第3回 言葉と共に

第3回 言葉と共に

2013.7.06 update.

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第2回では視覚の外に出ることの重要性が言われた。
しかし、どうやれば視覚の支配から逃れられるのか。
言葉、だという。
ポエティックな言葉は硬直した視覚情報をキャンセルし、よそよそしい言葉は「キマイラが過ぎた」関係を再び溶かす。
文字どおり言葉に命をかける二人の、身体で出会う言葉。

身体で出会う言葉

武道家と障害者の逸脱的言語論

[目次]

第1回 矛盾の中へ(2013年7月4日UP)

◆意図を持つと体が動かない――焦点化と拡散化
◆キマイラをつくる――対立と同化
◆感染する身体――二つの方法
◆成熟というプロセス――相反する要請をどう扱うか

第2回 視覚の外へ(2013年7月5日UP)

◆道場の意味――アロセントリックとエゴセントリック
◆バーズアイを超えて
◆視覚に頼らない模倣とは
◆感染の条件としての「おびえ」

第3回 言葉と共に(2013年7月6日UP)

特別ゲスト=佐藤友亮(内科医)、光嶋裕介(建築家)

◆なぜみんな波になれるのか
◆視覚情報をキャンセルする言葉――メタファーの力
◆“過剰キマイラ”を断ち切る言葉――「敬語」の力
◆慣れると言葉が枯渇する
◆身体は言葉でできている(でも方便ね。)

 

 

[対談者] 

内田 樹   合気道七段、凱風館当主
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1950年生まれ。合気道7段、居合道三段、杖道三段の武道家であり、神戸市に2011年に完成した道場兼能舞台の「凱風館」を主催している。
フランス現代思想、ユダヤ人問題から映画論や武道論まで幅広い著作で知られる。
武道論に『私の身体は頭がいい』(文春文庫)、『武道的思考』(ちくま新書)などがある。
第6回小林秀雄賞、新書大賞2010、第3回伊丹十三賞などを受賞。
『死と身体』(医学書院)は知る人ぞ知る隠れた名著!
ブログURL: http://blog.tatsuru.com/

 

 

 

熊谷晋一郎 脳性まひ者、小児科医

1977年生まれ。脳性まひの電動車椅子ユーザー。kumagaya-prof.jpg 

小児科医、東京大学先端科学研究センター特任講師。
東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。
著書に『リハビリの夜』(新潮ドキュメント賞受賞)、綾屋紗月氏との共著に『発達障害当事者研究』(ともに医学書院)、『つながりの作法――同じでも違うでもなく』(NHK出版)がある。 最新作は『当事者研究の研究』(共著、医学書院)。
ブログURL:http://ayayamoon.blog77.fc2.com/

 

 

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第3回 言葉と共に

 

 

 

◆なぜみんな波になれるのか

 

佐藤友亮(ゲスト:内科医) 冒頭で熊谷さんが、何かの行動をするときに気持ちが強すぎると不随意運動が出てしまうとおっしゃっていましたね。視覚の話とも絡んでくるんですけれども、合気道では見過ぎちゃいけないという話がよく出てきます。そのときにどうするかというと、例えば……今日「小手返し」といって相手の手をつかんで返す技をやりましたね。

 

熊谷 ええ、ありました。

 

佐藤 そのときに僕たちは「自分の手は見なくてもパッと取れるでしょ」と言うんです。小脳が生きていれば、自分の手は見なくても取れるわけです。ですから手を返すんじゃなくて「自分の手を取るように」というような比喩を使う。こういうように、なかなかうまくいかない人に対しては、ほかのスキームを持ってくることで目的を達成することがわりと多いんです。

 

熊谷 わざとずらすみたいな感じ。

 

佐藤 はい。手を挙げるんじゃなくて「何かを持ち上げるように」とか。脳性麻痺の方も、そういう方便というか、意識の使い方ってされるのかなと。

 

熊谷 そういうメタファー(隠喩)は本当によく使います。ある行為をしたいんだけれども、それが視覚レベルでは同じようには模倣できないといったときに、具象的な部分は切り落として、「喩えればこうだ」みたいな感じでやる。それはすごく身近なものですね。

