かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2012.8.23 update.
1977年生まれ。小児科医。新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。
以後、車いす生活となる。
東京大学医学部卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務を経て、
現在東京大学先端科学技術研究センター特認講師。
少年時代に明け暮れたリハビリ生活を
科学的かつ官能的に描いた『リハビリの夜』(医学書院、2009年)で、
第9回新潮ドキュメント賞受賞。
平成24年8月24日
熊谷晋一郎(小児科医、脳性まひ当事者)
1 はじめに
薄れていく恐怖と痛み、深まっていく孤独の中で、リビングウィルに思いを込めたすべての人々に対し、私は、心からの敬意を表したいと思います。
私は、大切な人に負担をかけることなく、ひっそりと、粛々と、死への準備をしようという深い思いを想像すると、胸が熱くなりますし、むしろそのことを批判しようとする人に対して、怒りを覚えます。
この文章は、その愛情深く、利他的な思いを「悪用」しようとする諸力に対して、書かれたものです。
2 人を自ら死に追いやるもの
私たちが、死を決意するのは、どのような時なのでしょう。
思想や人文・社会科学の領域だけでなく、医学もこの問いに答えようとしてきました。
たとえば自殺予防についての医学的な研究によれば、以下に述べる3つの要因がそろった時に、人は死を選ぶということが明らかになりつつあります。
(1)痛みや恐怖の感じにくさ―自殺潜在能力
人間には本来、生きようという自己保存の本能が備わっているので、痛みや恐怖をのりこえて死にいたるような方法を選ぶのは難しいものです。
しかし、つらい治療に伴う反復的な痛み、自殺企図や自傷行為、他者から与えられる心身への暴力の習慣化などによって、自らを傷つける際に生じる恐怖や痛みに耐える力を身につけてしまうと、人は死を選ぶことにためらいを感じにくくなります。
こうして、自己保存を乱されているのに、痛みや恐怖を感じにくい体質になっていることを、「自殺潜在能力が高まっている状態」と呼ぶことがあります。一度この能力が高まった場合、低下するには長い時間がかかります。
ただし、自殺潜在能力が高まっているだけでは人は自殺をしません。それは自殺をしたいという気にならないからです。つまり、自殺潜在能力のほかに、自殺願望が加わらないと、人は死を選ぼうとはしないと言えます。
そして、このような自殺願望が出てくる背景には、以下に述べる「所属感の減弱」と「負担感の知覚」の二つの要因があります。
(2)所属感の減弱
自分は誰ともつながれていないという、孤独感や疎外感のことです。比較的短期間で変化する可能性があるといわれます。
(3)負担感の知覚
大切な他者にとって自らが負担になっているという感覚のことです。これも、比較的短期間で変化する可能性があるといわれる要因です。
つまり、長期間にわたる痛みや恐怖の体験によって、自殺潜在能力が鍛えられてしまったところに、周囲の人とつながっていないとか、大切な人の重荷になっているとか、そういう要因が加わることによって、人は死に向かうということが、明らかになりつつあるわけです。
3 法制化に反対する理由
プロとして、人の最期に立ち会う医師は、人間がどのようにして死へと向かうのかについて、基本的な知識と対応方法を、身につけておくべきだと私は思います。
目の前で、リビングウィルに渾身の一文字一文字を書き込んでいる人を見たときに、
「この方はなんどとなく痛みや恐怖を味わってこられたのではないか」
「この方は誰ともつながりを感じられていないのではないか」
「この方は大切な人に負担をかけたくない一心なのではないか」
と思いをめぐらすのが、臨床医というものだと思うのです。
ですから医師は、
「人工呼吸器をつければ、大切なご家族への負担がどうなるかお分かりですか」
などという言葉をかけることが、思い切り死へと背中を押す行為であるということに、気づかなくてはなりません。
むしろ医師は、人々を自ら死へと向かわせる世間の圧力に対して、誰よりも敏感でなくてはなりません。
慢性的な痛みや恐怖を与えたり、人と人とのつながりを奪ったり、親族などの大切な人にケアの負担度を集中させるような、世の中の諸力に対して、敏感でなくてはなりません。
そのためにこそ、医学という叡智は活用されるべきです。
私は医師として、この法制化に反対せねばなりません。
なぜなら法制化は、医師が臨床現場で当然なすべきこのような専門的努力を放棄させるからです。