第14話 出会いと別れ

第14話 出会いと別れ

2011.10.07 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『母が重くてたまらない』(春秋社)など多数。名著『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ)が、増補版となってイースト・プレスから出たばかり。

前回まで]

ラウンジであった初老の男性に、嘉子は惹きつけられた。読書をしようとすると、さりげなくテレビを消音モードにしてくれる、一組の夫婦の奇妙な行き違いを見ては、互いに目配せしため息をつきあう、言葉なしの濃密な関係。還暦を過ぎてから入院先の病院でひとりの男性と知り合い、やがて言葉を交わし、そして……。ああ、嘉子の妄想は止まらない。

 

ニュースが終わると同時にその男性は立ちあがり、嘉子のほうに近づいてきた。少し無遠慮に思えたけれど、まるで風が吹いてくるような気配がした。

反射的に嘉子は何食わぬ顔で、読みかけの本に目を落とした。どうせならふだん読めない長編小説をと選んだバルガス・リョサの『緑の家』である。

本の表紙をちらと眺めたその男性は第一声を発した。

 

「おお、リョサですか」

 

即座の反応に嘉子は驚いた。それなりに普段から本を読んでいなければその一言は発せない。

いったい職業はなんだろう、大学の研究者だろうか、それとも……と頭の中でいつもの想像力がフル回転しはじめた。

嘉子はできるだけ明るく答えた。

 

「よくご存じで、でも読みづらいですよね~」

「僕なんか、手にも取りませんよ。いくらノーベル賞作品でもね」

「確かに……」

 

二人はいっしょに声を上げて笑った。

隣の椅子に片手を掛けて彼は座っていいですかと目で問いかけ、嘉子はうなずきながら少し自分の椅子を引いて距離をつくった。

 

 

こわばる一言

 

 

まるで旧知の間柄のような空気に包まれたせいか、嘉子は翌日に心臓カテーテル検査をひかえていることをすらすらと語った。

うなずきながら聞いていた彼は、格別表情を崩すわけでもない。月並みな心配ばかり掛けられることに食傷気味だった嘉子にとって、それは好ましい反応だった。

 

「そういう患者さんは特権階級なんですよ」

 

ホルター心電計を付けているが動けないほどの病人でもない、検査が終われば二泊して退院することもできる。そんな自分はたしかに特権階級だ。

卓抜な比喩に嘉子は妙に得心した。

 

「実は僕もなんですけどね」

 

そうだったのか、だからあんなに所在なげにラウンジに座っていたのだ。同類であることでいっそう彼に対する親しみが増した。

 

「ドックで引っかかって検査入院を命じられちゃいましてね。だから後輩のいるここにしたんですよ」

 

後輩という言葉を聞いたとたん、にわかに嘉子は開放していた心の窓を閉め、わずかに身構えた。

 

……ということは、目の前のこの男性は医者ってことじゃないか。あ~あ、おまけにこの年齢だ、自分の配下に多くの職種が働いていることが当たり前になっていても不思議じゃないぞ! 白髪混じりの長髪にも納得だ、企業の社員じゃこうはいかない……

 

嘉子の頭の中は再びフル稼働しはじめた。

親しみを感じていた空気が急にこわばってしまったが、なんとかそれを感知されないように努めた。

 

記憶の中から、幾人もの同世代の精神科医の顔が浮かんだ。

彼らが無意識に身につけてしまっている何かがある。近くに寄るとそれが匂う人もいれば、数は少ないがそうでない人もいる。気を許して話していると、何気ない会話やしぐさの中から突然それが顔を出す人もいる。

 

嘉子はカウンセラーとしての長い経験から、精神科医という職業に就いている人間に対して深い警戒感を抱くようになっていた。いつのまにかその感覚は医師という職業全体にまで拡大され、そうでない医師に対しては反対に全幅の信頼感を抱いてしまうのだった。

隣に座っているこの男性はいったいどちらに分類されるのだろう。

そう思いながら、嘉子はすばやく彼の左手薬指に白く残った指輪の跡を観察していた。

 

 

カウンセラーモードは使いたくない

 

 

