かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2013.7.05 update.
熊谷氏は前回、合気道の稽古をする身体に〈憑依〉した感想を述べ、その異様な観察力で内田氏を驚かせた。
ただし憑依とは、観察=視覚を超えた振る舞いである。
内田氏はさらに一歩進め、一見視覚的な行いである「模倣」でさえも、実は視覚に頼っていないと言う。
今回、奇しくも二人は同時に「視覚優位」の人間のあり方に警鐘を鳴らした。
視覚に頼っていては、生き延びることはできないのだと。
身体で出会う言葉
武道家と障害者の逸脱的言語論
[目次]
◆意図を持つと体が動かない――焦点化と拡散化
◆キマイラをつくる――対立と同化
◆感染する身体――二つの方法
◆成熟というプロセス――相反する要請をどう扱うか
第2回 視覚の外へ(2013年7月5日UP)
◆道場の意味――アロセントリックとエゴセントリック
◆バーズアイを超えて
◆視覚に頼らない模倣とは
◆感染の条件としての「おびえ」
特別ゲスト=佐藤友亮(内科医)、光嶋裕介(建築家)
◆なぜみんな波になれるのか
◆視覚情報をキャンセルする言葉――メタファーの力
◆“過剰キマイラ”を断ち切る言葉――「敬語」の力
◆慣れると言葉が枯渇する
◆身体は言葉でできている(でも方便ね。)
[対談者]
内田 樹 合気道七段、凱風館当主
1950年生まれ。合気道7段、居合道三段、杖道三段の武道家であり、神戸市に2011年に完成した道場兼能舞台の「凱風館」を主催している。
フランス現代思想、ユダヤ人問題から映画論や武道論まで幅広い著作で知られる。
武道論に『私の身体は頭がいい』(文春文庫)、『武道的思考』(ちくま新書)などがある。
第6回小林秀雄賞、新書大賞2010、第3回伊丹十三賞などを受賞。
『死と身体』(医学書院)は知る人ぞ知る隠れた名著!
ブログURL: http://blog.tatsuru.com/
熊谷晋一郎 脳性まひ者、小児科医
1977年生まれ。脳性まひの電動車椅子ユーザー。
小児科医、東京大学先端科学研究センター特任講師。
東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。
著書に『リハビリの夜』(新潮ドキュメント賞受賞)、綾屋紗月氏との共著に『発達障害当事者研究』(ともに医学書院)、『つながりの作法――同じでも違うでもなく』(NHK出版)がある。 最新作は『当事者研究の研究』(共著、医学書院)。
ブログURL:http://ayayamoon.blog77.fc2.com/
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◆道場の意味――アロセントリックとエゴセントリック
熊谷 さっき実際に稽古を体験した綾屋紗月さんとも話してたんですけど、道場を東西南北で表現しているというのが、すごく印象に残りました。ちょっと深読みかもしれませんが。
一般的に空間の把握の仕方で、アロセントリック(Allocentric)とエゴセントリック(Egocentric)という二つがよく使い分けられます。エゴセントリックというのは自分を中心とした座標で、自分の身体に張りついた座標で空間を定義するというやり方、アロセントリックは、どっちかというと環境に埋め込まれた座標で空間を定義するというやり方ですね。その二つがコーディネートされるとうまくいく、みたいな話です。例えば「東西南北」などは環境に埋め込まれた座標系で、「右左」や「前後左右」というのは身体に埋め込まれた座標なんですが、道場というのは空間の捉え方が独特なんだろうなと、今日ずっと感じていて……。
綾屋さんは、体の方向がものすごく変わるので、左右という言い方だとわかりづらいと言っていました。それを聞いて「あ、なるほどそうなのか」と。キマイラになるための条件としては、やはりエゴセントリックを乗り越えるというモメントはどうしても必要だと思うんですよね。相手の身体の座標系を持つということも大事だし、環境中に埋め込まれた座標系を持つということも同時に必要なことだろうなと。道場という空間に何かキマイラを誘発するような仕掛けがあって、エゴセントリックな空間認知を外すような影響を及ぼしてはいるんじゃないかと……。
内田 短い時間によくぞそこまで。
熊谷 最初に儀式的な方位の確認がありますよね。みんな後ろに並んで、前にはちょっと奇妙なほどに空間があいていて……。そこに内田先生が登場してきて、どうやらあちらが上座のようだと(笑)。
内田 神棚がありますしね。
熊谷 そうそうそう。神棚もありますし、どうやらあちらが上座のようだというふうな最初のインストラクションがある。ある種のアロセントリックな座標がガチッと埋め込まれて、それを基準に東西南北が生じ、もはやその時点で何か水面下ではエゴセントリックを外されているような契機が始まっている。
内田 うーん!