 車椅子でトイレに乗り移るみたいなときも、視覚的な乗り移る動線みたいなものをイメージすると全然だめなんです。でも、そのトイレにもよるんですけれども、エッセンスは似ている別の所作を思い出して、そっちをむしろ意識しながらやるとうまくいく。たとえば「私の体を鎧だと思って、鎧を着て自分がトイレに行くようなイメージでやってください」とかですね。こういうことはよくありますね。

 

佐藤 やっぱりあるんですね。そのエッセンスを見つけられる指導がうまいと言われるんですね。

 

熊谷 新たに持ってきたメタファーは、それはそれで「鎧」だとか、具象のレベルで記述されているんだけれども、「熊谷の身体」という具象と「鎧」という具象が二つ合わさると抽象になるみたいな感じですね。例えば内田先生に以前教えていただいたのでは「軒下から雨の滴を受けようとする」という手の動きですね。雨が降ったときに手のひらで受けるというのも具象的なイメージだと思うんですけれども、「それのようなものだ」と言った瞬間に急に抽象化されて、メタファー構造が抽出される。そこなんだろうなと思いますね。抽象を抽象的な言語化してもなかなかピンとこなくて、具象の数を増やすことで抽象化するような。

 

内田 僕の稽古を見た人は、ようしゃべる人やなと思うと思うんです(笑)。うっかりしてると、いくらでも話し続けてるんです。目の前にいる一人だけが相手なら「手はこっち」とかつかんで手取り足取り教えればいいんですけど、何十人同時に相手にするわけですから、そういう「こっち」とか「こうして」というような指示語が使えない。技術の練度にずいぶん差のある人たち全員に向かって、それぞれの段階にふさわしいしかたで「ああ、体をこういうふうに使うのか」とわかるような言葉を使わないといけない。そうすると、不思議なもので、表現がだんだん具体的でなくなって、ポエティック(詩的)になってくるんですよね。

 

熊谷 今日見させていただいた稽古でも、決して言葉が抽象的じゃないのが一番印象に残っています。抽象的に難しい言語で言えば言えるんだろうけれども、具象をかぶせることで抽象をほのめかすみたいな。

 

内田 「沖にザーッと波が引いて、波がまた返すように」って言ってましたけど、これ、たしかに具体的なようで抽象的なんです。だって、ものが人間の体ですからね。人間の体でどうやって波を表現するかの。そんなやりかた習ったこともないから、一人ひとりが勝手に「今、俺、波になった」って自分オリジナルの「波になった感」を経験する。

 

佐藤 東映の映画の始まりの波とか(笑)。

 

内田 でも、全員勝手にやっているはずなのに、結果としての動きは似てくる。

 

熊谷 不思議ですよね。

 

内田 あと、普通だったら人間の身体運用の比喩としては使われないみたいな変なのもありますよね。「渓流を枯れ葉が流れていって、前に石があったのでヒョイと石を避けて横に流れていったときの枯葉の気分で」とか(笑)。

 

光嶋裕介(ゲスト:建築家) 寒天もよく使いますね。

 

熊谷 寒天?

 

内田 「空間にびっちりと寒天が詰まっていて、その中に手をずっと差し込んでいくような感じ」。

 

熊谷 すごいわかりやすい(笑)。

 

光嶋 そんな空間の中に入ったはずないのに、「あ、こういう感じか」って。

 

内田 ほんとだよね。寒天が詰まった空間なんか誰も入ったことないのに、不思議なもので、わかるんですよ。「手が寒天の中にめりこんでいく感じ」と言うと、全員の動きがまったく一変する。ふだんは自分の前の空間には何の抵抗もないと思い込んでいるから、横着するんですよ。肘や手首を曲げて使うんです。でも、「寒天が詰まっている」という想像的な条件を当たられると、それだけで動きが変わるんです。指先と体幹をつないで、深層筋の強い力を指先まで伝えようとする。こうやってずるずるっと指先が寒天に入り込むの。

 

熊谷 爪に入っちゃいますね(笑)。

 

内田 みんな、それぞれのしかたで寒天に手を突っ込むときの皮膚感覚を想像するんです。この寒天って冷たいのか温かいのか、ブドウの粒とか入ってたりするのかとか。そうすると手のひらが敏感になるんですよ。手のひらが敏感になるときって、全身の筋肉も関節を総動員しているんですよ。手のひらが鈍感で固いときは、あとの身体部位は何もしないで休んでいるんです。

