第11回 言ったとおりにしてください

第11回 言ったとおりにしてください

2012.10.29 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、
駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。
臨床心理士。依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、
家族関係について提言を行う。
著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、
『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)、
『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』の墓守娘シリーズ(春秋社)他多数。
最新刊は『家族の悩みにお答えしましょう』(朝日新聞出版)。本連載の実践版です。

 

 

●プログラムが大はやりだが……

 

 

カウンセリングというと一対一の個人カウンセリングを思い浮かべる方が多いと思うが、私の臨床経験のルーツはグループ(集団)にある。大学院に入って最初に出会ったのが、心理劇(サイコドラマ)や子どもの集団活動だった。初めて一対一の面接をしたのは、精神科病院の仕事を始めてからだ。

 

そのせいか、患者さんと二人だけで向かい合ったとき、私は妙に緊張してしまったことを覚えている。前回書いたこととは矛盾するかもしれないが、どちらかと言えば、広い空間とおおぜいの参加者がいる場が、私にとって馴染みがあり落ち着ける空間なのである。

 

近年ではグループといえば、心理教育的アプローチや○○プログラムと名づけられ、パック詰めされてメニュー化した方法論が流行している。そこには、日本の精神医学のDSM志向が影響しているのではないだろうか。因果関係より、現前する症状を輪切りにした操作的診断がメインとなったことで、プラグマティックな治療方法論が歓迎されるようになったのだ。

 

もうひとつの背景として、助成金獲得のためにサービスの品質管理が求められるようになったことが挙げられる。

 

カナダやアメリカでは、医療機関に所属しない多くの援助者は、各種のファンド(助成金)の獲得によって財政的基盤を形成している。そのために必要なものが、明確な方法論とパッケージ化されたプログラムである。個人の技量に頼らず、誰がやっても一定程度の効果をもたらすために、方法論を具体的で緻密に構成し、そのとおりに実践することで、実施者の個人差は限りなく小さくなる。これが援助・サービスの「品質管理」なのである。

 

私はこれまでに数度カナダを視察で訪れたが、どの機関(エージェンシー)も、ファンド獲得担当のスタッフを擁し、大学の研究者と連携していた。そして、これまでのプログラムの効果を検証するための数値化を試み、新たなプログラムを開発していくつものファンドへの申請を行っていた。職種としては心理職やソーシャルワーカーなどが多く、医師はほとんどそこには存在しなかった。その必死さは、財政基盤の確保のためであり、組織の存続がかかっていると思えば納得できるものだ。

 

日本でも多くの理系の研究者や医学者たちが助成金を獲得するために奔走していることは周知の事実だ。ノーベル賞受賞者の山中教授が、マラソンに出場したことも研究費のためだったという。

 

それにしても、メンタルヘルスや援助職に従事するひとたちがアメリカやカナダで生まれた方法論に飛びつくのはなぜなのだろう。なかでも精神科医たちや、看護師をはじめとする医療関係者が熱心なのはなぜなのかと思う。

 

医療保険が財政基盤を形成する職場であれば、プログラム化することが迫られているわけではないだろう。単に流行を追っているのではないとすれば、すでにエビデンスの証明されている方法論を実施することが、治療効果を確実に期待できるからだ、という推測も成り立つ。

 

北米でいわば存亡の危機を賭けて作成されたプログラムが、日本では精神病院やクリニックにおいて保険点数内で実施されているという事実は、外国産の植物が日本でどのように育つか、という問いと同じ疑問を私に抱かせる。

 

 

●グループ、私の始め方

 

 

原宿カウンセリングセンターでは、現在八つのグループカウンセリング(二時間/週一回or二週に一回)を実施しているが、そのうちの五つを私が担当している。いずれもプログラム化されてはおらず、毎回のテーマも決まってはいない。緊急性の高いクライエントが参加しているグループでは、個別性を大切にしながら明快な「介入」を行う。

 

DV被害者のグループ(AG=Abused Women’s Group)、子どもの問題で来談している母親を対象とした二つのグループ(共依存のグループ=KGⅠ、Ⅱ)は、一週間のあいだに大きく事態が変化するために、状況に応じた私の判断が要求されるグループである。

 

グループを始めるにあたって、重要なことは時間厳守である。

 

しばしば医療機関において、予約時間はあってなしのごとき状態となる。予約時間より三〇分以上待たされることはしばしばだ。あくまで目安であって同じ時間の予約患者さんが何人もいるのだ、と聞いたこともある。しかし、センターのすべてのグループは、開始時間はぴったり守ることにしている。せいぜい遅れても五分以内だ。

 

ミーティングルームに円形に並べられた椅子にクライエントが座り、ファシリテーターの私はホワイトボードを背にしてほぼ中央に座る。

 