熊谷 いつも景色の中にアロセントリックのヒントが――神棚もそうですし、写真もそうです――埋め込まれた空間の中で身体運用がなされている。そういう空間に埋め込まれた座標系を思い起こさせるような仕掛けがあるような気がするんですよね。
内田 あります。最初に土地探しのときに設計者の光嶋裕介君ともずいぶん話したんですけども、道場って、長方形で南北に細長い長方形じゃないとうまくないんです。不動産屋の人が持ってくる話って、けっこう平気で東西南北が斜めになっていたりする。「これ、いかがですか」なんて言うから、「だめだよ」「何でですか」「だって南北狂ってるから」と言ったら、憤然と「そんなの関係ないじゃないですか」と言う。でも南北の方位が整っているというのは稽古する体にとっては非常に大事なことなんです。北が正面にあって、そこに神棚があったり、扁額があったりする。
熊谷 ああ、そうなんですね。
内田 「君子南面す」という言葉がありますね。長安洛陽から平城京平安京まで、都の作りって全部同じなんです。東西南北の長方形で北の奥に王宮がある。ここに君子が座って、臣下たちはその南に居並ぶ。つまり、君子は「南面」する。北半球に暮らしていると、南北の方位は微妙な身体感覚でわかるはずなんです。でも、非常に微細な入力ですから、簡単にはわからない。だから、いろいろと仕掛けをする。
熊谷 なるほど。
内田 この道場だって、物理的にはただの75畳の均質的な空間なんですよ。でも、玄関を入ってから、だんだん北に向かって歩を進めていくうちに、「世俗の空間」から「聖なる空間」に近づいていくというグラデーションが作り込んである。
だから、道場内でも、つめ切りとか筆記用具とかが置いてあるのは南側で、北のほうに食べさしのお菓子が置いてあるとか、誰かの脱いだ靴下が置いてあることは絶対にあり得ない。別に意識的にそうしているわけではないんだけれど、道場を南から北に向かうにつれて「清浄度」が高まっているということは誰にでもわかる。それを空間認知に使うんです。
武道的な身体運用では、エゴセントリックな空間認知――前とか後ろ、右とか左――というのは実は効かないんです。今日もご覧になってわかったと思いますけれど、初心者は「右足を動かして」と言われたって、もうどっちが右だかわからなくなる。まして動きながらだと「どっちが前」かなんてわからない。だいぶ前ですけれど、うつむき加減の小学生に「はい、一歩前に」と言ったら、しゃがみこんで、床に頭を付けようとするんですよ(笑)。体が前に傾いていたから、彼にしてみると「前」というのは畳のほうなんだな。
熊谷 それはそれで正確ですよね(笑)。
(次ページ ◆バーズアイを超えて)
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◆バーズアイを超えて
内田 その子は自分の歪んだ体軸を中心にして前後左右を認知していたわけですけれど、その子に「いや、それは前じゃない」と言おうとしてわかったんです。その子に向かっては「前」という概念を説明できないということを。ああ、そうなのか、自分自身の身体を中心にして空間認知するとこういうことになるんだな、と。
そこから的確な空間認知をするためにどうすればいいのか、いろいろと工夫をしてみました。最初に考えたのは「バーズアイ」(鳥瞰)です。上から自分自身を含んだ風景を鳥瞰的に見下ろすという能力、これが大事かな、と。
で、「どうやったらバーズアイになるんだろう」とあれこれ考えているときに、池谷裕二さんと対談することがあって、池谷さんからミラーニューロンのことを聴いたんです。ミラーニューロンの活動を強化する薬物が発見されて、それを服用するとどういう変化があるかを研究した人がいた。実験してみて何が起きたかというと、ミラーニューロンが強化されたグループの人は全員が「幽体離脱」の幻影を見たんだそうです。
でも、これはよく考えてみると当たり前のことなんですね。ミラーニューロンが強化されれば、周りの人間たちと体感の共感度が高まってくる。他人のしている運動に共感する神経回路が脳内で次々と発火する。そのうちに、自分が運動しているのか、他人が運動しているのか、識別しがたくなる。自分はここにいるのか、あそこにいるのか。これをやってるのは自分なのか、他人なのか、その境界線が不分明になる。
