かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2012.9.10 update.
このたび、かえるの夜回りのおばあちゃんこと、後藤さかるさんの歌われる歌を集めた『後藤さかるさん 思い出の歌』を「かんかん!」に掲載させてもらえることになりました。私たちが施設で聴いていた、さかるさんの歌声が、全国のみなさんにも聴いていただける機会に恵まれ、心から感謝しております。心の奥に沁みてくる歌声を是非みなさま楽しんでいただき、そしてその歌を歌い継いでいっていただければ、さかるさんも喜んでくれるのではないかと思います。
また、さかるさんの歌われる歌は、その多くが、市販の歌集に載っていないばかりでなく、今ではほとんど知られていないものです。ですから、どのような時代に、どのような地域で歌われていたのか、よくわからないというのが正直なところです。もし、お聞きになった方のなかで、この曲は知っているとか、歌っているのを聞いたことがある、あるいは、実際に歌っていたことがあるという方などいましたら、小さなことでもかまいませんので、情報を寄せていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
六車由実
(『驚きの介護民俗学』著者)
注)後藤さかるさんは、『驚きの介護民俗学』では「斉藤のぶゑ」(仮名)さんとして登場しますが、今回は、ご本人とご家族のご厚意により、本名で掲載しました。
曲目
(曲名をクリックすると歌詞と音源に飛びます)
小さな思い出の記
ショートステイを利用されるとき、後藤さかるさんはいつも私たちに美しい歌声を披露してくれます。他の利用者さんも職員たちも、さかるさんが歌い出すと自然とそちらの方へ耳を傾けます。最初は、初めて聞く歌ばかりだったのですが、だんだんと回を重ねて行くうちに、みんな手拍子を取り始め、そして一緒に歌ったり、踊ったりするようになりました。さかるさんの歌声は、みんなを笑顔にしてくれます。
さかるさんの歌声を耳にすると、みんなが口をそろえて尋ねることがあります。
「本当にきれいな声だねえ。それにいろんな歌を知っているよね。昔歌手だったの?」
さかるさんは、えへへと笑っていつもその質問への答えをごまかしますが、本当にプロの歌手のように、すばらしい歌声なのです。
そこで、私は、我らが歌姫・さかるさんの生い立ちについて、さかるさんに少しだけ聞き書きをしてみました。ここにその一部をまとめておきます。
◆
☆歌を習う
後藤さかるさんは、大正八年、御殿場市原里村の佐藤家に生まれました。父親は雑貨商をしていたそうです。
実家では、田植えの時や、稲刈りの時など、農繁期に農家の子供を預かって面倒を見ていました。お金はもらわなかったそうです。みんなで歌を歌ったり、踊りを踊ったりして遊ばせていました。中にはいたずらをする子供もいたけれど、いたずらはいけないよ、とやさしく教えてあげました。いたずらがひどいと叱ったりもしました。親の代わりをしなきゃいけないから、とさかるさんは言います。
子供たちに教える歌は、16~17歳の時に、歌の先生に教わって覚えたそうです。先生の家に3カ月くらい下宿して、ご飯を作ったり、掃除をしたり下働きをしながら、時間が空いた時に歌を教えてもらいました。それまで音符も知らなかったから、音符を読むことから覚えました。喉をうるおしてから声を出すとか、お腹に息を吸って吐くとか、歌を歌うための基本から教わったのです。
そこには、踊りの先生もいました。雀がどういうふうに踊るのか、かえるはどんなふうに夜回りするのか、その様子を観察して踊りを考えるのだと教えられました。だから、さかるさんは、夜12時過ぎにみんなで起きてきて、田んぼのまわりに集まって、かえるの様子を観察したといいます。そして、発表会で各自発表をしました。それをみんなで批評し合って、ひとつの踊りを作りだしたそうです。先生は厳しくて、しっかり観察して作った踊りでないと失格になることもあったのだとか。
そうしてさかるさんがわざわざ歌や踊りを先生について習ったのは、預かっている子供たちに歌や踊りを教えたかったからだそうです。だから、大変でも苦労とは思わなかったといいます。いつまでも居残りをして習うことも苦ではありませんでした。いろいろ教わって、歌や踊りができるようになる。みんなより一歩先に行きたいと思って頑張ったのだとさかるさんは言います。