 全身を総動員すると言っても、全部をフル稼働しているわけじゃありません。全員の筋肉をちょっとずつ、でも全部使う。それが大切なんです。ある部位は強く緊張していて、ある部位は弛緩しているというのでは困るんです。全身の筋肉が同一の緊張状態にある。どこかが緩んで、どこかに力みがあるというのではなく、どこにも力みもないし、緩みもないという状態です。全身の細胞が均質になっている状態。すると、まず普通の人が腕力だけで出せる力の何倍もの力が出る。原理的には全身の筋肉が一つの筋肉になるわけですから。

 例えば、今日もやったんですが、こういう動きが初心者は苦手なんですよ。何で? と思うんですけど。

 

熊谷 あれ、わからなかったんです。どういうふうに……。

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            (画面中央が佐藤友亮さん)

(次ページ ◆視覚情報をキャンセルする言葉――メタファーの力)

 

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◆視覚情報をキャンセルする言葉――メタファーの力

 

 

内田 ここに10キロの米が入っている袋があるとしますね、それをよいしょと担ぐ。そういうときって、袋を体ぎりぎりのところに持ってきて、すっと担ぎますよね。体から遠くにあると重く感じるから。それと同じように、相手を袋のようにすっと担げばいいんです。でも、それができない。相手の体は袋じゃない、という思い込みがあるから。ここに手があって、足があって、胴体があって……と思うから、それをどうやって持ち上げようか考えると、どうしていいかわからなくなる。だから、相手の体は「ない」と思う。

 

熊谷 ない、と。

 

内田 ええ、あるけど、ない。ここにこんなものがある、手がある足があるという情報が目から入ってくるけど、無視しちゃう。「これは袋だ」と断定する。

 

熊谷 ほう。見てるけど見てない。

 

内田 目の前にいる人の手を金槌で叩くと、ミラーニューロンの働きだと自分の手にも痛みを感じるはずなのだけれど、自分の皮膚からは「叩かれた」という情報が来ない。だから、「手が叩かれて痛いはずだ」という判断はキャンセルされる。この実験ですと、視覚情報がまず来て後から身体からキャンセル信号が来るんだけど、さっきの担ぎ方は逆になっています。実際に目の前に人間がいてそれははっきり見えているんだけれども、この視覚情報をキャンセルしちゃって、「この人いない」ということにする。でも、相手が自分の手首を握っているわけですから、皮膚感覚としてはそこに一種の負荷が感じられる。それを人間の手だと思わないで、手首に袋が絡まっていると思う。すると、袋をかつぐように相手の体を引き上げることができるようになる。武道的な体の使い方って、そういうふうに脳の神経回路をオンにしたりオフにしたりということを頻繁にやっているんです。

 

熊谷 ポエジーな言葉って、視覚的なものを断ち切る力がありますね。視覚的フィードバックをキャンセルして、今の場合だったら触覚へとつなげるような力のある言葉ですね。

 

内田 そうです。僕が言葉を乱発するのは、たぶん視覚情報をキャンセルするためだと思います。ポエティックな、メタフォリカルな言葉を使うと、「生まれてから一度も見たことがないもの」でも想像的に皮膚の上に実感できる。

 

熊谷 すごくエキサイティングですね。なるほど。

 

光嶋 ただ視覚は効果的ではありますよね。やはり我々が習うときは、言葉よりも上級者に隣でやってもらう。それを見よう見まねでやるのが一番効果的。

 

内田 実際には見てるんじゃなくて、体感を写し取っていると思うんだけれどもね。

 

光嶋 ああ、視覚情報だけじゃない。

 

内田 最初にみんなが真似するのって、技が終ったあとのポーズからでしょ? 目つきとか表情とか、手に腰とか(笑)。とにかく技じゃない部分の、一番末端からみんな真似していくんだよね。「おまけ」みたいなところから。そこはもう技が終っているから、それほど体感的に複雑じゃないから、真似できる。動き出しと動き終わりはすぐに真似できる。そこからだんだん動きの中に入っていくんだよ。

 

光嶋 要らないほうの手は後ろにやっている先輩を見てたら、気づいたら自分もやっている。

 

内田 大川君はすごく模倣力高いよね。投げ終わった後に足がすっとそろったりするのって、あれ、ピーちゃんの写しなんだよね(笑)。本人は気がついてないと思うけど。

 

熊谷 出典があるんだ(笑)

 