この自他融合の事態を説明するために脳はたぶん「これは全部私の体だ」という仮説を採用することになるんだと思うんです。その場にいる何人か、何十人かがひとまとりの体であるような多細胞生物的な「巨人」を想像して、これが「私」だということにすると、身体感覚が共有されているという脳内の事態を説明できる。そうじゃないと、他人の身体と現にいきいきと共感しているという事実が説明できない。まあそうやって、仮説的に多細胞生物的な「巨人」を造形してしまう。この「巨人」の眼からは道場全体が鳥瞰的に見下ろすことができる。つまり、ミラーニューロンを強化するようなことをすれば、鳥瞰的な空間認知ができるようになるんじゃないか、と。そういう思いつき的な仮説を立てたわけです。
今日も最初と最後に全員で「呼吸合わせ」とか「鳥船」(船こぎ運動)をやりましたよね。みんなが同じ動作をする。鳥船も合気道の稽古法にはある段階から取り入れられたものだそうですけれど、非常に効果的です。稽古の前に鳥船をやるのとやらないのでは、その後の動きのインターフェイスの滑らかさや空間認知の精度が変わってくる。はっきり変わります。道場全体で鏡像的な動きを行うと、空間認知能力が向上するんです。というので、とにかく身体感覚の共感性を高めていくと空間認知の精度が上がるはずだと思って、そういう稽古ばかりしている時期があったんです。
最近はその段階からさらにもう一歩先に進んで、視覚を使わない空間認知に移行してきています。「バーズアイ」って文字通り鳥瞰的空間認知ですから、結局は「視覚」依存なんですよ。視覚情報ベースで空間認知をする。自分の位置・座標・場所を知って、それに基づいて動く。あるいは、動き終わった後にまた座標を「見て」何をしたのかを確認する。でも、それって要らないんじゃないかと思うようになったんです。必要な動きをどんどんすればいいわけで、それを図像的に表象する必要なんかないんじゃないかって。それより自分の体でリアルタイムで起きていることを皮膚感覚的に精密に感じ取るほうが大事なんじゃないかって。
これは僕が能楽の稽古をしていることとも関係があるんです。能舞台というのは三間四方の何もない空間なんですけれど、立つとわかるけれど、舞台の上の空気には濃淡の差があるんです。粘度の差がある。囃子や地謡や、シテやワキの動きによって、その空間がたわんだり、ゆがんだり、伸びたり、ねじれたりする。地謡や囃子が空間を震えさせていると、舞台の上に動線が見えてくるんです。「ここへ行くしかない」「ここへ行ったらこういうふうに回るしかない」という必然的な動線が肌に感じられるんです。密度の濃い空間と、比較的密度の薄い空間があれば、体はその密度の薄い空間を「道」と感知して、そこに進もうとする。
そういうときは、空間を視覚的に認知して、動線を二次元的に表象して、その下絵に従って動くということをしているわけじゃないんです。そうではなくて、「この線しかない」という動線を皮膚が探り当てる。それに導かれて動く。皮膚が「入れる空間」と「入れない空間」を区別する。だから、「入れる空間」を選択して進む。そういう運動のほうが武道的にも合理的なんじゃないか、と。そのあたりから今度は「触覚で動け」「皮膚の導きに従え」というようなことを言い始めた。
今日も最初に二種類、後ろ両手を取りに回り込んでくる相手を崩したり投げたりというエクササイズをやりましたね。あれも崩したり投げたりする技術の訓練ではないんです。そうじゃなくて、視野から相手が消えてしまったという条件で、視覚に頼らないで適切な動線をたどるにはどうしたらいいのかという、触覚で空間認知をする稽古なんです。
熊谷 視覚ではなくて触覚というときに、例えば建築的に、音響的な条件というか、空気の振動とかがすごく大事になってくるんじゃないかなという気がするんです。ちょうどミラーニューロンのお話が出たので、それに引きつけて思うところを話してみますね。
ミラーニューロンの原型というのは、おそらくボディスキーマ(身体図式)です。脳からの運動指令がまずあって、それに対して体性感覚とか聴覚とか、あるいは視覚的なフィードバックがある。そういう運動指令とフィードバックとの関係がある程度安定していると、今度は逆計算ができるようになるんです。つまり普段は、まず運動指令をボディスキーマに入力してフィードバック予測を計算するわけですが、その計算資源を逆に使って、視覚などの入力から運動指令を計算するという形です。このように、フィードバックから運動指令を計算するという「逆計算」がミラーシステムだと思います。それで「模倣」という行為が可能になる。
しかしポイントは、フィードバックには視覚以外にもたくさん種類があるということです。視覚的なフィードバックもあれば、触覚的なフィードバックもあるし、聴覚とか体性感覚とか内臓感覚、いろんなフィードバックがあるので、一つの運動指令に対しても何種類もフィードバックが来るはずです。だから、視覚的な入力に対して運動指令を計算するような経路もあれば、触覚的な入力に対して運動指令を計算するようなものもある。このように、ミラーニューロンといっても本来は一枚岩ではないはずなんですね。