☆農家へ嫁ぐ
さかるさんは、二十歳の頃に裾野の農家に嫁ぎました。親戚のおばあちゃんの紹介だったそうです。さかるさんはそれに従い、簡単なお見合いをして結婚をしました。
でも、さかるさんの実家は雑貨商だったので、田植えもしたことがなく、嫁いでから苦労したといいます。何もかもが初めてのことばかり。だから、いつもお姑さんにしぼられてばかりでした。さかるさんは、体もあまり強くはなく、力仕事ができない体だったので、稲刈りをしてもなかなか十分にはできませんでした。米を食べられるようにごみを落としたりするのもできませんでした。唐箕も初めて使ったそうです。
「苦労しに嫁に来たようなもの。」とさかるさんは言います。「私は昔は何もできなかったから、一生懸命やっても、お姑さんにピーピー言われておっぱわれちまう。お姑さんは口には出さないが、そういう態度だったよ。」とさかるさんは言います。
さかるさんが苦労している様子を知って、実家の両親は、「何でもお前のできることをやればいいんだよ」と励ましてくれましたが、お姑さんはいつも見ていないようで見ていてあれこれ細かいことを注意されたそうです。それで、さかるさんは、できるだけお姑さんにいじめられないように努力しました。
「なるだけ自分ができるだけのお米を作ったり、いろいろな工夫をしていた。遊ばないで、真面目に。大変だったよ。よーく見ているから。」
☆歌を歌う幸せ
そんな辛い時に心の支えになったのは、やはり歌を歌うことであり、そして若い頃に子供たちと歌を歌ったときの思い出だったといいます。さかるさんは、歌の思い出を再び教えてくれました。
先生に習った歌や踊りだけでなく、流行歌なども近所の飲み屋でお客さんが歌っているのを聞いて覚えたりもしました。「坂田山心中」(実際にあった心中事件)の歌などは、可哀そうだから歌わずにはいられませんでした。歌っていると涙がぽろぽろとこぼれてきたそうです。
けれど、そういう歌を聴いても子供たちは案外泣かなかったのだそうです。「子供は強いよ、だから子供にいつも励まされてた」とさかるさんは言います。
そういう子供たちのために、歌に合わせて、子供でも簡単に踊れる踊りを自分で考えたりしました。
「みんなで踊って覚えて、家に帰ってからも家族と踊れるように、そういうささやかな踊りがいいでしょ。」
そうさかるさんは言います。
結婚してからは、子供を集めて歌を教えることはなかったそうですが、神社のお祭りのときなどみんなの前で歌うこともあったし、それから、お子さんやお孫さんたちに歌を歌ってあげることもあったのだそうです。
さかるさんの人生にとって、歌を歌うことは決して欠かすことのできない、幸せのかたちだったのかもしれません。
◆
さかるさんにお若い頃のことをお聞きして、なるほどと思ったのは、さかるさんが歌を歌う時、いつも私たち職員や他の利用者さんたちの顔を見て、楽しそうにしているのかどうかを気遣っていることです。きっと、子供たちに歌や踊りを教えていた頃から自然に身についていた心遣いだったのですね。
さかるさんの歌声とその声で歌われる数々の歌を、私たちへのご褒美とするだけではあまりにもったいない、という思いに駆られ、今回、歌声を録音したCDを付けた歌集としてまとめることにしました。
ここに収録したのは全部で13曲ですが、半分以上が市販の歌集には載っていないものです。ですから、さかるさんの歌は貴重な歴史資料にもなるかもしれません。また、一般に知られている歌でも、さかるさんの歌われるままに記録してみました。さかるさんバージョンとして楽しんでいただければ幸いです。そして、さかるさんの歌声を多くの方に聞いていただき、そして、さかるさんの歌われる歌が、多くの方にも歌い継がれていくことを願ってやみません。
最後に、この歌集を作ることを快く承諾してくださった後藤さかるさんとご家族に心から感謝申し上げます。そして、さかるさん、これからも私たちを美しい歌声で励ましてください。
平成24年9月吉日
聞き手・書き手・録音・編集
介護職員 六車由実
語りの森へ。
『神、人を喰う』でサントリー学芸賞を受賞した気鋭の民俗学者は、あるとき大学をやめ、老人ホームで働きはじめる。そこで出会った「忘れられた日本人」たちの語りに身を委ねていると、やがて目の前に新しい世界が開けてきた……。「事実を聞く」という行為がなぜ人を力づけるのか。聞き書きの圧倒的な可能性を活写し、高齢者ケアを革新する話題の書。