第10回  「引き受ける」という覚悟

第10回 「引き受ける」という覚悟

2012.9.20 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、
駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。
臨床心理士。依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、
家族関係について提言を行う。
著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、
『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)、
『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』の墓守娘シリーズ(春秋社)他多数。
最新刊は『家族の悩みにお答えしましょう』(朝日新聞出版)。本連載の実践版です。

 

 

 

私がいつも使っているカウンセリング用の部屋には窓がない。ドアの開閉ぎりぎりのサイズにまで絞られたその部屋は、エアコンと空気清浄器を使って空気を入れ替えなければ密室状態となる。四季折々の木々を窓から臨むことはできないし、陽光が差し込むわけでもない。

しかしその小さな部屋が私はきらいではない。クライエントを招き入れドアを閉めると、そこは私とクライエントだけの閉じられた世界となる。

 

何度も公的機関の相談室や大学の学生相談室を見学させてもらったことがあるが、たいてい部屋は広々としてソファーはゆったりしている。

一瞬うらやましく感じながら、もしそこで私がカウンセリングを実施したら、と想像してみる。たぶんその部屋の空気と外部のそれとはあまり変わらないだろうし、クライエントとの関係の密度は少しだけ低下するだろう。

 

閉鎖的で外界から遮断された空間の狭小性が、逆説的にクライエントと交換することで織りなされる世界の豊かさと広大さを生み出す。これは千利休によって創始された茶室と似てはいないだろうか。

茶を点(た)て客にふるまう所作に伴う緊張感は大広間では生まれず、狭い空間と天井の低さ、最小限の外光によってもたらされる。カウンセリングを行う部屋は、茶室のように最小限の広さのほうが望ましい、そう考えている。

 

 

●謙虚な物言いに潜むいやらしさ

 

では、カウンセリングは茶道のような高尚なものなのだろうか。おそらく同業者の誰もがイエスとは言わないだろう。

 

「私たちはクライエントの問題解決のお手伝いしているだけなんですよ」

「たいそうなことをしているなんて思ってはいけません。目の前のクライエントこそが解決の主体なのですから」

「私たちは職人みたいなものです。決して表舞台に出てはいけません」

 

こう述べる人が多いのではないだろうか。いかにも謙虚そうに思える言葉だが、果たしてそうなのだろうか。

 

援助職の世界は、なぜかこんな優等生的発言に満ちている。落としどころに「クライエントとの協働」「解決主体としてのクライエント」(クライエントを「患者」や「利用者」と言い換えてもいい)といった言葉を散りばめれば、どこに行っても通用するし、研究論文の一本も書けてしまうほどだ。まさに決めゼリフである。

 

そんなセリフを聞いているとイラついてくる。講演などでそんな言葉が飛び交うたびに、思わず「チッ」とつぶやいてしまう私だ。

 

自分の役割を限定し、控え目であることを強調するのは、単に通行手形を切っているだけではないだろうか。「患者様」という表現に対して抱く違和感と、それはつながっている。

政治家が自らの政治姿勢を正当化する手段として、「国民の皆さんのために」「国民目線で」というキーワードを用いるのとどこが違うのだろう。

 

「国民のために」という言葉が政治家のエクスキューズになるように、「クライエントが主体である」と述べれば私たちも自己正当化できる。決めゼリフをスローガンやお題目のように使うことで、クライエントのことを考えているように見えて、実はカウンセラーである自分たちを守っている。

そこに、なんともいえない欺瞞を感じてしまうのだ。へりくだっているかに見えて、実はクライエントを蔑視しているのではないかとさえ思う。

 

 

●心の悩みか、おしゃべりか

 

先日ある学会で座長を務める機会があった。

ジェンダーを珍しくテーマとして扱う3つの発表演題をまとめなければならなかった。そのうちのひとつは、性的マイノリティの人たちが集う場を運営する人の発表で、当事者でありつつ援助者であることという刺激的な問題提起を含んでいた。

 

質疑応答の際、フロアから投げかけられた質問がある。それほど若くはないひとりの臨床心理学研究者はこう述べた。

 

「その人たちは何か悩みがあって来ているんでしょうか。それとも話す場が欲しくておしゃべりしたくて来ているんでしょうか」

 

さらりと聞き流せば、奇異な質問ではない。しかし私は、そこに「本質的」な何かを感じてしまった。

同性を愛してしまう人たちが自分を語る場が欲しいという切実さは、質問者にすれば悩みの範疇に入らないのだった。「心の悩み」をあつかうのが心理職であると考える彼にとって、自分のセクシュアリティの問題、カムアウトする場への欲求というのは、「心の悩み」ではないのだ。

 

今やLGBTという言葉が市民権を得ているが、九〇年代までは同性愛者は「異常心理学」のカテゴリーに閉じ込められていた。おそらくその時代であれば「心の悩み」に加えられただろう。

