第7回 揚力との戦い

第7回 揚力との戦い

2012.6.01 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、
駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。
臨床心理士。依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、
家族関係について提言を行う。
著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、
『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)、
『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』の墓守娘シリーズ(春秋社)他多数。
最新刊は『それでも、家族は続く――カウンセリングの現場で考える』(NTT出版)。

 

 

カウンセリングにおいて欠かせない要素はたくさんある。それこそ入門編から応用編まで、書店に行けばいっぱい参考になる本が並んでいる。

しかしながら、聞くと見るとは大違いと言われるように、読むのと実際は大きく違う。

 

 

●三人は三本、二人は一本

 

  

私の臨床経験は心理劇・グループカウンセリング・集団精神療法などから出発している。もちろん精神科病院勤務時も、心理面接室において患者さんと一対一で会うことがあったが、アルコール依存症が主たるフィールドだったこともあり、圧倒的にグループ形式の臨床が多かった。八〇年代後半に本格的に個人カウンセリングを始めたときは違和感を抱いたほどだった。

 

グループカウンセリングにおいては、大勢の人が参加をしている緊張感、幾多の関係が複雑に絡み合っていく怖さはあるものの、一対一の密室的状況とは大きく異なる解放感がある。日常生活との連続性やつながりも明確である。家族も、職場も、通勤電車の中や街角も、すべてはグループ(集団)として動いていくからだ。

 

図に書くとわかるが、三人の関係は三本の線で表される。ところが二人のあいだには、一本の関係の線しかない。その線の距離、勾配、流動性といった変化は 如実に感知され可視的ですらある。

勾配といえばニュートラルに聞こえるが、上下関係、支配関係といった力(パワー)が作用する可能性が高い。逆に見れば、このことが個人カウンセリングの効果を高める要素にもなっているのだろう。

 

今でも私は、五種類のグループカウンセリングを実施しているが、その疲労感と個人カウンセリングのそれとは大きく異なる。三時間の長丁場のグループを実施することもあるが、三つの個人カウンセリングを連続実施することに比べると、それほど疲れを感じさせられない。

 

 

●告解的非日常

 

 

カウンセリングがキリスト教における告解(confession)を原型にしていることはよく知られている。あの薄暗い密室においてひざまずいて告白するというイメージが、カウンセリングに対しても抱かれているようだ。

センターの狭いカウンセリング室は薄暗くはないが、扉によって廊下から隔てられている。そこでクライエントと二人だけになるということは、確かに非日常的である。

 

カウンセラーが男性でクライエントが女性だった場合、他者の目から遮断されたその空間は、ときにはクライエントの女性にとって抵抗不能な状況となりかねない。臨床心理士の研修においてもっとも厳しく強調される倫理がこの点である。

 

カウンセラーが男性だった場合、密室で二人だけの状況において容易にハラスメントが生じやすいのは事実である。カウンセリングや精神科クリニックにおいて、男性の専門家からセクハラを受けたことを訴えて来談する女性クライエントは珍しくない。

アメリカでは、カウンセリングを外部から覗けるような部屋にしたり、カフェのようなオープンな場所で実施するといった工夫がされているようだ。これらは、女性のクライエントからセクハラを訴えられるリスクを考えてのことだという。

 

センターのスタッフを全員女性にした理由のひとつが、そのような事態を防ぐためであった。

 

 

●ガチンコ舞台で「カウンセラー」を演じる

 

 

カウンセリングの部屋は、私にとって一種の舞台である。

 

扉を開けて部屋に入るとき、袖から一歩踏み出し舞台にのぼるような感覚に襲われる。空気の密度も、時間の流れも、異世界であるかのようだ。

その瞬間オフだったスイッチがオンになる。長年の経験によるものか、それとも心理劇(サイコドラマ)のトレーニングによるものかはわからないが、私はカウンセラーの役割を演じはじめる。

ソファに座って向かい合っているクライエントは、ときには共演者になることもあるが、私というカウンセラーをじっと見つめている厳しい観客なのである。

 

クライエントは真剣だ。時間単位で料金を支払っているのだから、それだけのものを獲て帰ろうと思っているに違いない。このようなガチンコ的・真剣勝負的状況を、私はきらいではない。

 

形にならない経験、記憶以外のどこにも証拠の残らない言葉の交換のためにお金を支払っているクライエントと、お金をもらう側のカウンセラーが向かい合っている。それは、どこか恐ろしげな状況に思えるが、私にとっては心地いい。緊張と解放、不安と安堵との間を往還する快楽すら感じられるほどだ。

なぜなら、私というカウンセラーは目の前のクライエントによって査定されるしかないからだ。どう取り繕おうと、どのように装っていようと、クライエントは私を観ている。舞台上の俳優の一挙手一投足を観客がじっと見つめているように。

 

 

●キャラにまみれた「そのまんま」

 

 

