かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2012.2.15 update.
1960年生まれ。近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院精神科主任を経て、99年、名越クリニックを開業。専門は思春期精神医学。精神科医というフィールドを越え、テレビ・雑誌・ラジオ等のメディアで活躍。著書に『毎日トクしている人の秘密』(PHP研究所、2012)、『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』(角川SSC新書、2010)、『薄氷の踏み方』(甲野善紀氏と共著、PHP研究所、2008)などがある。2011年4月より「夜間飛行」(http://yakan-hiko.com/)にて公式メルマガスタート。
本稿は、2011年6月29日に行われた「名越康文連続講義 現場で生き残るための心の技法」での名越康文氏の講義を元に再構成したものです。
では、後半は少し、質疑応答の時間にしましょう。事前にたくさんのご質問をいただいたということなので、ひとつずつ、私にできる範囲で答えて行きたいと思います。
(質問)認知症やうつ、統合失調症の方など、通常のコミュニケーションがとりにくい状態にある方に接するとき、こちらが腹をたてたり、嫌になってしまわないようにセルフコントロールするにはどうしたらいいでしょうか。
こうした状況は、精神科の現場では日常的ですし、一般病棟などでも、認知症やせん妄状態の方などと接する機会は少なくないですよね。もちろん、「こうすればよい」という万能の解決法はありませんが、方法論としてひとつありうるのは、相手をどうこうするということを考えるよりはむしろ、自分自身の心の状態に目を向ける、ということです。具体的には、「常に第三者が見ているように、自分のことをモニタリングし続ける」ということを試してみてください。
世界をありのままに映し出すような心の状態のことを、仏教では「鏡のような心」という言い方をします。しかし、心の中の鏡というのは、実際の鏡みたいに不動で、磐石なものではありません。水面のように、ちょっとしたことで波打ってしまうような性質を持っています。
水面に月が映っている状態を思い浮かべてください。お寺の手水鉢とかの水面が、さざなみだっていない状態だと月がきれいに映りますね。ところが、そこにたった一滴、水滴が落ちると、もはや月はきれいに見えなくなる。やや比喩的になってしまって恐縮なんですが、心って、そういう性質を持っています。心が動揺すると、実際目の前で何が起こっているのかということがよく見えなくなるし、相手とのコミュニケーションもうまくいかなくなってしまいます。
相手に腹を立てないためには、自分の心をモニタリングしなければいけない。しかし、自分の心をモニタリングするためには、心を鎮めなくてはいけない。言葉にすると矛盾しているようですが、実践的には、「自分の心をモニタリングし続ける」という方法は有効です。少なくとも「自分の心が揺れている」ということを自覚しているかしていないかは、大きな違いです。というのも、長年修行した宗教者でもない限り、僕らの心は平常時であっても絶えず揺れていて、ほとんど何も正確に映し出せる状態にはないからです。例えばいま、あなたと話をしているときも、僕の心の中ではぐらぐらと水面が揺れています。まずこれを、モニタリングして制御することをめざしてみる。
もちろん、まったくさざなみ立たないのが理想ですが、そんな境地に至ることはなかなか難しいと考えてください。少しでも、波を抑えることができれば、状況の見え方はずいぶん変わってきます。相手をどうこうするというのは「それから」の話なんです。
ではどうやって制御するかというと、ほとんどの場合はモニタリングつまり「見つめる」「認識しつづける」だけでいいんです。心は意外に恥ずかしがり屋で(笑)、心の状態を見つめられた瞬間、けっこう落ちついてくれる。もちろん、よほど荒れてる場合は別ですが。
特に医療現場で仕事をしている方は、一般の方よりもかなり多く、心を揺さぶられる要素に囲まれています。意識の80%ぐらいは「自分の心の揺れを制御する」ということに集中するくらいでちょうどいいぐらいと思います。
同じような質問としては、このようなものもいただいていますね。
(質問)怒ってはいけないとは思いつつも怒ってしまいます。患者さんと穏やかに接するコツを教えてください。
「ついつい怒ってしまうんです」という認識に立てただけで、一歩どころか、五歩、十歩前進したと考えていただいてよいと思います。ただし、注意していただきたいのは、怒りといっても、軽い怒り、重い怒りがあるということです。軽い怒りならば、ここまで再三述べてきたように、その都度少しずつ振り払っていけば大丈夫だと思います。「ついつい怒ってしまう」という認識に立てた方なら、少しずつ怒りの回数を減らしていくことができるでしょう。
一方、重い怒りとは、大まかに言えば「無知」にかかわる怒りです。無知とは、「無常を知らない」ということですから、無知に基づく怒りというのは「こうであるべきだ!」という教条的なものになりがちです。
そのときそのときで、物事は少しずつ変化していきます。ですから、教条的にならず、臨機応変に対応しなければ、ことの本質からどんどん外れていってしまうわけです。そのように考えれば、「重い怒り」に囚われることが危険だということがわかるでしょう。教条的になると、怒りが自分の中で再生産され続けてしまい、下手すると何十日、あるいは何年もの間、心に怒りが張り付いてしまうこともあります。
例えば患者さんが、言ったとおりに服薬をしなかった、ということで叱ったとしても、患者さんが「わかりました」と答えてくれたら、その場でパッと忘れる。それくらい、引きずらないことが大切です。
「なんであの人は言うことを聞いてくれないのか」とか「どうせまたやるに違いない」とか「今度やったらどう叱ろうか」なんて引きずっていると、次にその人が実際に言われたとおりにやっていなかったとき、前回の数倍、怒りが大きくなってしまう。こういう悪循環に陥ると厄介ですので、うまく気分を切り替える、あるいは誤解を恐れず言えば「忘れる」ということが大切ですね。
小さな子どものお母さんや、幼稚園の先生のなかには、すごく叱るのが上手な人がいます。そういう人はめったに叱らないとか、叱り方がすごく優しい、というわけじゃない。むしろ、節目では「ダメ!」とはっきり、強く叱るんです。でも、次の瞬間には「ぱっ」とモードを切り替える。こういうのはいわば「叱る技術」として、学んだほうがいいものだと思います。
叱り方が上手な人を見ていると、「子どもから学ぶ」姿勢を持っている人が多いことに気づきます。子供って、お友達とものすごく激しい喧嘩をしても、次の瞬間には「あれっ!?」って見違えるぐらい、仲良く遊んでいたりする。子供の目線で一緒に遊べる人は、そういう感情の切り替えの早さを、肌感覚で学ばれている部分があるのかもしれません。