第8回 「自己選択」という契機をどう挟み込むか

第8回 「自己選択」という契機をどう挟み込むか

2012.7.09 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、
駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。
臨床心理士。依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、
家族関係について提言を行う。
著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、
『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)、
『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』の墓守娘シリーズ(春秋社)他多数。
最新刊は『それでも、家族は続く――カウンセリングの現場で考える』(NTT出版)。

 

 

カウンセリングに訪れる三つのタイプ

 

私たちのセンターにはさまざまな主訴を持つひとが訪れる。来談するクライエントの分類にはいろいろあるが、たとえば解決志向アプローチを提唱したミラーら(一九九二年)が述べているタイプは次の三つである。簡単に説明してみよう。

 

*解決志向アプローチ:Solution- Focused Approachのことを指す。詳しくは「飲酒問題とその解決、ソリューション・フォーカスト・アプローチ」(スコット・ミラー、インスー・キムバーグ著、白木、田中、信田訳、斎藤学監訳、金剛出版、一九九五年、を参照してほしい。

 

(1)visitor(ビジター)タイプ

果たしてこのカウンセラーは使えるかどうか、カウンセリングっていったいどんなものか、役に立つかどうか、ひとまず様子を見るために来談する。

 

(2)complainant(コンプレイナント)タイプ

どうしてこんなところに来なくてはならないのか、本当は来たくなかったのにしかたなくやってきた、と不満を抱えて来談する。

 

(3)customer(カスタマー)タイプ

カウンセリングを利用して自分の問題を解決していこうという積極的な姿勢がはっきりしている。

 

一般的なカウンセリングのイメージは、高い料金を支払って訪れるのだからクライエントの多くは(3)のタイプだと考えられている。従来の精神分析を原型とする心理相談のほとんどが、最低週一回のきっちりとした構造のもとで進められるものであり、カスタマータイプでなければとうてい継続は不可能だ。

 

しかし私の経験からは、(3)のタイプはむしろ少数派のように思われる。もともとのフィールドがアルコール依存症をはじめとするアディクションであったことも大きく影響しているだろう。アディクションにおいては、(2)が日常的であり、(1)も珍しくはないからだ。

 

 

●「動機のないひと」への着目

 

 アディクションについては拙著『アディクションアプローチ――もうひとつの家族援助論』(一九九九年、医学書院)を参照してもらいたいが、「周囲から問題行動を起こしていると思われている本人は問題意識をそれほど持っていない、だから周囲はそれを変えさせようとして四苦八苦する」という構図がアディクション全体を貫いている。ある行動の主体の認識と、その行動によって影響を受ける他者の認識とのあいだには大きな落差とずれがある。

 

この問題は、『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』(一九九六年、草思社)をはじめとするベストセラー本が繰り返し扱ってきたテーマでもある。実は多くの犯罪もそれと同じ構図を持っている。罪を犯しても逮捕されずに平然と社会で暮らすひとと、終生消えない傷を負って暮らす被害者との対比を見ればそれは明らかだろう。

 

アルコール依存症の男性とその妻との関係は、夫婦ゆえに簡単に離れたり関係を解消できないために、その落差は深刻な問題となる。子どもたちが両親の夫婦関係から大きな影響を受けることもはっきりしてきた。アメリカにおいて、一九八〇年代以降多くのソーシャルワーカーや心理職といった援助者がこの問題に取り組んできた。その中から多くの斬新なアプローチが生まれたが、解決志向アプローチもそのひとつである。

 

近年カウンセリングにおいて、本人を行動修正に向けて方向づける機能が期待されるようになっている。そこには介入や指示、さらには一種の強制も含まれる。たとえば、性加害者の行動修正、DV加害者の暴力防止などである。これらを総称して「加害者臨床」と名づけているが、この名称自体が司法的判断の系譜にあることを意味している。

 

アディクションはアルコール依存症をその代表とし、疾病(病気)であるとされ、精神科医療の対象とされてきた。依存症者は加害者ではなく「病者」として医療の系譜のなかにある。医療機関では疾病という明確なターゲットがあるので、明快に行動修正の指示が出せる。

 

しかしながら医療モデルに拠らないカウンセリングにおいては、引き続き来談するための動機はクライエントに任されているし、指示する根拠となる権限(司法的、医療的)もない。あくまでクライエントの内発的動機を待つしかないのである。したがって、カウンセリングにおける方向づけ、介入・指示・強制は独特の回路を経ることになる。

 

 

●三十分枠と一時間枠

 

「一日何人のクライエントと会うんですか?」とは、よく投げかけられる質問だ。一時間と三十分の場合があるが、グループカウンセリングを実施しない曜日の場合、多いときで一日七~八人のクライエントと会う。

 