「こんにちは、では○○さんからどうぞ」

 

という言葉からグループは始まる。私から見て右端から順にひとりずつ、発表をしてもらう。もちろん、クライエントの名前は全員覚えておかなければならない。毎回、こうして私の記憶力が試される。

 

発表内容は、自己紹介、前回のグループから今日までに起きたこと、私への質問から成る。一周するあいだ、私はひたすら聞くだけで、コメントはしない。この手順を変えることはない。クライエントたちは、自発的に参加人数から自分の持ち時間を計算して発言するので、約一時間で一周する。

 

 

●儀式のように粛々と

 

 

同じ場所で、同じ時間きっかりに開始されること、右端から同じ方向に発言者が回ること、自己紹介と報告・質問をすること、私がコメントをして二時間で終了すること。この流れを変えることはない。グループ運営において、私はルーチンで「きまりきった」様式を大切にしている。それは自助グループから学んだものだ。

 

アルコール依存症をはじめとする多くの自助グループにおいては、いくつかのさまざまな「決まりごと」がある。開始時に司会者が読み上げる言葉、自己紹介の方法、それに対する合いの手、終了時のハグや隣同士で手を握り合って唱和する言葉……。

 

初めて参加したときは戸惑うが、だんだん慣れていくプロセスそのものが所属感の高まりとなる。このような儀式性が、グループの一体化を強め、人数の総和を超える何かを生み出す。この「何か」を、AA(Alcoholics Anonymous)ではハイヤーパワーと呼んでいる。

 

グループカウンセリングでは、私というファシリテーターがいるため、自助グループとは異なり、むしろ集団は私を中心として凝集する。後述するが、このような構造がもたらす安心感と所属感が、グループの効果を高めると考えているため、意図的にこの儀式性を活用している。

 

 

●自己紹介が変わっていく

 

 

さて、一週間の報告の前に必ず自己紹介をするのも、ひとつのルールである。

「二四歳長女の引きこもりと無関心責任転嫁型の夫の問題で参加している○○です」というように、紹介する内容はクライエントが自分で決める。

 

最初は「境界性人格障害の三一歳の娘のことで来ている△△です」という自己紹介もあるが、やがて「先生、この名前そぐわないですから、変えてもいいですか」と言うようになる。医学的診断名と、母親の困っていることがらとの乖離がしだいに大きくなるからだ。

「でも、なんて自己紹介していいのか、ちょっとわかりません」というクライエントには、私のほうから質問を投げかける。

 

「今はお嬢さんの何がいちばん困ったことですか?」

「精神科病院を退院してから、ずっと無気力なのが困りますね、それから無神経な発言をする夫のことも」

「それらをひっくるめるとどうなりますか?」

「『病院を退院後無気力な三一歳の娘と、無神経な発言を繰り返す夫のことで来ている△△です』でしょうか?」

「いいですね、それでいきましょう」

 

事態が好転したり新たな局面が見えてくると、最初の自己紹介を変化させる必要性が生じるのだ。クライエントにはこう伝える。

 

「お嬢さんとの関係や、家族のとらえ方が変わったから自己紹介を変えようと思ったんですね。△△さんがグループに熱心に通われたから起きた変化だと思いますよ」

 

 

 

●家族の外科手術

 

 

集団精神療法やグループセラピーと呼ばれるものは、参加者の内的変化、成長を促すことを目的としている。SSTも、参加者自身のソーシャルスキルの変化を目的としていることは言うまでもない。しかし私の担当しているグループは、参加者自身の対応や発言を変化させることで、「今、ここにはいない」人を変化させることを目的としている点で、大きく異なる。

 

一周目のクライエントからの報告に続き、ひとりずつ私がコメントするという方法も、集団精神療法ではほとんど見られないだろう。それはひとえに、介入を目的としているからだ。参加者自身の成長や内的変化は、結果として付随的に生じることはあるが、それ自体が一義的目的ではない。

 

子どもの困った行動を変化させること、そのために母親であるクライエントの言動をどのように変化させればいいのか。コメントは具体的提案や指示が中心であり、どちらかといえば、家族の外科手術を行うというイメージに近い。

 

忘れてはならないのは、どのような根拠で介入を行うか、なぜそれが必要か、を常に説明可能な状態でいることだ。無根拠な指示は単なる強制であり、盲信を強いるに過ぎないからだ。

 

「~しなさい」「だめじゃないですか」「どうしてできないんですか」「言ったじゃないですか」「あなたは~なんですよ、だからそんなことしちゃだめ」……

 

このような発言をしてはならない。これは単なる強制であり、命令であり、叱責である。彼女たちが、しばしば子どもに対して用いる言い回しを、私がなぞることになる。それは許されないことであり、カウンセラー失格でしかない。

 

 

●私ならこう言う!