「いいお天気ですね~、外はかなり気温が高そうですよ」

 

突然彼は会話の流れを変えた。

紫の女性への“消音モード対応”をみても、彼は瞬時に場の空気を察知できるはずだ。おそらく、嘉子に走った緊張を感じ取ったに違いない。

 

たとえ彼が医師であるとしても、勝手な反応によって気を遣わせてしまったことに対し嘉子は申し訳なく思った。もしかすると彼自身も、病院のラウンジという特殊な場所で初対面の女性に職業まで話してしまったことを後悔しているのかもしれない。

いずれにしてもここからどの方向に会話をもっていったらいいのだろう。

 

嘉子がカウンセラーモードに切り替えれば、ことは簡単に運ぶだろう。

後輩の医師は何歳くらいですか? どこの検査なんですか? 何をご専門にされているんですか? と矢継ぎ早に質問して小一時間ほど彼と会話を楽しむことはできるだろう。

 

そんな質問をされて会話に乗ってこない男性などいない。嘉子にはそんな確信があった。合間に「すご~い」「そうなんですか、なるほど」などと相の手を挟めば完璧だ。

質問攻勢の合間を縫って嘉子に逆質問を浴びせる男性など、ほとんどいない。なかでも精神科医はそうだ。

得々として自分のことばかり話す彼らを見ながら、「あ~あ、こいつも自分にしか関心のない男なんだ。私があんたなんかに関心持ってるはずないでしょ。それも見抜けないのか!」などと内心で啖呵を切るのが嘉子のひそかな楽しみでもあった。

 

しかしその手は使いたくなかった。

こんな場所で、特権階級どうしで、風が吹くように近づいてきた男性にカウンセラーモードになる必要もないだろう。

 

「退院するころにはもう葉桜になってるでしょうね。でもなんだか、退院して元の生活に戻るのがいやになりません?」

「ハハハ、わかるなあ、でもそれは元気な人が言うことですね。失礼、言い過ぎたかな?」

 

嘉子は首を横に振った。

たしかにそうだ。おそらく検査結果は仕事を中断しなければならないほどではないだろう。退院すれば今までどおりの生活が待っている。そう思うからこそ退院がいやになるのだ。

退院後の生活を思って、思わず肘をつき東京タワーをながめながら嘉子はため息をついた。よほど気を許した相手の前でなければ見せないそんな姿勢をとったことに、自分でも驚いていた。

 

嘉子とその男性の会話は、読書談義で終わった。活字中毒であること、部屋の床が書籍の重みで抜けそうであることは、彼も嘉子も同じだった。それは周到に互いのプライバシーを迂回しながら、盛り上がれる最適の話題だった。

 

配膳車のガラガラという音が響き渡り食事時を告げるまでのあいだ、いったいどれくらいの時間が経ったのだろう。二人はほぼ同時に立ち上がり、無言のままラウンジの入口まで並んで歩いた。お互いパジャマ姿の男女なんて、よくよく考えれば夫婦以外にありえないはずだ。そう考えると、妙におかしくなって笑いそうになったが我慢した。

 

ラウンジの入口で立ち止まり彼に軽く手を振った。

かすかに笑顔を浮かべ同じように手を振って、彼は反対側の病室のほうに歩いて行った。

 

 

輪の中心という快楽

 

 

その日の夕方には家族全員が病院に面会に来た。ラウンジに行くことはなぜか気が引けたので、ベッドを起こして横になっている嘉子のまわりを四人が取り囲むようにして小声で雑談をした。

夫はがんばって料理をしたらしく、長男夫妻のために密閉容器に入れたグリーンピースの炊き込みごはんと筑前煮を持参した。

 

「お父様、ありがとうございます」と恐縮している長男の奥さんの傍らで、「パパったらね、朝から必死でレシピ見ながら大変だったんだから」と真衣が閉口したように訴えた。

 

料理をさせるとやたらに凝ってしまう夫は、退院したら塩分少な目の和食をマスターしたから大丈夫だと自慢げだ。

三年前の自分の手術の時を思い出したせいか、とにかく退院したら二人でおいしいお鮨を食べに行こうと三回も繰り返した。お鮨が食べたいと思ったころから体力の回復が始まった、というのが夫の強固な持論だったからだ。