最近読んだ論文でおもしろいのがありました(Haswell et al. (2009)“Representation of internal models of action in the autistic brain.” Nature Neuroscience, 12(8),970-972.)。自閉症者のミラーニューロンやボディスキーマにも関連している研究なんですが、運動制御をする際に、視覚により依存しているのか、それとも体性感覚とか触覚により依存しているのかというのがテーマです。自閉症者は視覚優位で情報をとる傾向が強いとよく言われていますが、結果は、視覚ではなく体性感覚のほうに依存していたという結果でした。
自閉症者というのは模倣が苦手だということが昔から知られています。人の動きを見て、それを真似るというのが苦手なんですね。で、そこから社会性の話になる。他者の模倣が社会性の基盤にあるとすると、模倣が下手であるということは社会性の障害につながるとのではないか、というロジックですね。だからこの論文の筆者たちも、運動制御において視覚に依存できないがために模倣が苦手になるというふうな考察を述べています。
でも私は、視覚によって立ち上がる共同性だけが共同性なのか、と思っています。。まさに先ほどおっしゃったような、「触覚で立ち上がる共同性」というのもあるだろうと思いますし、あるいは「聴覚で立ち上がる共同性」というのもあると思うんです。そういう意味では、社会性に関する認知科学的な研究においも「視覚によって」立ち上がるミラーニューロンシステムというか、バーズアイ的なものが共同性のモチーフとして前提されてしまっていることが多いんだけれども、そういう視覚に偏った社会性という発想に、既にバイアスがあるんじゃないかなと思っています。
だからミラーニューロンといっても、おそらく触覚的な同期性とか、聴覚的な同期性とかはものはすごく大事だと思っています。だとすると、空間の振動というか空気の振動――要するに「光」ではないもの――みたいなものがものすごく効いてくるだろうなと思います。
(次ページ ◆視覚に頼らない模倣とは)
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◆視覚に頼らない模倣とは
内田 合気道なかなかうまくならない人ってたしかにいるんですよね。なんでこんなに下手なんだろうと(笑)。でも、よく観察していると、そういう人はだいたい視覚ベースで体を制御しようとすることに固執しているんです。視覚以外の感覚をほとんど使っていない。まず動きを図像的に表象して、そうやって描いた下絵の上に運動を展開しようとする。だから、「どっちが前か?」みたいなところでつまずくと、後は全部わからなくなっちゃう。
そういうタイプの初心者は入門したあとほぼ例外なく「先生、合気道の入門書みたいなものありませんか?」と訊いてくる。「技の連続写真が載っているやつ」が欲しいと言うんです。そういう連続写真を見て技を覚えようと思っている。これは典型的な視覚先行型の発想ですね。
でも、例えば、和服のときに帯を締めるとかいう動作って、連続写真があったからできるというものじゃないですよね。触覚とか体性感覚に導かれてできる動作ですから。帯は最後にぴしっと締まった瞬間に全部が締まって、それまでの工程の意味がわかるのであって、そこに至る連続写真を見ても、途中では何をしているのかよくわからない。ある段階に達したときに、いきなりそれまでやってきたことの意味がわかる。
合気道も同じです。技の写真を数多く並べてみても、技の勘どころというのは写らないんです、原理的に。それまでの全部の動きの意味がそこで一変する瞬間があるんですけれど、それは「かたち」じゃないから、写真には写らない。
誰かの話を聴いているときに、ある単語が聞き取れないということってありますよね。でも、聞き取れないままにしばらく話を聞いていると、そのうちに「あ、あの言葉か」と言うことがわかる。するとその瞬間に、それまで聴いていながら意味不明だったセンテンスの全体が一挙に意味のあるものとして与えられる。それと一緒なんですよ。武道の動きも。煉瓦を積むように、意味のある動きを一つひとつ積み重ねているわけじゃない。何をしているのかわからない動きの全体が、技が終ったときに遡及的にすべて意味を持つようになる。
