)「マクロ倫理の争点」、すなわち「集合的または社会的な問題といえるもので、専門職集団のメンバーがグループとして社会との関係において直面する問題点」)といった、二つの観点から主張します。(J・ラッド「専門職の倫理規程の追求~知性とモラルの混乱」、ヴェジリンド/ガン『環境と科学技術者の倫理』(社団法人日本技術士会環境部会訳編、丸善、2000 年)、214 頁、参照。ちなみに、この論文の初出は、1980 年。)そういった意味からすれば、「自律性」もしくは「自己指示(self-direction)」性、あるいは「自己裁量」権こそが、「専門職」の性格を最も明確に特徴づけるものとして理解することができる、とも言えます。

 

 社会における「専門家支配(professional dominance)」の制度的な構造を浮き彫りにし、またその弊害を問題にした社会学者のE・フリードソンは、「専門職」の「この自己指示あるいは自律というただ一つの条件から、専門職のたいていの定義に含まれるすべての他の制度的要素は事実上演繹ないし導出できる」、とさえ言っています(E・フリードソン『医療と専門家支配』、新藤雄三・宝月誠訳(恒星社厚生閣、2000 年)、124 頁参照)。

 

 ちなみに、医療社会学などの分野では、「専門職」であることを裏付ける〈特徴的な要素〉として以下のものを挙げています。

 

①理論的な知識に基づいた技能の使用
②それらの技能の教育と訓練の必要性
③試験によって保証された専門職の能力
④専門的一貫性を保証する(倫理)行動基準の作成
⑤利他(愛他)的なサービス(看護師の場合には、この側面がとくに強調されているのではないか)
⑥不可避的な公共的サービスへの義務
⑦資格化(制度化)された専門的知識と技能
⑧同僚への忠誠
⑨メンバーを組織化する専門職集団の存在
(Millerson,G.L.,The Qualifying Association, London,RoutledgeKegan Paul,1964/1998,p.180.参照)。

 

もちろん、これらの〈特徴的な要素〉が互いに連動しあうものであることはあらためて言うまでもありません。しかしながら、これまでの看護師さんたちの〈戸惑い〉の声から判断するかぎりでは、看護の専門性に特有の厄介さの根っこは、どうやらその専門性が①②③の技術や能力といった要素にではなく、むしろ④や⑤の利他的(愛他的)なサービスといった、美徳や倫理的な側面に偏ったかたちで描かれてしまう傾向があるからなのでは、と感じてしまいます。そういった看護の専門性の根っこを、またその凝り固まってしまったイメージを、哲学的な対話のなかで〈ほぐし〉ていく必要があるのです。

(西村高宏)

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