第1話 なぜ私は私を書けなかったのか

第1話 なぜ私は私を書けなかったのか

2011.11.25 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)他多数。最新刊は『さよなら、お母さん――墓守娘が決断する時』(春秋社)。

 

その後、嘉子はどうなったのだろう。

カテーテル検査の結果はどうだっ たのか。消音モードの彼とはあのまま別れてしまったのだろうか。

せっかくだから続きはうんと濃密に渡辺J一先生顔負けの熟年カウンセラーどろどろ不倫劇に してもよかったのではないか、という意見もちらほら。

でも読者の想像力を掻き立てる終わり方が最高だとすれば、新たに後編を始めるのは、今このときだろ う。

 

というわけで、いよいよここから後編に入る。

一気になだれ込む前に書かなければならないことがある。それは本連載誕生の背景と、執筆中の苦労についてである。

すんなりと書けたと思っていた方は意外かもしれない。苦労話を書くことが後編につながると思うので、しばしお読みいただきたい。

 


ある晩、しょうゆ味の濃いおでん屋で

 

読者の方々が想像されているように、「カウンセラーは見た」=前篇の主人公嘉子は、私の分身である。

カウンセラー=援助者として、直接クライエントから支払われる料金を受け取りそれを生活の糧にしている私が、たまたま入院というフルタイムの被援助者=患者となる機会を得た。自分の身体の頑強さに根拠のない自信を持っていた私にとって、それはショックなできごとであった。

しかし、それを素材として文章を書くことになろうとは、そのときは想像すらしなかった。

 

入院体験を書くように勧めたのは、別名必殺仕掛け人と呼ばれている編集者のSさんである。退院してしばらく経ったころたまたまお会いする機会があり、打ち合わせを兼ねて新宿のおでん屋さんで飲んだ。

濃 いしょうゆ色のおでんをつつきながら心臓の検査入院をしたことを伝えたら、これまでになく真剣に心配してくださった。いつも「年齢のわりには元気な人」と いう扱いを受けている、そう勝手に想像していた私は、心配されることの心地よさに任せて一気に入院経験をべらべらと語った。

 

短期間だったが、病棟で出会った医療者や患者は全員キャラの立つ存在だったので、話すそばから次々と登場人物が湧いてきてしばらく止まらなかった。黙っておでんを食べながら聞いていたSさんは、静かに言った。

「それ、ぜひ書いてください。フィクションで」

 

 

●まるで作家じゃん?!

 

しばし息を呑んで呆然としたが、たしかにフィクションとして小説仕立てで書けばなんでも書ける、そう思った私はふたつ返事で引き受けてしまった。それに加えて、カウンセラーの私がフィクションを書く、それって「まるで作家みたいじゃん!」とウキウキする自分もいた。

 

もともと楽観的な私は、若いころ世界は自分を中心に回っているように感じていた。それはふつうのことだと思っていた。とんでもない話だが、自分が亡くなるときには世界も滅びてほしいと真剣に考えたこともある。

おでん屋での軽はずみな返事を思い返すたびに私は慨嘆した。還暦を過ぎ高齢者の仲間入りをした今も、基本的な考え方は変わっていないではないかと。老成する、成熟すると言われてもいい年なのに、いつまでこんな大風呂敷を広げ続けるのだろう。

 

でも思い返せば、この年になるまで私はずっと軽はずみだったし、誇大的言動がもたらす影響を糧にして生きてきた。物事の決定をするには5秒間で足りるし、どんな大きな買い物でも一瞬の出会いで決めてきた。

だ からフィクションの連載はきっとうまくいくに違いない、そう思った。プラス思考などと手垢にまみれた名前をつけたくはないが、いつものように妙な確信が湧 いてくるのだった。目の前のSさんの笑顔もその確信を保証してくれるかのように思え、こうして私は本連載の前篇にとりかかったのである。

 

 

後悔、なんてするもんか

 

フィクション・小説を書くということがどれほど大それたことかは、書き始めてすぐにわかった。しかし時すでに遅しであった。

ああこんなみじめな文章しか書けない、なんであのとき引き受けたんだろう。そう思うたびに、私の中でサイドブレーキが作動し、後悔しそうになるのを押しとどめた。No Regret=後悔なんてしない、これが私のポリシーのひとつだ。

 

い くつかの選択肢を前にたった5秒間で決定する。聞くひとが聞いたら顰蹙(ひんしゅく)ものの態度だろう。もちろん「失敗したかも」と思うことがなかったわ けではない。選択の結果信じた人に裏切られ、歯噛みをしながら涙が出そうに悔しかったこともある。でも後悔するなんてあまりにみじめ過ぎるという思いが私 を踏みとどめた。

男性の場合なら「そんなめそめそして男らしくない」「男だったらくやしさをばねにしろ」などという掛け声がどこかから聞こえてくるだろう。では女性の私を駆り立てたのはいったいなんだったのか。

 