 

 

私がグループで用いる介入特有の言い回しがある。

 

――○○さん、前回の宿題やってきましたか?

――前回のグループで私が言ったことをおぼえていますか?

――もうグループにどれくらい通っていますか、まさか毎回私がお伝えしていることをお忘れになっているわけではありませんよね。

――そのような発言をしたらお嬢さんはどう感じるでしょうか。

――同じことを繰り返していませんか。どこを変えようとなさったんでしょうか。

 

聞きようによっては、間接的に参加者を「叱る」発言かもしれない。参加者のなかには、「信田先生、厳しい」などと反応するひともいる。

 

正直、命令したいと思うときもあるが、どんなわずかでもいい、クライエントの自己判断の余地を残さなければならない。私の提案をノーと拒否する自由を担保しなければならないのだ。したがって、クライエントが最終的には答えを出すというという形式は死守する必要があり、私の発言は質問形を用いることになる。

 

なかには聞く耳をもたない母親もいる。そのときはゆっくりとこう伝える。

 

「○○さん、いいですか、よ~く聞いてください、一回で実行できなくてもいいんですよ。でもね、グループには現状を変えたいと思ってきていらっしゃるんですよね。であれば、私が提案するとおりにとにかくやってみてください」

 

これは「お願い」であって、命令ではない。カウンセリングの基礎になっているのが、クライエントの主体性(自己選択、自己決定)の尊重であることを考えると、介入とは、強制とクライエントの意思尊重とのあいだにあるきわどい境目を縫うようにして行われることがわかっていただけるだろうか。

 

 

●他者へのコメントを聞く意味

 

 

「『てめーなんか、親じゃねえ!』って大声出して、はさみを私に向けたんです。怖かったんで何も言えずに、外に逃げてしまったんです。主人に携帯で連絡をとったら急いで帰宅してくれたんですけど。私の対応、これでよかったんでしょうか」

 

このような質問が多く出される。ひとつずつ、すべてを記憶しておいて、コメントの時間に答えるようにする。一〇人の参加者であれば、一〇通りの問題が生じているのであり、私のコメントも一〇とおりになるはずだ。

 

重要なことは、私のひとりずつに対する個別的コメントを、他の参加者全員が聞いているという点だ。全員が自発的にノートを持参しており、ほとんどの参加者が私の発言を記録している。

 

ここにグループの意味がある。つまり自分とは違う問題で来談している参加者に対する私のコメントから、他の参加者はヒントを得るのだ。私はその点を意識しながらコメントをする。彼女たちはしばしば「自分の家だけがこんなにひどい状態だ」「うちは特別だ」と考えがちだが、個別をつきつめていくと、数多くの共通点があること、構造的には相似形であることを強調するのだ。

 

もちろん、そう考える根拠をわかりやすく示し、「これは○○さんと同じですね」「△△さんへのコメントと同じですが、もう一回繰り返しましょう」などと、つながりや重なりを作っていく。

 

 

●具体的なセリフまで指示をする

 

 

もしも私の方法に特徴があるとすれば、具体的なセリフまで指示する点だろう。

 

アディクション、統合失調、不登校、引きこもり……。さまざまな子どもの問題を抱える親を中心とした家族会は膨大な数にのぼる。そこでお題目のように唱えられているのが、「人は変えられない、自分は変えられる」「親が変われば子どもは変わる」「とりあえず距離をとりましょう」といった言葉である。

 

ではいったい変わるとはなんだろう、距離をとるとはどのようなことだろう。

 

このような一見正しい言葉は、無意味なスローガンに過ぎない場合が多い。距離をとっているつもりでも、無制限に母親が家事援助や経済援助を与えている例は枚挙にいとまがない。「変わらなくっちゃ」と言いながら、そう発言するだけで満足している母親も掃いて捨てるほどいる。

 

なにより重要なのは具体的な言葉である。どのような言い回しで伝えるかの点検を欠いては、母親の主観的満足に終わり、結果的に事態は好転しない。

 

「いいですか、私が言いますのでそれをノートにメモしてください。……はい、じゃそれを読み上げてみましょう」

 

「帰宅したら、そうですね二、三日中にその言葉を息子さんに向けて投げかけてみましょう。少し怖いかもしれませんが、勇気を出してください。ここにいる皆さんは、勇気をふりしぼって実行してきたんです。がんばってくださいね。来週、報告してください。できなくてもグループを休まないようにね、私は怒りませんから」

 

 

●私は「カリスマ」を拒まない

 

 