「カウンセラーって怖いです。自分の何かを見透かされてしまうみたいで」

 

こんな言葉を飽き飽きするほど聞かされてきたが、私の意識の中ではむしろ逆転している。どう受け止められているのだろうか、気に入ってもらえただろうか、満足してもらえただろうか、とカウンセリングのあいだ中ずっと考えているのは私のほうだからだ。

 

毎回そう考えながら学習したのは、あがけばあがくほど悪循環になってしまうということだった。もちろんそれ相応の苦労もあった。墓穴を掘った苦い経験もいっぱいあったことを告白しよう。

そしてたどりついたのが、「そのまんま」でいくことだった。熊に襲われたときは死んだふりをするといいと言われるが、私は「死んだふり」ではなく、「そのまんま」で行くことにした。

 

しかし、クライエントという観客を前にしたカウンセラーを演じる私が、「そのまんま」でいられるのだろうか。

正確に言えば、「そのまんま」っぽく演じるのだ。

カウンセリング最中と、終了後扉を開けて部屋から出た私は、意図的に言葉のトーンや態度を変える。クライエントの持っているバッグのブランド名を尋ねたり、わざとため口をきいたりすることで、舞台は終わり、幕は下りたという雰囲気を醸し出すのだ。

 

カウンセラーを演じる私と、扉から出てため口になる私、料金を支払うクライエントに対しておつり銭の計算を失敗する私。

 

そこにはいくつもの「キャラ」がある。その数は多ければ多いほどいい。なぜなら、多様なキャラを演じられることに価値があると思うからだ。

つまり、「そのまんま」というのは、多様なキャラをもつ私を全開するということだ。どんなキャラであろうと、いくつものポケットから必要に応じてすぐ取り出すことができること。そこにカウンセラーとしての自信のひとつの根拠を置くのである。

 

 

●やけっぱちな「そのまんま」

 

 

こうして私は度胸をつけ、ますます演技的となり、オーバーアクションのスキルを磨きながら今日に至る。図々しさも身に付き、なんとなくだが、どっしりと構えられるようになった。

 

お断りしておくが、「そのまんま」は「ありのままの」とは異なる。説教くさいあの「ありのままの私」という言葉は、私がもっとも忌み嫌っているもののひとつだ。いろいろな試行錯誤の果てにたどりついたのが、「そのまんま」でしかなかったのだ。

 

そのプロセスにおいて、私はキャラをどんどん多様にし、役割演技を磨き、状況に応じて必要なキャラを出没させられるよう努めてきた。それは絶えざるトレーニングだった。

つまり「そのまんま」とは、実像や本物といった言葉とは対極の地点にあって、どこかやけっぱちな言葉である。

 

 

●なぜ私はクライエントの眼を気にするのか

 

 

先日誕生日を迎えた私は、年齢とともに、クライエントから望外の期待を寄せられたり、途方もない幻想を抱かれること、つまりワンナップ(one up)の位置取りを要請されることが珍しくなくなった。前々回にも書いたように、そのことは私にとって忌避したい現実なのだ。

 

支配的な立ち位置、ワンナップではなく、ワンダウン(one down)に位置しようとすることは、私が対等性を求めているからなのだろうか。もっと常識的表現を使えば、威張りたくないから、権威的な存在をいやがっているからなのだろうか。そうすると、いかにも私は謙虚な「いい人」みたいではないか。

 

たしかに私はクライエントにとって「いい人」でありたいと願っている。

読む人によっては、カウンセラーってそんなにクライエントの反応を気にしてるんですか、と疑問を抱く人もいるだろう。精神分析の素養のある人は、それは逆転移じゃありませんか? と指摘するかもしれない。

どう評価するかはその人の自由なのだが、クライエントからの評価は別だ。それほど大きい意味を持っている。その理由をいくつか挙げてみよう。

 

「当事者からの評価こそが援助の質を高める」と思うから、というのはひとつの模範解答である。もちろんそれは私の信念であり、だからこそ逆転移OKなどと公言しているのだ。

援助者によっては、もっとも気にしているのはスーパーバイザーからの評価であるという人も珍しくない。クライエントのほうを見ているのではなく、今ここにいない、しかしどこかで自分を監視しているスーパーバイザーの目を気にしているように思えてしまうのは、私の経験のなさゆえなのだろうか。

そんな人たちに疑問を呈するために、私は上記の模範解答を用意している。

 

もうひとつの理由はお金である。クライエントの反応が悪ければクライエントの来談数が減少し、センターが立ちいかなくなるのはすべてを失うことを意味する。このことは本連載で何度も繰り返し述べてきたのでこのあたりにしておこう。

 

 

●私をぐぐっと押し上げる恐ろしい力

 

 

三つ目の理由は、バランス感覚によるものだ。

カウンセラーとしてクライエントと対峙したときに生じる何とも言えない緊張感は、私の中でのバランス感覚が攪乱されているからである。クライエントから発せられる私をワンナップの位置に押し上げようという空気感が、私を攪乱する。