三十分ではどうしても細切れとなるし、三時間で三人と会うより、三時間で六人と会うほうが圧倒的に疲労度は増す。すぐに本題に入るわけにもいかず、少し前置きがいる。また終了近くなれば、今回の感想や次回までのつなぎも必要となるだろう。すべてを考慮するとやはり一時間が望ましい。ではどんな場合に三十分にするのか。

 

一つは経済的困難をかかえたクライエントの場合である。アルバイトで生計を立てているひとが、どれほど頑張ってカウンセリング料金を捻出しているかは涙ぐましいものがある。そんなクライエントの場合、三十分で中身を濃くし、ときには私の判断で少し延長したりする。彼ら、彼女たちは私がカウンセリングに来る必要があると指示したり強制したわけでもない。自発的にやってくるのだ。

 

もう一つの場合は、そこで何を話したかではなく、時間とお金と労力を使ってカウンセリングに行くという行為そのものが意味を持つ場合である。したがって三十分でもいいから定期的に来談することを勧める。アディクションの本人、DV加害者、性加害者などは三十分という枠でカウンセリングを行う。

 

 

 

一時間のカウンセリング例

……アルコール問題をかかえた美貌のAさん

   

Aさんは、某クリニックの医師から「ここにカウンセリングに行きなさい。そうしないとあなたは今の職を失うよ」とセンターのパンフレットを渡され、来談した。事前の電話予約ではアルコール問題の本人という主訴だった。

 

予想外の美貌に驚きながら、カウンセリング室に案内してドアを閉めた。

 

「どうぞお掛けください。信田と申します」

 

いつもどおり、にっこりと笑みをうかべながら私はソファに座った。目の前のAさんは緊張してまるでお面をかぶったような表情をしている。よく見ると、美人というにふさわしいその顔にはかなり厚めのメイクが施されていた。

 

不自然なほどのファンデーションだと思いながらもっとよく観察すると、そこには小さな傷跡がいくつも残っている。鼻の横に薄い傷跡が一本、額の右側にも一本、いずれもメイクでは隠しようのない傷跡である。おそらくこれらは酔って転倒した際につけられたものではないか、と思った。

 

「今日はよくいらっしゃいましたね。ところで、カウンセリングにいらっしゃったきっかけはどんなことでしょう」

「はい、BクリニックのC先生から言われまして……」

 

私が記録をとりながら聞くうちに、経過を語る彼女の口調は少しずつ強くなった。

 

三十六歳の彼女は出版社で多忙な仕事をこなしていた。しかし仕事が終わっていつものバーに行くと、飲み始めて二十分くらいまでの記憶しかない。気がつくと朝になっている。不思議なことに、ちゃんと着替えてメイクを落としてベッドで眠っている。

 

二年前から、足にあざをつくったり、靴のかかとが折れたりする事態が生まれた。今回職場の上司から受診を勧められたのは、あごを打ってかなり出血したことだった。朝起きて気づいたのだが、さすがにバンドエイドでは隠せず外科医を受診した。縫合されたため半日欠勤したところ、上司から呼び出された。上司から医師の受診を勧められたが、アルコールの名医だと言われたことがショックだった。

 

四時間待って診てもらったが、ろくろくこちらの話も聞かないで、カウンセリングに行けと言われた。おまけにこのままじゃ職を失うとも言われた。

 

 

●あいづちがつくる共闘関係

 

「そうですか、じゃC先生の言葉でかなり不快な思いをされたのですね、四時間も待たされたのに」

 「そうなんですよ、ぶっきらぼうで決めつける態度なんですね、あの先生。なんで私が職を失うなんて断定的なこと言えるんでしょう」

 

クライエントの話を聞きながら相槌を打つことは重要な意味を持つ。クライエントがどのような不満を持っているか、どれほど理不尽なことをされたと思っているかを、うなずきながら、ときには「ええ~っ、それはひどいですね」といった相槌を打ちながら聞くのだ。

 

ここにやってくるまでに受けた強制力に対して納得できないでいるクライエントに対して、半ば同意するのである。このことを動機づけ面接法では「抵抗とともに転がる」と表現するが、クライエントの言葉をもっともだと思いながら聞けるかどうかは大きな分岐点となるだろう。表面的な相槌かそうでないかは、クライエントから敏感に嗅ぎ分けられるものだ。

 

*動機づけ面接法:動機のあるなしの二分法ではなく、動機づけのなされるプロセスを細かい段階に分けてそれぞれに対する効果的な働きかけを示す方法。近年アディクションの援助者ではこれの習得が一般的になりつつある。

 

たとえば万引きのケースでは、前々日警察に補導されたという母親からの連絡が入っているのに、娘であるクライエントはそのことをおくびにも出さない。なかには露悪的に自分の行った暴力や性犯罪を仔細に語るクライエントもいる。カウンセラーはクライエントのこのような言葉をいったん信じて騙されてしまうことが要求される。被害者感情からすれば許されない内容も、外国語を初めて聞くように無批判に聞くことが要求されるのだ。