視覚的に頭の中で映像をつくって、動きを一度二次元に落とし込んでから制御しようと人たちというのは、そういうことがわからないんです。だから、けっこう大変なんです……(笑)。制御意欲が強すぎるんですね。まじめなんです。ちゃんとやろうと思うから、図面にしがみつく。描いた下絵の通りに動こうとする。そんな図面なんか捨てちゃって、気分でやればいいんですけどねえ。
男性と女性だと男性のほうが視覚優位、若者と中高年だと圧倒的に中高年のほうが視覚優位です。制御意欲が強い。だから、若い女の子がうまくなるのが早い。おもしろいですね。これはたぶん僕たちの生きている社会制度そのものが視覚中心に制度設計されているせいだと思うんです。体性感覚とか皮膚感覚とか、聴覚とか、嗅覚とかに基づいて構築されたシステムって、現代社会にはたぶん存在しないんでしょうね。
熊谷 私もやっぱり、ずっと視覚優位のリハビリを受けてたという感じがしています。要は「見て模倣させるリハビリ」なんですよね。自分を鏡に映して、ちゃんと姿勢とれてるかみたいなことをフィードバックしながら、膝立ちとか立位の練習をやる。結構ちぐはぐといいますか、率直に言うと、よくわからないというふうな感じがあった。
仕事を始めてからは、今度は小児科医としての、例えば血液を抜くとか、処置をするといった練習があります。テキストを読むと「ここはこういうふうに赤ん坊の腕を握って、この血管を探って、ここで針を刺す」みたいなことが静止画で並んでいる。「熟練」には確かに視覚に頼る段階があって、みんなその通りにやって、だんだん上達していくんですけれども、私はそのステップが踏めないわけです。要するに「視覚的模倣は無理」というところからスタートするので、モダリティを変えないといけないんですね。つまり「視覚ではない模倣」を考えないといけない。だから周りに比べると、相当時間がかかったんです。
内田 ほう。
熊谷 あるとき職場を変わってものすごく忙しい病院に移ったんです。たぶんもう万策尽き果てたという状況になっていたんだと思うんですけど、「形はどうであれやんなきゃいけない!」みたいな状況に追い込まれていたときに、何かふっと抜けたんですよ。視覚ではない何かでエッセンスみたいなものが浮き上がってくるような段階がファッときた。
それは初めての一人当直のときだったんですけど、要するに追い込まれぐあいが半端じゃないみたいになった。そのとき、ちょっと破れかぶれみたいなところもあるんですけど、教科書どおりではないやり方で針を刺すということをしたんです。たぶん周りは「大丈夫なの?」ってハラハラしたと思うんですけど「しょうがないじゃないか!」みたいな感じで針を刺したら、結構わかったというか、「あ、そういうことか」というエッセンスが抽出できた気がしたんです。
ちょっと手前みそになって恥ずかしいんですけど、私はわりと後輩の研修医に指導がうまいと呼ばれるタイプなんですよ。理由を聞いたら、「要するにこういうことだよ」みたいなエッセンスレベルで言語化してくれるとよく言われました。
自分の身体では視覚的模倣は無理という条件のなかでは、「視覚的なモダリティを超えた模倣をどうするか」は、ずっと課題の一つなんですね。それはすごく切実な課題としてのしかかってくる部分です。
内田 武道においては視覚的模倣は無理というだけじゃなくて、むしろリスキーなんですよ。視覚というのは見えてるところしか見えないわけですから。目をつぶったら見えない。暗くなっても見えない。相手が後ろを向いていたら、何かしているかわからない。でも、武道というのは、危機的状況を生き延びるための技術なんだから、それでは困るわけです。
さっきのミラーニューロンの話を続けますけれど、「ミラー」という言葉からわかるように、これはすでに視覚ベースでの鏡像的模倣を前提にしているわけですよね。でも、実際に動作模倣のときに起きているのは、視覚的模倣だけではないんです。
ある人の前で僕がある動きをすると、その人は当然僕の動きを見て、無意識的に模倣的な反応をするわけです。でも実は、彼から見えない背後で僕が同じ動きをやっても筋肉は同じ反応をするんですよ。見えていないんです。だから、視覚的に真似できるはずがない。でも、不随意に、無意識に、彼の体は僕の動作を模倣してしまう。さっき言った「強い型」がありますね。ああいう形が体のそばにあると、それだけで感化されちゃうんです。知らないうちに、体が揃ってしまうんです。
熊谷 なるほど。
内田 ご本人は、自分の体が勝手にそんなことしているって知らないんです。これを「模倣」と呼ぶのはやっぱり適切じゃないだろうと思うんです。模倣って、やっぱり主体的な行為ですからね。だから、僕は「感染」と呼んでいるんです。