そこにジェンダー意識が関与していないといったら嘘になる。拳(こぶし)こそあげなかったものの内心こんな言葉を叫んでいたのかもしれない。

「女々しいのはいやだ。うじうじしている暇なんかない。後悔なんかするものか、意地でも後悔なんかしないぞ! 自分の選択・決定がやっぱりよかったと思えるようにしてみせる……」

 

あまりに陳腐なたとえだが「転んでもただでは起きない」という一念が私を支えてきた。連載の締め切りを前に呻吟しながら引き返すこともできなかった私は、深夜パソコンに向かいながらいつもその言葉を繰り返した。

 

書けるフィクションと

 書けないフィクション

 

毎回原稿を読み返すたびに軽い自己嫌悪をおぼえ、ため息も出た。しかし「ただでは起きない」ことがモットーの私はいつも考え込むのだった。なぜ今回のフィクションの設定が私にとって難しかったのか、と。

 

明らかに私の分身らしき嘉子が主人公であることで、読者の期待と反応が通常の原稿以上に気になってしまったことが理由のひとつだろう。

完全なフィクションではなく、この私、しかも職業人=プロである私をそこに介在させながら小説にするという構造が、毎回私を悩ませたのである。どこまで私を出すか、どこからフィクションにするか、というさじ加減がいつもぐらぐらしてしまうのだった。

 

お読みになっている方のなかには、私の過去の著作を読まれた方も多いだろう。

私の書いたものは、多くの事例を描くことで成り立っている。読者のなかにはあれらの事例が実際のクライエントではないかと思うひともいるようだ。実際にそう聞かれたことも何度かある。

最初の著作『アダルト・チルドレン完全理解』(三五館、1996)を出版したとき、何人かから「私のうちを盗聴したのかと思いました」「あれって実例ですよね」という感想を聞かされた。

「あれは全部フィクションですよ」

そう答えたときの相手の驚いた反応を見ることが私にはとても気持ちがよかった。依存症になるには最初の快楽の記憶が強烈に影響しているが、あの気持ちのよさは、その後本を書く際に、私のモチベーションの一部になった。

 

さ かのぼれば、子ども時代に友達に悲惨な話を語って聞かせ、相手がそれを信じたとき、「うっそ~」と言って驚かせたときの快楽と同じだ。だまされた友達も笑 いながらどこか安心し、私は語りの技がうまくなったわいと内心満足する。そんなことを子ども時代に何度か繰り返したが、この年になっても本を書きながら同 じことを繰り返しているのだった。

 

事 例を生き生きと描くことであたかも本当にそんな人がいるように受け止められたり、自分の一部がその事例に宿っていると読者に思われたりする。何冊か本を書 くうちに、それがひとつのスタイルとして定着したのが『アディクションアプローチ――もうひとつの家族援助論』(医学書院、1999)を書き上げたときで ある。あのときも、あとがきですべてフィクションであると断ったにもかかわらず、実例だと思っていたひとが何人もいた。

なにより、架空なのに本物っぽく事例を書くことがとても楽しかった。多くのクライエントや知人の援助者を頭に描きながらひとつの事例にまとめ上げていく作業は、この上なく自由で創造的に思われた。

いったいこの差はなんだろう。前篇におけるフィクションの不自由さと、事例を書くときの軽やかさは何が違うのだろう。

 

 

自由に書くには制限が必要だった?

 

ここで触れておきたいことがある。私には事例をフィクションにしなければならない理由があるのだ。それは義務といってもいいほど当たり前のことだ。

援 助者にとっての倫理的条件は援助対象のプライバシー保護、つまり「守秘義務」である。臨床心理士の私はこの言葉をいやになるほど耳にしてきたが、最初に本 を書こうとしたときワープロの指が止まるほど、この言葉は一種のタブーとして想像以上に深く染み込んでいた。事例をリアルに描こうとするそばから、登場人 物を特定できないようにしなければならないという強迫が私を襲った。

 

今 でも事例を書くたびにその感覚から私は自由になれない。同業者から批判されないように、クライエントからもクレームが出ないように、そのことがいつも頭の 片隅にあって離れないのだ。それでいながら完璧に事例を再構成すること、しかもリアリティを損なわずに……これが私が事例をもとに本を書くときの至上命題 だった。

私の事例を書くスタイルは、いってみれば職業倫理によってフィクションであることを強制されることで生まれたといえるだろう。

 

フィクションのもうひとつの基本は、私とクライエントとのあいだの距離感である。

結 果としてこれが事例をフィクショナルなものに再構成するのに大きな役割を果たしている。距離感があるからクライエントの抱える問題の構造を抽出でき、さま ざまな事例の共通項を把握でき、私なりに圧縮や要約が可能となる。対象化すると言ってしまえばそれまでだが、実はこのことはカウンセリングにおいてきわめ て大きなテーマなのだ。