 

こうすることは、クライエントの不満・納得のいかなさを、それを強制した人(多くは医師や家族)に向かって集約し、私というカウンセラーが味方(クライエントの側)であるという印象を植え付けるためである。もしくは一般常識にのっとって頭から自分を断罪する人ではないというカテゴリーに入れてもらうためである。そのような存在として位置づけられることなくして、継続的なカウンセリングに導入することは不可能だ。

 

そのためにいちばん手っ取り早いのが、共通の敵をつくることでクライエントと「共闘・協働関係」を形成することだ。カウンセリングを強制したC医師に対する不満はそんな効果をもつ。しばしば、医師の役割は進んでそのような憎まれ役を演じることではないかと思うときがある。

 

もちろん同じ専門家としてC医師がそこまで彼女を脅迫的な言葉で指示するには、それ相応の根拠があるに違いないことは百も承知である。この時点で、すでに私の中にはAさんをめぐるアルコール問題の構図が描かれていた。

 

 

●アルコール問題は後回し

  

これまで何度も彼女はアルコールによるブラックアウトを起こしているのだろう。最近は顔に傷ができるような転倒によって、職場の同僚や上司も知るところになっている。ひょっとしてこの美貌ゆえに、入社当初から飲みに行くたびに豪快な飲みっぷりが評判だったのかもしれない。

 

上司が受診を勧めるというのは、日本の企業では相当な事態である。この時点で彼女にアルコール問題に気づいてほしいという上司の願いもあったのだろう。しかし猫の首に鈴をつけるのは医師に任せようと思ったに違いない。

 

おそらくC医師はアルコールを止めるように言ったはずだ。Aさんがいちばん抵抗したのはその点だったのだろう。ひょっとしてカウンセリングではアルコールを飲み続けてもいいと言われるかもしれない、そんな可能性に賭けたいという意図も来談の陰にあるのかもしれない。

 

「じゃ、C先生のところを次に受診される予定はないんですか」

「でもね、上司から言われたから一か月後にもう一回だけと思ってます」

「そうですね、受診されたほうがいいと思いますよ。会社にも顔が立ちますからね」

 

ここでAさんは朗らかに笑った。いっしょになって笑いながら、私は次の段階に入ろうと思った。

 

「ところで、カウンセリング以外にC先生がおっしゃったことはありますか」

「……そうそう、血液検査をしました。だから結果を聞きに行かなくっちゃ、次回」

「そうですか、血液検査ね。……体調はどうなんですか、たとえば身体がだるいとか」

「このこところいいんですよ、食欲もありますしね」

「それはよかったですね、食べられるのが一番です。じゃ受診の前は食欲がなかったんでしょうか」

「やぱり飲み方が悪かったんでしょうかね、つまみ程度しか食べませんから」

 

彼女の健康問題を焦点化することは、アルコール問題に少しずつ入っていくために役に立つ。アルコールの飲み方に問題があると直言すれば、C医師と私は同じ穴のムジナになってしまう。そして彼女はカウンセリングに来なくなるだろう。そうなることだけは避けなければならない。

 

クライエントを失うという経済的理由だけではない。C医師からの信頼にこたえるために、なによりAさんが手痛いアルコールによる失敗で職を失い健康も失うという事態を避けるために、来続けてもらわなければならないのだ。

 

Aさんの健康状態を心配している、アルコールが健康状態を危うくしているのであればこれまでの飲み方を検証してみよう、という順番で核心に入っていく。

 

 

●うつむいて、三秒沈黙……

  

「今のままでは確かにまずいと思いますよ、配置転換になっちゃうかもしれませんし」

「じゃどうすればいいでしょうかね、C先生はなんか言いましたか?」

「わかってるでしょ(笑)。やめなさい、ですよ。断酒しなきゃだめだの一点張りです」

「そうですか、う~ん」

 

ここで私はうつむいて困ったように三秒くらい考え込む。この時間が大切なのだ。カウンセラーが目の前で困っている態度を示すことは、クライエントにとって必ずしも不快なことではない。それほどまでに自分のことを考えていてくれると思うからだ。

 

さらに効果もある。カウンセラーが不安がっているのだから自分がなんとかしなければならないのではないかと、いわば投げ返された判断主体を引き受けるようになる。

 

「じゃ、どうしましょうか。どういう飲み方ならいちばんいいと思いますか」

「量を減らしますよ、これまでの半分くらいに」

「でも、飲み始めると記憶がなくなっちゃうんでしょ。どれくらい飲んだか把握できるんでしょうか」

「そうですね……今までも量を減らそうとしたことはありましたからね。そうだ、いつものお店に行く回数を減らせばいいんじゃないでしょうか」

「これまでは週何回でしたか」

「土日以外は毎日でしたね」

「土日は?」

「土曜は飲まずにいて、日曜は自宅でジントニック専門です(笑)」

 