 

押し上げようとする空気とは、「この私を評価してください」「私の家に起きていることをなんとかしてください」「私を助けてください」「私をわかってください」といったものである。それが言葉以前の要求として押し寄せてくる。

 

ぐぐっと持ち上げられそうになるのだが、そのとき私を襲うのはたとえようもない不安感である。ワンナップの位置を取らされるほど不安定なものはない。

イメージとしては、空中高くひとりで風船のように舞い上がっていく感覚だ。着地点も見えず、手を伸ばしても誰もいない。権力者は孤独であると言われるが、力の代償としてそれを甘受しなければならないとすれば、ワンナップなど避けたい。

 

私はカウンセラーとしてワンアップの力など欲しくはないのだ。すでにカウンセラーというだけでクライエントに対して権威を持ってしまっているし、年齢も重ねている。バランスを欠いた不安定な位置に上りたくはない。

だからこそ、クライエントからの反応を気にするのだ。私の姿勢は次のメッセージとしてクライエントに伝わるだろう。

 

「カウンセラーである私は、あなたからの評価を気にしています。来てよかったと思っていますか、私の発言は大丈夫でしたか」

 

おそらくクライエントは次のように反応するだろう。

 

「カウンセラーは私を評価し理解してくれる存在のはずだ。私のことをどう思っているのか聞きたいと思ったのに、むしろ私からの評価を気にしているように思える。これは自信がないのか、それとも……」

 

もちろんこれらは言語化されることなく、言葉の交換の合間に交わされるメタ言語的、つまり空気感として伝わるメッセージであることは言うまでもない。

 

 

●カリスマより宙ぶらりん

 

 

ワンナップの位置にいることの効果は、「カウンセラーは偉い」と思わせることで、ワンダウンの位置にいるクライエントに必要な情報を伝達できる点にある。

この手段を意図的に用いるのではなく、自分はすごいと感じて自らの力に陶酔するカウンセラーも生まれるだろう。信仰に近いカウンセラーへの信頼が、ときには大きな変化を生み出し回復へとつながることは珍しくないから一概には否定はできないのだが。

 

ここで重要なことは、ワンナップ・ワンダウンにおける相互性である。入れ替わり可能であるということだ。

実は、クライエントの側がワンナップへとカウンセラーを押し上げているのかもしれない。クライエントはそうすることで、ワンナップに位置して有力感を覚えるカウンセラーに依存することができる。自らの判断を放棄し、考えることなくカウンセラーの描く自己像を取り入れることもできる。

 

このような主体性の放棄は、自分で考えた末に蟻地獄に陥ってしまったクライエントにとって、どこか酔いに似た快楽を与えてくれるだろう。カリスマ化したカウンセラーの周辺にはそのようなクライエントが集まっているものだ。

 

ワンナップの位置取りへとクライエントから促されることに対して、私は、観客からの評価を渇望しているカウンセラー役の演技者であること主張する。クライエントからの評価を何より気にしているカウンセラーであるというこのメタメッセージは、クライエントにとっては一種の攪乱になるだろう。その瞬間、クライエントの促しは止まり、私との関係性はどこか宙ぶらりんなものとなり、ゆらぎ始める。

 

このような関係におけるゆらぎを私とクライエントがともに味わっていること。

どちらに傾くかという不安定さの中に二人がいること。

私にはそんな状態がこの上なく好ましいものと思え、もしかすると対等という美しい名前で呼ばれるのはこういう瞬間なのではないかと感じるのである。

 

 

●関係の愉しみ――揺らぎの中のバランス

 

 

ゆらぎながらもとどまっていられること、上でもなく下でもない関係性がときとして生まれること。それは誰かを傷つけるどころか、それこそが関係の愉しみであること。

 

言葉で確認することがカウンセリングの中心であることは言うまでもないが、言葉にならないメタメッセージを通して、このような経験を積み重ねられる意味は測り知れない。

そのためには、クライエントとの相互性に対して自覚的でなければならない。言葉以外の関係性に対するこのような注目・意識化があって、初めて私のバランス感覚も生かされるのだ。

 

ここまでカウンセラーとして仕事を続けてこれたのは、バランス感覚が機能していたからかもしれない。それがどのようにして育まれたのかはわからないが、固定的な安定感というより、ゆらぎながら生まれるバランスといったほうがぴったりくる。

そして多様なキャラを豊かさとし、演技力を磨くことで、私を全開にする「そのまんま」。

 

開業間もない東京スカイツリーの地下にも、震災に耐えるための心棒が埋められているが、その中心は空虚ながらんどうだという。私のバランス感覚も、あくまで主観的なものであり証明することはできない。その点でどこかがらんどうなのかもしれない、と思う。

 

(信田さよ子「カウンセラーを見る」第7回了)

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