現実生活におけるさまざまな困りごとを、心的機制・心的現象として把握したときに、それは初めて「心の悩み」になる。そう考えている研究者は多い。むしろ臨床心理学のメインストリームはそちらにあるだろう。

          

本連載においても私は「こころ」「心」という言葉を極力使わないように避けてきたが、その理由が、彼の質問によってはっきりした思いだった。

おそらく質問者の頭の中で組み立てられていた臨床心理学的シェマの中に、発表内容は包含されなかったのだ。それは心の悩みではない、とすればその人たちはおそらくおしゃべりの場を求めて訪れるのだ、そう彼は考えたのだろう。

発表者に次いで、座長である私も意見を述べた。

 

「自分の苦しみをどのように名付けるか、同性を愛する自分をどう名付けるかは、クライエントのアイデンティティの問題でもあるでしょう。その苦しみは私たちの支援の対象であると思います」

「グループは、自分と同じ苦しみを抱えた人と出会える場であり、そのような場の設定と運営によっては、個人カウンセリングを超えた変化をもたらすこともあるでしょう」

「なにより、深い孤立感を抱えてきた人がグループに参加することは、大きな救いになると思います」

「悩みとはいったいどんなことなのでしょう。困っていることと悩んでいることはどのように重なるのでしょう。言葉の整理も必要だと思われました」

★LGBT……女性同性愛者(レズビアン:Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ:Gay)、両性愛者(バイセクシュアル:Bisexuality)、性転換者(トランスジェンダー:Transgender)の性的少数者を呼称する頭字語。

 

 

●見立ての前に「覚悟」が試される

 

精神科医による診断行為そのものが患者の症状に基づき、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の診断と統計の手引き)に代表される診断基準のどこに位置づくかを検索するものだ。精神科医が優れているかどうかは、他科医同様に正確な診断能力にあることはいうまでもない。二〇一三年にはDSM−Ⅴが発表されるため、日本の多くの精神科医はすでに新たな変更点を見越しているほどだ。

 

一方、臨床心理学においては「診断」ではなく、「見立て」という言葉を用いる。臨床心理学的支援のためには、正確な見立てが求められる、とされている。おそらく質問者の彼は、みずからのシェマをフル稼働させて、発表された事例を見立てようとしたのだろう。

 

しかし私は――問題発言かもしれないが――「見立て」をそれほど意識したことはない。見立てを成立させている固定的な前提を疑いたいと思うからだ。

 

これまでの連載を通して述べてきたように、クライエントの語る言葉をひとつの物語として聴き、私の頭の中で情景を思い浮かべ、映画のように細部を想像することが、カウンセリングにおける私のひそかな楽しみなのである。それがどれほど悲惨な内容であろうと、心揺さぶられ、動かされることによって、この仕事を続けてきてよかったと思うのである。

 

しかし、プロとして仕事をするためには楽しんでばかりはいられない。

クライエントの語る言葉を聴くということは、それを「引き受ける」という覚悟を伝えることでもある。

少なくとも私はそのように思いながら座っている。おうむ返しをしたり、うなずいたりするという技法もあるが、カウンセラーの不安や怯えは不思議とクライエントに伝わってしまうものだ。

 

引き受けるという姿勢は、クライエントの背負ってきた重荷が少し軽くなることを意味する。

「ああ、このカウンセラーは私の苦しみを引き受けてもいいと思い定めている」と思ってもらえることが、カウンセラーとして最初の関門である。

 

このような安堵感、安心感を抱き、楽になることは、クライエントの責任の放棄につながり、私への依存を助長しているように思われるかもしれない。実際、重荷を背負ってきたクライエントが、判断する主体までも私に明け渡してしまう危険性は十分にある。

 

しかし重要なのは、私が実際に引き受けることは不可能だということである。にもかかわらず、カウンセリングの時間だけはその過剰なほどの責任を引き受けてもいいという「覚悟」を私が示すことで、そこにクライエントからの信頼が生起する。

 

この「責任をめぐる交換」とでもいえるやりとりは、たとえそれが幻想であったとしても、カウンセリングには欠かせないプロセスであるように思われる。

これを「ラポール」と呼ぶのかもしれないが、私にはもっと微細でいて、どこか面接試験のようにも思えるのだ。もちろん私を面接するのはクライエントである。「このカウンセラーは私の重い荷物を背負えるだけの人物かどうか」と。

 

 

●否定なき「とらえ直し」

 

 

二番目に待ち構えているのは、「そのままのあなたでいい」などというキャッチ―な言葉とは正反対の、「とらえ直し」をするという関門である。

 