特にカウンセリングといえば「傾聴」と並んでつきものに なっている「共感」は、いったい距離感とどのように関係しているのだろう。近年、距離感という言葉も使い古されつつあるようだが、どんなことが距離を取る ことなのかはあいまいなままである。この点についてはいずれたっぷり書くつもりだ。

 

フィ クションというのは、何の枠組みもないから自由に想像力を羽ばたかせることができるものではなかった。職業倫理によって強制され、そのいっぽうで現実のク ライエントとの微妙な距離を保つことで初めて私は事例をフィクションとして、のびのびと描くことができたのである。はっきりとした規制や形式、約束事、構 造があったからこそ、自由に書けたのである。

 

と すれば、私が私をフィクションとして描くことがとても困難だった理由もおのずと明らかになる。嘉子と私のあいだの距離感は揺れ続け、そのことが私を不自由 にした。そしてフィクション化しなければならない強制力はなく、あるとすれば「小説家みたい!」という自己満足だけだった。

なにより、私は私を対象化して描けるほどの度胸もなく、技術もなく、形式すらもっていなかった。外側からの制限がないことで、毎回おずおずとした感覚をおぼえながら書いたのである。

 

飛行機が離陸する瞬間の映像を思い浮かべてほしい。

滑走路を走りながらふわりと浮かぶ瞬間、飛行機は地上からわずかだがすでに浮きあがっている。私の書く事例も、空気圧を受けながら浮上した機体のように、限りなく実例に近いフィクションである。

嘉 子の物語は、飛行機が離陸しようとしながら、後輪がずっと滑走路を走っているような感覚とでもいえばいいのだろうか。最後に、えいっとばかり素敵な男性を 登場させてみることで少し調子が出始めたような気がするが、翌日がカテーテル検査の日であり、やむなく最終回を迎えることになった。

後輪はやはり地面に着いたままで終わった。

 

 

信田をプロデュース

 

クライエントの膨大な事例のすべてが、臨床経験をとおして私の記憶の貯蔵庫に保存されている。保存するという作業がすでに距離感を前提としていることはいうまでもない。

今のところ、私はそれらのファイルを自在に開くことができ、そこから必要な要素を引き出すことができている。

それに比べると自分についてのファイルはそれほど多くはない。嘉子というカウンセラーを検査室に送った今となっては、もうフィクションを書くことのネタは尽きたと思う。

 

加害者と被害者、愛情と支配、ケアと暴力……そして事実とフィクション。これらの二つの対立する世界の間にあるものを、なにより私は偏愛してきた。薄い皮膜のようなこともある。ときには隙間などなく剃刀の刃も入らないこともある。

現実のさまざまな制約によってフィクションがより豊かになり、対象との距離感が圧倒的現実のフィクション化に必要だということ。事実とフィクションとは対立するものではなく、間(あわい)や狭間によって双方が豊かになるように思える。

 

と すれば、今後は私が「信田さよ子」についてのファイルをいくつか用意しなければならないだろう。「信田さよ子」と私が距離を保ち、あくまでカウンセラーの 「信田さよ子」を描くという制限を設けることで、“本当”と“嘘”の世界のあわいに漂いながら、カウンセラーを見ることになるだろう。後編はそのような仕 掛けを考えている。

 

これらのことはすべて元をたどれば、あのおでん屋での5秒間の決定があったからだ。そう、私は「No Regret」だったし、「転んでもただでは起きな」かったのだと思う。

 

 

行くぞ後編! さあ離陸!!

 

嘉子というカウンセラー像を描く苦労を延々と描いてきたが、それでもいくつかの論点を提起することはできた。

 

■ 検査入院という特権階級の患者は、閉鎖的行動制限的状況ゆえに感覚が研ぎ澄まされるのだ。それがラウンジや病室で見聞きする患者のキャラをいっそう際立た せ、一過性の関係ゆえの無防備さがさらに濃厚な人間関係を生み出していく。入院棟の経験の強烈さは、疾病の種類を超えて強調される必要があるだろう。

 

■さらに、医療者の情報開示(知らない、わからないことを正直に開示する)がいったいどのような効果をもたらすのか。安心をもたらすのか、不安を増すのか。

 

■医師が権威から降りることは誠実なことなのか、それとも一種の責任回避につながるのか。

 

■フラッシュバックとともに想起された遠い昔の精神科病院での勤務経験が、今のカウンセラー生活にどのようにつながっているのか。今一度あのころを振り返ってみることで精神科医療との関係性の原点が見えるのではないか。

 

ざっと述べてみたが、上記の論点についても少しずつ触れていきたい。

これらすべては、読者の皆さんがカウンセラーの信田さよ子に好奇心を持っていただいているのではないかという独りよがりな期待を前提としている。私は正直言って信田さよ子に少しだけ辟易しているが、その前提を信じてなんとか連載を続けていきたい。

愛とは関心を抱くことだとすれば、信田さよ子は幸せ者である。読者のみなさまの彼女への愛に応えて、私は書き続けていこうと思っている。

(信田さよ子「カウンセラーを見る」 第1回了)

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