熊谷 まさに感染ですね。
(右は、第3回にゲストとして登場していただく内科医の佐藤友亮さん)
(次ページ ◆感染の条件としての「おびえ」)
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◆感染の条件としての「おびえ」
内田 身体感覚の相互感染によって複素的身体=キマイラができ上がっているわけですけれども、合気道のような体と体が直接触れ合うものはこの相互感染が非常に起きやすいんです。あいだに剣とか杖とかの無生物が介入すると、体感の授受は難しい。僕の合気道の師匠である多田宏先生はよくそうおっしゃっています。合気道は体感が移りやすい。「自分が赤で相手が無色だったら、触れ合った瞬間に全部が赤になる。自分が白だったら、全部が白くなる」。そういう色彩的な比喩を先生は使われるんですけれど、これは実際に稽古していると実感としてよくわかります。
例えば、先生が僕たちの前で型をされて、「はい、やって」と言われても、座っていた場所によっては、先生の手元が見えていないということがあるんです。そういうときに、「先生、すいません、今よく見えなかったので、こっちを向いてもう一回お願いします」という訳にはいかない。僕のところからは先生の背中しか見えなかったんだけれども、やっぱり見えない部分の動きもやらなければいけない。そのときには、視覚的には情報が与えられていないんだけれど、先生の背中や下半身の筋肉の張りの感じから、「右手はたぶんここにあって、左手はここで、こんなふうに相手の手を取っている」ということは何となくわかるんです。見えないけれど、わかる。そういう「見取り稽古」というのを僕らは要求されるんですけども、そのとき必要なのは被感染力の高さですね。憑依されやすさというか。
被感染力の高い人って稽古してるとはっきりわかりますね。「俺はこの技はこうやってやりたい」とか、自分のスタイルにこだわりがある人間というのはダメなんですよ。
熊谷 さっきの「武道はそもそも危機的状況において……」というお話がすごく大事なような感じがします。私の一人当直のときも危機感がピークになったときでしたけれども、介助関係でキマイラになる条件としても、やっぱり危機感というのが大事だなと思っています。それこそ今のお話に引きつけて言えば、自信満々で危機感がない介助者だと全然キマイラにならない。相互におびえ合って初めてキマイラになるというか。感染の契機として、「おびえ」の要素というのはすごく重要なのかなと思います。
内田 「おびえ」という言い方はいいかもしれないですね。よく多田先生がおっしゃる比喩だと――先生はいろんな比喩をお使いになるんですけども――、「相手の体を弦楽器のように扱え」と言うんです。チェロとかコントラバスとかいう大きな木製の弦楽器。自分がずっと愛用している弦楽器をすっと手元に寄せて弾き始める。弦楽器というのは非常に壊れやすいものなわけです。脆いものなので、扱うときは、そっと手を添えて、体を寄せていって、なじませて、それからゆっくり弓で低い音を響かせる。その比喩は実に合気道の稽古のときの体感の通りなんです。
熊谷 壊れやすい楽器……。
内田 壊れやすいから、丁寧に扱う。何十年もずっと使っている愛用の器だから、手を差し出すと、手に吸いつく。だけど、丁寧に扱う。
熊谷 なるほど。すごくわかります。
内田 これもある種の「おびえ」と言っていいと思います。
熊谷 ええ、そうですね。
内田 自分が長年使っていた愛器も、わずかな不注意で壊れてしまうことがある。稽古の相手に無用に攻撃的なことをする人がいます。そういうときには「自分の愛用の楽器を扱うように丁寧に扱いなさい」と注意するようにしています。
熊谷 それはすごく共感します。
内田 やっぱりうまい人の動きから受ける印象は「強い」とか「うまい」とかいうのではなく、自分の愛用の楽器を気持ちよく弾いているような感じなんです。おさまるところにおさまっている。力みもないし無駄もない。そういう過不足ない動きをしているという感じがすると思うんですよ。
(身体で出会う言葉――武道家と障害者の逸脱的言語論 第2回「視覚の外へ」了)
ボーナストラック!
熊谷晋一郎さんが、自著『リハビリの夜』について語ります。約4分半の字幕付き。つい聞き入ってしまいます。
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『死と身体』(内田樹著)
『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著)