とらえ直しとは何か。例を挙げよう。

クライエントがカウンセリングに来談するのは、苦しかったり心配だったり、つらかったり、迷ったり、放っておけなかったりするからだ。それを先述した質問にも見られたような「心の悩み」と表現すれば、私たちの心の中に生起する出来事となる。しかし、それを「問題」ととらえ直せば、他者と共有可能でもっと外在的な出来事になるだろう。

 

「私はこのような悩みをもっているんです」

とクライエントが表現したら、

「あなたはそのような問題に困っていらっしゃるんですね」

と私が言い換える。これがとらえ直しである。

 

クライエントの視座(問題のとらえ方)を とすれば、それに苦しみ、限界を感じつつも、混乱してそれ以外の可能性が見えないために、結果として を維持しているという状態は珍しくない。そのことに対して自覚的なクライエントもいれば、以外の世界はありえないと考えている人もいる。

たとえば、「母親のことをうとましく思うようになってつらい」と述べる女性は、「娘が母に対して忌避感情をもつことはよくない」という に対して自覚的である。だからこそ から逃れられない自分を責めるという悪循環に陥っているのである。

 

字義通りに解釈された「とらえ直し」は、の否定につながってしまう危険性がある。のとらえ直しは、の否定ではないからだ。したがって、とらえ直しの基盤として次のようなプロセスが必要となる。

すなわち、の内容を十分汲み取り、どのような必要があって が形成されたのかを知り、クライエントにとってそれがひとつの必然であったと了解すること、そして のもたらす意味と切実さを心打たれるまでに追認すること、である。これまで避けてきたが、あえて言うならば、これを「共感」と呼びたい。

 

 

●常識を再定義するとはどういうことか

 

少々硬い表現になるが、とらえ直しとは、「再定義」することである。

ええっ、再定義って? と驚かれるかもしれないが、特に難しいことではない。

 

たとえば、机の上に一個のリンゴが置かれているとしよう。一定の距離で決められた位置からリンゴを眺めれば、その光景は変わらない。静物画といわれるように、リンゴが動かない限り、時間が経っても同じ状態をデッサンすることができる。

 

再定義するためには、私たちがリンゴに近づいたり、角度を変えたり、裏側に回ったり、高いところから見下ろしたりしなければならない。そうすることで、まったく違うリンゴの姿が見えてくるだろう。

さらに、リンゴのにおいを嗅ぎ、触って手触りを確かめてみることで、私たちの身体とリンゴが近しく交わることになる。どこの産地か、種類は何かを調べ、どこで買ってこの部屋まで誰が運んだかという「歴史」や「物語」を知ることで、リンゴの見え方が変わるかもしれない。

 

同じように、「心」「心理」という言葉をとらえ直すこともできるだろう。そんなものはしょせん、デカルトから始まる近代哲学の心身二元論的世界観を起源とする考え方にすぎない。そうくくってしまうこともできる。にもかかわらず、自分の内部ばかりを見つめ「自己肯定感」といった言葉にしばられたクライエントは多いものだ。

家族、親子、夫婦、そして性別、働き方、お酒の飲み方……。数え上げれば、私たちが生きている社会が秩序立って維持されるために、どれだけの「常識」が必要とされ動員されているのだろう。

 

それらすべてが無意味だと言いたいわけではない。カウンセリングに訪れる多くの人たちにとって、そのような常識こそが桎梏(しっこく)を生んでいると伝えたいのだ。問題のとらえ直し、再定義が可能であることすら信じられないほど、その拘束は日常化している。

 

その人たちの心に問題があるのではなく、病理が潜んでいるわけでもない、そう再定義すること。あなたが苦しくどうしようもなくなっていることは当然であると再定義すること。

このような問題のとらえ直しを、クライエントに対して積極的に伝えていくことがカウンセリングの二つ目の関門である。正確に言えば、その関門は門というよりトンネルのように長く続き、抜けることはなかなかできない。なぜならば、社会の常識は網の目のようにはりめぐらされており、想像を絶するほど強固だからだ。

 

再定義し、問題をとらえ直すためには、カウンセラーである私自身が日常生活において、多重・多層的常識の世界を生きなければならない。カウンセラーとしての少々過激な発言と、私生活におけるコンサバな態度が共存できるように、判断軸の幅をマックスにまで広げなければならない。そして予測不能であることを偏愛し続けながら、ルールを自分に課さずにだらしなく暮らすことを心がけている。

 

偉そうに書いてきたが、これらが私なりの努力といえるだろう。

共感疲労はないけれど、正直、自分自身の許容度、判断する幅の広さを絶えず更新することに割くエネルギーが枯渇しそうになることもある。

その都度どうやって燃え尽きずにやり抜いてきたのだろう。それを振り返ってみるのも、意味があるのかもしれない。

(信田さよ子「カウンセラーを見る」第10回了)

 

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