ここまでで約四十五分が経過している。その後、バーに行く回数をどの程度減らすかを具体的に取り決め、その代りにどう過ごすか(たとえば自宅でDVDを鑑賞する、ジムで水泳するなど)を挙げてもらい、その実行度を記録してきて次回私に見せることを宿題にする。

 

まとめとして、カウンセラーのほうからいくつか伝えなければならない点がある。フィードバックとして、Aさんが来談したこと、なんとか量を減らそうとしていることへの評価は欠かせない。しかしそれだけでは不十分である。今後の方針も含めて明確に述べなければならないポイントがある。

 

Aさんが依存症であるかどうかの判断は私の役割ではないとことわったうえで、カウンセラーとしての経験から、量を減らしながら飲み続けることは断酒することよりはるかに難しいと考えていることをはっきりと伝える。ゆっくりと明晰な口調が望ましい。

 

「とても狭い道のように思いますが、あなたが量を減らしたいと希望されるなら、当面それに協力しましょう。だから正直に記録して私に見せてください。Aさんが仕事を続けられるように、これからの人生を充実して過ごせるように協力しましょう、だから次回は必ず来てください。そうしてくださることを信じています」

 

 

●生け簀の魚

 

もちろんAさんは架空の事例だが、このような経過をたどって断酒に至ったクライエントは少なくない。飲酒を続け、ときどき失敗しながらカウンセリングに通っているクライエントもいる。もちろん途中で来なくなったひともいる。

 

このような経過は、見方によってはまどろっこしいかもしれない。「断酒しなさい、そうしないと死ぬよ」の一言で済むことかもしれない。しかし、私たちの仕事はクライエントの「自己選択」という契機をはさまなければならない。カウンセリングが前提としているのが、独立した個人の主体性尊重なのだから。

 

「ポスト成長期の盛り場――歌舞伎町キャッチのエスノグラフィー」(開沼博『アルファ・シノドス』一〇二号、二〇一二年)によると、歌舞伎町でキャッチと呼ばれている行為のさまざまな方法はカウンセリングと驚くほど共通している。客をキャッチするという点で、カウンセリングと歌舞伎町のキャバクラは同じということなのかもしれない。そこでも、大切なのは「自分で選んだ」という契機をはっきりさせることだと書かれている。

 

医師の強制によって始まったカウンセリングであるが、妙に相槌を打たれることでカウンセラーは自分の味方かもしれないと思い、カウンセラーが困っている状態を眼前にして判断主体を取り戻す。そして、自分の願望を否定されることなくその実現に向けて協働する姿勢を示されることで目標が具体化される。

 

Aさんの中にはまったく断酒しようという動機はなかった。むしろなんとか飲酒を続ける方策を得たいと思って来談したのだろう。一時間のカウンセリングを経て、断酒の動機が芽生えたのではなく、飲酒の量や回数を記録するというきわめて具体的で日常的な新たな課題を遂行する動機が生まれたのだ。

 

アルコールをやめるという壮大な目標は、成功か失敗かの二者択一を迫るだろう。もともとアディクション本人は二者択一の世界を迫られながら、その恐怖がアディクションを駆動するという悪循環から逃れられないでいる。したがって、目標、課題を日常生活に近づけることは、携帯画面を指で拡大した世界を目の当たりにするように、新たな地平を開くものである。

 

日常生活を記録するという目標は、Aさんにとってとりあえずそれを実行すればいいという日常生活における限定が生まれたことを意味する。もちろんそこには、カウンセラーへの信頼が前提とされている。

 

カウンセラーの意図は、その動機がいずれ断酒につながる可能性を時間をかけて見守るという点にある。クライエントのとりあえずの目標を包含した上位の課題、拡大された携帯画面の全体像を絶えず意識していなければならない。断酒の再提言の時期、C医師との遠巻きな連携をどうするか、もしAさんに新たな飲酒による事件が起きたらどうするかといったリスクも考慮している必要があるだろう。いわば生簀(いけす)の中で飼う魚のように、クライエントの行動範囲を絶えず測定している必要がある。

 

あからさまな強制によって外海に泳ぎ出てしまうより、「自分で選んだ」満足感のもとに生簀の中で泳いでもらう。そして生簀ごと、望ましい(たとえば断酒、加害行為の再発防止)方向に移動させること。これがカウンセリングにおける独特の強制であり介入なのである。

 

こんなことを書くと、だましじゃないか、手品みたいだ、と評されるかもしれない。そのあたりについては次回追って述べることにするのでお楽しみに。

 

(信田さよ子「カウンセラーを見る」第8回了)

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