内田 動いているときは複雑すぎて簡単に同調できないけれども、最後の部分は感覚に同調しやすいんですよ。それでいいんです。真似できるところから真似すれば。見てると、いろんな人がいろんな人のいろんなところをちょっとずつ真似しているのがわかりますよ(笑)。

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         (光嶋裕介さん)

(次ページ ◆“過剰キマイラ”を断ち切る言葉――「敬語」の力)

 

 

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◆“過剰キマイラ”を断ち切る言葉――「敬語」の力

 

 

佐藤 最初に熊谷さんが「憑依した感覚」を述べられていましたが、そこがほかの人と全然違いますね。

 

内田 運動能力の高い人で、自分も武道をやっているような人が見ると、たぶん稽古を見ていて、「俺だったらこうやる」というふうにして見ちゃうと思うんです。「ちょっとあれ、おかしいんじゃないか?」とか。でも、そういう人は憑依能力が足りないんだと思う。他人の体感に入り込むのが苦手で、自分の身体運用の延長上で他人の身体をとらえようとする。

 

佐藤 熊谷さんは、フォーカスしているとか拡散しているとか、憑依の次元がまたすごい。

 

熊谷 一方で、介助関係では「憑依しすぎる関係が危ない」というフェーズもあるんですよ。特に慣れた介助者だと、もう「キマイラが前提!」みたいになっている。それはそれで楽な面もあるんですが、でも、例えば腰の痛みはこっちには伝わってこないというように、完全にキマイラになりきれない部分って当然あるんですよね。そうすると、お互いに自分の体だったらそこまでは酷使しないだろうというような使い方をしてしまう。例えばキマイラになることに慣れた介助者だけに頻繁に介助に入ってもらうとか、過剰労働を強いてしまう。すると、「あ、これはちょっとキマイラが過ぎたな」(笑)みたいな局面が。

 それを断ち切って、「もう一回丁寧に探ろうか」みたいなときにも言葉を使うんです。もう既に獲得しているはずのことをわざわざ言葉にすることによって、習慣化している動きをもう一度解体する。そんなこともたまにはやったりするんです。そのときはメタフォリックな言葉ではなく、むしろ固い言葉というか、よそよそしい感じの言葉を使う。わざと敬語を使ったりとか(笑)。

 

佐藤 距離ができますよね。

 

熊谷 そうですね。視覚を遮断するメタフォリックな言葉の使い方とはまた別に、特に上達してきたりすると。もう一回結び直そうという段階のときに使う言葉もあるのかなと思いました。

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(次ページ ◆慣れると言葉が枯渇する)

 

 

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◆慣れると言葉が枯渇する

 

 

内田 道場では、同じ相手とずっとやるのはダメなんです。一回ずつどんどん相手を変えていくというのが基本です。もし道場に五〇人いたら、自分以外の四九人全員と組んで稽古するというのが理想的なんです。人によっては同じ相手と組みたがるということがありますけれど、これ、よくないんですよ。慣れが出てくるから。相手の体癖がわかっちゃうので、だんだん本筋から外れてくるんですよね。

 

熊谷 今日見ていて、頭が一番チリチリしたのが役割交代の速さと、パートナーの入れ替えの速さです。見ているだけで酔ってくる。

 

内田 一人相手が変わると、そのたびごとに始めから全部結び直しをしないといけない。

 

熊谷 すごくそれで合点がいくところがありました。やっぱりお気に入りの人とやりたくなっちゃうんですね。

 

内田 道場ではまず僕がみんなの前で技をかけてお手本を見せるんですけども、あのときの受けの相手も毎日替えているんです。だいたい三年ぐらい集中的に受けに呼んで、それから次の世代に代替わりする。ずっと同じ人とやっていると、阿吽の呼吸で何でもできちゃうようになってくる。僕のほうは相手が思いどおりに動いてくれるので、すごく楽なんですけれど、実はあまりよくないんです。ほかの相手のときに技がうまくかからなくなっちゃう。