お読みになった方は、質問に応えたり、セリフを教えたりするなんて、本人の力を育てるより奪ってしまうんじゃないだろうか、と危惧されるかもしれない。

 

しかし、すべてを承知で介入をしなければならないときがあるのだ。指示することのリスクより、生命や安全を脅かされるリスクのほうを重視することが、介入を正当化する。

 

次回までの一週間で、クライエントが息子から頭を割られないために、娘の自殺企図を防ぐために、夫のDVを回避するために、私の指示が必要になる。そのときは「言ったとおりにしてください」と伝え、おまけのようにして「でも最終的に決めるのはご自分ですから、私が強制することはできません」とエクスキューズを述べる。

 

KG(共依存グループ)でもAG(DV被害者のグループ)でも、中心にいるのが私というカウンセラーであり、あらゆる指示、方向性が私の手に委ねられているかのようだ。そこには一種の明快な勾配関係が存在する。発言をすべてメモする参加者は、まるで私を尊師のようにとらえているように見えるかもしれない。

 

個人カウンセリングでは厳しく勾配関係、非対称的関係を避けるようにした私が、なぜそんなカリスマ的位置取りが平気でできるのだろうか。

 

危機を前にしたとき、情報伝達、方法論の明確化がどれほど必要かは、東日本大震災の折に明らかになった。家族の中で起きている危機も、実は同じ構造ではないだろうか。緊急事態を避け安全を確保するためには、効率的に方法論を徹底させる必要がある。おそらくそれは当事者ではなく、少し外部にいる「援助者」の役割なのだ。そのためにクライエントは料金を支払って来談しているのだ。少しでも家族の状況を好転させたい一心なのだ。それがわかっているからこそ、クライエントの要求に応えているという確信があるので、私は安心して指示ができるのだ。

 

言われたとおりにする、というクライエントの一見従属的態度も、指示をした結果がよければすべて正当化される。クライエントは、自分の判断力を確かなものにするためではなく、今家族で起きている問題が少しでも良い方向に向かうことだけを願っているのだ。

 

プラグマティックともいえる願望に応えるために、私は「カリスマ」的位置に祭り上げられることを拒まない。

 

 

●グループだからこその安心感

 

 

しかし、同じことを個人カウンセリングで実行するのは極めて困難である。一対一の場面で、私が指示をすれば、クライエントはとてつもない力を感じて反論できないだろう。この反論不能性は、とても怖いものである。いっぽう、グループでは安心して指示をし、方向性を提示し、やんわりと諌めたり批判したりできるのだ。それはいったいなぜだろう。

 

個人カウンセリングとの決定的違いは、参加者が大勢いることだ。終了後、彼女たちは近所のカフェでお茶をして、クーリングダウンをする(しているようだ)。一歩カウンセリングセンターを出てから彼女たちのあいだで起きることに私は関与できないし、私の責任はない。おそらく私への苦情や批判も出るだろう。そのことが、私にとってはこの上ない安全弁と思える。

 

一対一という状況は誰も見ていない空間であり、指示をすることの権力性は止めようもないことを考えると、グループは数からみれば多勢に無勢である。この非対称性ゆえに、介入に対するためらいは少なくなるのである。

 

最初にも述べたが、グループカウンセリングという場において私は開放感を感じる。大勢の参加者を前にすることはたしかにハードではあるが、のびのびできるあの感覚は、個人カウンセリングとは違った意味で、カウンセリングの醍醐味なのだと思う。

 

 

●「自分でやった」と思えるために

 

 

先日、ひとりの女性がAGを卒業した。グループを終了することは、最終的には本人が決める。

 

彼女は、5年前に原因不明ともいえる過緊張と過呼吸発作で来談したが、夫への恐怖が根底にあることを自覚し、AGに参加を開始した。四年間をかけて、DV被害者としての自覚、夫と別居する決意、二人の娘と夫の親族に対する開示、夫への告知、アパートへの別居、調停、そして離婚に至った。

 

離婚調停が成立した日、彼女は家裁からセンターに直行し、私に大きな真紅のバラの花束を贈ってくれた。芳香を嗅ぎながら、「よかった、よかった」とつぶやく私に対して、彼女は言った。

 

「これまで、ありがとうございました。ほんとにAGに参加してよかったです。いろいろ先生から言われたことを実行してきたんですが、不思議なことに振り返ると、ぜんぶ自分がやったんだ、という気がするんですよ」

 

バラの花も美しかったが、私にとって、その言葉は最高のプレゼントだった。何よりうれしく、壁に書いて貼っておこうとさえ思ったほどだ。

 

介入とは、最後はクライエントが「自分でやった」と思えなければならないのだ。

(信田さよ子「カウンセラーを見る」第11回了)

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