 今日は最初に受けに呼んだ永山さんは「書生一号」で、大学のクラブからだから、もう長く一緒にやっているのでほとんど阿吽の呼吸でなんですけども、後半に呼んだ東沢君という背の高い男の子はしばらく東京に行ってて、久しぶりこの四月に帰ってきたので、あまり僕とは稽古していないんです。だからちょっと、彼にはおびえがあるんですよ。すぐ息上がるし(笑)。ちょっと恐怖心もあって、がしっとつかみにくるし。ああいう、ちょっと扱いにくい人を投げるっていうこともしないと、やっぱり「結び直し」にならないんですよ。でも、彼も少しやると、すぐにうまくなっちゃって、思いどおりに受けを取ってくれるようになる。そしたら、また次のもうちょっと手の合わない人を受けに呼んでという、そういうことの繰り返しなんです。

 

熊谷 私も介助者が慣れるころが一番怖いです。定期的に新しい人に替えないと危ないんですよね。さっき言ったよう、相手の体を使い過ぎたりこっちが使われ過ぎたりというのも危ないし、自分の体が変化したときにどうなるだろうということも心配だし。あと、おびえがなくなることも結構危ないですよね。

 

内田 おびえというのはキーワードですね。

 

熊谷 ええ。初心者が定期的にいないと、今の自分の生活は危ないという直感がすごくあります。「せっかく完成されたものでも壊さないと危険」というのはすごくよくわかるなと思って。

 

内田 うちの道場では初段の人にも「どんどん独立して自分の道場を持ちなさい」と言っているんですよね。稽古をして自分の技術を高めていこうということと、人に教えるというのは全く違うことなんですよ。特に、初心者を教えるというのは、体がどうにも動かないという人を、どうやって解除してほぐしていって「引き算していくのか」ということなんです。

 初心者というのは、とにかく教えようがないんですよね。ベースが違ってるから。あなたの身体運用の基本的な発想、基本的な文法自体が違ってるから、この文法ではこの言葉は話せないんですと、それを教えなきゃいけない。日本語の統辞法で英語しゃべろうとしているみたいなものですよ。だから、とにかくThis is a pen から始めるということですよ。非常にシンプルなフレーズしか最初は言えないんだけれども、今の自分が知っている文法構造とか統辞構造とか音韻に固執している限りでは、語れないセンテンスをこれから語ってもらうんだからということです。

 

熊谷 すごく興味深いですね、それは。

 

内田 その経験をなるべく早い段階からしてもらいたいんです。だから、スピンオフして自分の道場を持ってくれるように言っているんです。自分の道場を持って教え始めると、ほんとに技がまったく変わるんですよ。急速に上達する。

 

熊谷 自分より目上の人とキマイラをつくる楽しさってあると思うんですが、ある意味で、どんどん言語が枯渇していくような気がします。わざわざ言語にする契機を失っていくとすごく感じます。介助者との間の関係で危険だなと思う理由の一つに、「他の人に説明できなくなっていく」ということがあります。次に新人が来たときには、介助される自分が指導する立場になるんですよね。私の場合は、見よう見まねで介助の仕方を教えるわけにはいかないので――そもそも自分自身が介助の側をやったことがないので(笑)――要は言語ですべて一挙手一投足を伝えざるを得ないというふうなときに、慣れるとどんどん言語が枯渇していくんですね。

 私は物心つく前から親が介助者だったので、もう阿吽も阿吽というか。その危険性みたいなことが原点にありますね。親から離れた後もやっぱりその感覚は引き続いていて、それが「お気に入りの介助者は危ない」につながっている感じがします。

 

内田 武道では、弟子にしか技がかからない先生って結構いるんです。

 

熊谷 なるほど。

 

内田 僕もそうかもしれないけど(笑)。まあ、合気道の場合は、勝ち負けではなくて、お互いの技を練り合う稽古なので、技がかかるかからないはそんなに問題じゃないんです。むしろ技がかからないことからのほうが学ぶことが多いから。でも、「技が効く」ということにこだわると、だんだん「技がかかる相手」だけとしか稽古しなくなるということはありますね。

 

熊谷 私の周りにも、「介助者が増えない障害者」という人がいるんですよ。新人とお気に入りとをいつも比較してしまって、「やっぱりお気に入りの人よりも劣っている」みたいな。自分に快適な介助であってほしいしというのはわかるんですけれど、介助者の幅がどんどん狭まっていくパターンというのがあって、そうなると生活基盤自体が脆弱になっていく。やっぱり身内だったりお気に入りだったりで固めちゃうと、すごく危ないですね。

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(次ページ ◆身体は言葉でできている(でも方便ね。))

 

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◆身体は言葉でできている(でも方便ね。)

 

 

内田 人間の体って本当に言語的に分節されているわけで、こんなに言葉で大きく変わるということが、不思議ですよね。

 

熊谷 そうですね。

 

内田 もし無言で合気道を教えろと言われたら、僕はもうほとんど何もできないです。

 

――模倣と体感だけではだめですか。

 

内田 何を体感するのかということがわからないですよ。「触覚中心に」と言ったって、今だってそれを言葉で伝えているわけですから。「どういう身体感覚に焦点化してやるのか」は口で言うしかない。人間の体で起きている現象ってアモルファスで、ぐちゃぐちゃなんです。同時に全身で起きている身体現象って数えきれないぐらいあるわけじゃないですか。60兆の細胞が組み合わせでやっているんですからね。天文学的な数字の身体現象が起きている中のある一個だけの現象にフォーカスして、そこをちょっと動かしてみようかということをやる。だから言語で地平をつくって、文脈をつくって、記号化して、分節して意味をつくって。とにかくフォーカスさせるということですよね。

 

熊谷 そう考えると言葉というのは、すごいですね。

 

内田 ほんとに「光あれ」とか、アダムが動物に名前をつけると同じです。丹田なんて言ったって、そんな身体部位って解剖学的には特定できないわけですよ。でも「丹田、丹田」と5年くらいずっと聞いていると、なんかこのへんに丹田というものがあるらしいということが感覚的にわかるようになる。そこに気を集めたり、熱くしたりできるようになる。身体っていうのは、言語を媒介にして、記号として有徴化されていくわけです。

 

熊谷 ミラーニューロンのところで、「視覚的なフィードバックをキャンセルするのにメタフォリックな言葉を使う」という話がありましたね。実際、稽古のときにも内田先生は、その人が習慣化しているような行為のパッケージみたいなものを言葉でつき壊して初期化して、それからもう一度つなぎ直すような力のある言葉を使われている印象がすごく伝わってきたんです。それもすごくタイミングも考えて。ばらかしてつなげているというか、その緊迫感が言葉の両価的な力なのかなと思います。

 

内田 言葉っていうのは必ず限定するんです。何かを壊して、かわりに何かを限定している。……一度聴いた言葉にこだわる人っているんです。僕が昔言ったある言葉をずうっと覚え込んでいて、それにこだわって身動きできなくなっている。実際に僕はそういう言い方をした後に、それをキャンセルするために別の言い方をして突き崩しているわけですけれど、キャンセルが効かない人もたまにいるんです。武道的には「居着き」というのですけれど、武道家の場合、若いときに先生に一言言われてはっと会得したことがあって、それを座右の銘にしたせいで、それからあとの先生の変化にもうついていけなくなるということってあるんです。自分の先生のある時点での仮説に居着いて身動きできなくなるということが本当にあるんですよ。これは結構怖いです。

 

熊谷 呪いのような感じ。

 

内田 修行段階のある段階での方便としてはその言葉は非常に有力なんですが、結局、言葉は全部方便なんですよ。一時的な迂回路で、それを利用するとメリットもあるけれども、同時に限定する。文脈をつくったせいでそれまで意識化できなかった体感にフォーカスできるようになったけれど、その文脈に深くはまりこんでしまうと、別の体感が感じられなくなる。プラスもあればマイナスもある。だから絶えず、言っては前言撤回、言っては前言撤回。そうやって、どんどん比喩を乱発するわけです。だから、稽古のあいだ僕があまりいっぱいしゃべったので、弟子の人たちは「今日先生が最初の方に言ったこと、忘れちゃったよ」ぐらいがいいんだと僕は思っています。あまり言葉が少ない先生だと、稽古中に二言三言ポイントだけを言われると弟子に全部記憶されちゃいますから。深く入るのはいいんだけれど、弟子がそこに居着くリスクがある。

 

――貴重な言葉になっちゃいますね。

 

内田 僕みたいに覚えきれなくらいぺらぺらしゃべっていると、さすがにみんな全部を記憶する気力がなくなってしまうから(笑)。言葉で限定して、解放して、また限定して、また解放して。一回前の言葉で作り込んだ動きを、次の言葉で解放して、また別のを作り込んで、また壊してという繰り返しですね。

 

熊谷 言葉が熟練を引き起こすメカニズムが自分としてはすごく謎だったんです。でも今のお話を聞いていて、発達とか熟練のエッセンスだと言われている「自由度の凍結と解放」の緊迫感と、言葉というものが持つ破壊とつなぎ直しみたいなモメントとか、どこか深いところで共通しているのかなと感じました。

 

内田 同じ言葉をずっと使っていると、反応が悪くなるんですよ。あるときにふと思いついた言葉で、みんなの動きががらっと変わることがあると、僕もその言葉に居着いてしまう。「あ、これ効いた」というので、その同じ言い回しを五度、十度と使っていると、だんだんだんだん効きが悪くなってくる。しようがないから、また新しい言葉を考える。

 

光嶋 そのとき読んでる先生の本がわかりますよ(笑)。今なら鈴木健さん(『なめらかな社会とその敵』の著者)の膜と核と網。

 

内田 ラマチャンドランのときはラマチャンドラン用語ばかりでしたからね。

 

熊谷 自分も読んでいる本はすっごい使いますね。よく言われます。さっき読んだ本を10年前から知っていたかのようにしゃべるのがうまいって。

 

内田 それは僕も得意技ですね(笑)。

 

――ここでも意外な共通点がありましたね。今日は興味深いお話をありがとうございました。

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番外編

対談終了後の二次会で、綾屋紗月さんに合気道初体験の感想をお聞きしました。

綾屋紗月さんは『発達障害当事者研究』の著者で、熊谷晋一郎さんのパートナーです。今回は介助者として凱風館に一緒に来られました。

 

――今日、合気道を初めてやってみてどうでした?

 

綾屋 空手とか柔道もちょっとかじったことがあるんですが、私はいつも型の段階までは楽しいんですけど、型を一通りやって「じゃあ相手と一緒に」となったときに訳がわかんなくなっちゃう。そのころやっていたジャズダンスのほうは相手がいなくてずっと一人でやり続けられるので、つまり型を覚えるだけでいいので続いたんです。

 でも今回の合気道は最初から「自分なのか他人なのか」が明確じゃない形でいっぺんにワーッと始まるんですね。なんか境目がなく、全部セットで覚える感じっていうのがすごく興味深かったです。

 最近エスノメソドロジーとか会話分析の研究をやっているんです。例えば会話が喧嘩になったりするときも、実は「これとこれが布石としてあったらこれは起きてもおかしくない」っていうことがある程度決まっている。つまりある方法を使っている限り成り行きが構造として導かれる。そんな相互作用を分析していく手法なんですけど、それと同じようなものが合気道の中にあるのかなと思いました。

 

――え、どういうことですか?

 

綾屋 手首はここまでしか曲がらないとか、人はこう引っ張られたら絶対にこうやって重心が動くとか、そういうことが全部セットになった方法が綿密に作り上げられてきたものが合気道という感じ。そういうやりとりというか相互作用がぎっちり詰まっているものなんだなあと。

 その「やりとり」っていうことが自分は苦手なので興味があったんですが、「あ、こういうものだったのか!」というのを体感できて面白かったです。

 

内田 合気道って、相手とか自分とか、倒すとか倒されるとかいうような対立的なスキームを解除するっていう技術なんですよ。だから汎用性が高くて、いろんなことに向いている。人間関係で何かやるっていうときには、その人が根本に持ってしまっている「自他二元論」とか「心身二元論」とかの二元論的な発想というのを解除しないと進めないことって多いですから。

 

――じゃあ、一対一があってそこで融合するんじゃなくて、最初から二者がセットになっていると綾屋さんが感じられたのはすごいですね。

 

綾屋 自分一人で何かスキルを得た後に他者と関わるんじゃなくて、最初からセットでやるっていうのは介助と同じですね。私は「他者とのかかわり」というか、「人がいて自分がいて」というセットを実感したのは介助が最初なんですよ。それとすごく似た感じがしました。 

 (身体で出会う言葉――武道家と障害者の逸脱的言語論」了)

 

ボーナストラック!

熊谷晋一郎さんが、古武術介護の岡田慎一郎さんの介助で無事掘りごたつから脱出。シンイチロー・キマイラの出来上がり!

 

 

 

  ↓ 以下、書影をクリックすると説明ページにジャンプします。

『死と身体』(内田樹著)

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『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著)

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『発達障害当事者研究』(綾屋紗月・熊谷晋一郎著)

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