嘉子は「はい、はい」と返事をしながら、すでに頭の中では滅多に行けない銀座の久兵衛にしようと決めていた。

 

「明日、検査はトップバッターらしいから時間に遅れないでね」

 

夫は午前中会社を休んで検査に付き添うことになっている。日常生活を判で押したように過ごす夫は「カントみたいな人」と言われたほどだ。

 

「オッケー、いつもより一時間早く起きれば楽勝!」

 

妙にハイな調子で答えた夫を見ながら、やっぱり不安なのだろうと思った。

真衣は夫と入れ違いに、検査後しばらく右手を動かせない嘉子のために付き添ってくれることになった。

 

「ママにあ~んってごはん食べさせたげるからね」

「ああ、屈辱~」

 

皆でどっと笑う光景の真ん中にいながら、嘉子はそれをどこか遠くで見ている気分になった。

病気になると家族の関心が自分に集中し、そのことですべてが洗い流されるような気分に浸ることができる。親からの関心を繋ぎ止めるために、しょっちゅう骨折をして入退院を繰り返す子どもや母親の目の前で首を吊ろうとする娘には、カウンセリングをとおして何人も出会ってきたはずだった。

嘉子はベッドの周りを囲んでいる家族の笑い顔を見ながら、自分もその人たちと同じ気分を味わっているように思った。

 

四人は病院にほど近いフレンチレストランにディナーを予約済みだという。真衣がちらりと不安げな顔を見せたので、嘉子は元気よく言った。

 

「検査の前日にお葬式みたいな食事されるより、みんながおいしもの食べてるって思ったほうがずっと元気になるわ!」

 

 

言葉を必要としない、

あの濃密な時間……

 

 

夕食後、看護師から翌日の検査について簡単な説明があった。すでに主治医からは説明を受けていたので、当日夕方に予定される検査結果の説明スケジュールだけが気になった。

造影剤を入れるために、できれば手首から針を刺したいのだが、血管にうまく届かない場合は腕からになるようだ。

どちらにしても右手を動かせないので真衣の助けを借りるしかない。得意げに食事を食べさせている真衣の顔が浮かんで思わず嘉子は苦笑した。

 

今夜は入眠剤を飲まなくても眠れそうだ、いろいろなことがあったから……。消灯後嘉子はそれらを一つずつ思い出した。

カーテンの隙間から見えたノジマさんのまるで幼児みたいな顔つき。

紫の女性の光る洋服、汗がにじみ油の浮いた顔、そしてはちきれそうな背広姿でおどおどしていた夫の動作。

そして何よりこころに残っているのが消音モードの男性だった。

 

思い返すたびに不思議な気分になる。

名前すら聞いていなかったのに、もちろん嘉子も名乗りはしなかったけれど、それはどうでもいいことのように思われた。

時間にしたら一時間に満たなかったけれど、交わした言葉は数えるほどだったけれど、すべて暗記できるほどに鮮明に覚えている。

 

カウンセラーは言葉しか武器にできない。

薬を使い注射を打ち、腕を握って脈をとることもできない。

大げさに言えば、言葉に命を懸けて仕事をしてきた。嘉子はそう考えていた。

言葉にならない感覚や言外の意を汲むことを厳しく禁じ、「目をつむって自分を抱きしめてあげましょう」といった身体感覚を使用することも嘉子は斥けてきた。

頑ななまでの言葉への執着が、家族関係を変えていくと信じてきたからだ。

 

ところがどうだろう。今の嘉子の頭を占めているのは、言葉を必要としないあの濃密な時の流れだった。

彼は、物狂おしいほどに取り乱していた紫の女性を見ながら嘉子と同じ反応を示し、風のように近づいてきたのだった。

 

買ったばかりで折り目が残るベージュのパジャマ、耳にかかるほどに長い髪、長い左手薬指の結婚指輪の跡、すべてが好ましかった。

ふたりの間には言葉を必要としないほどゆったりとした空気が流れていたような気がする。

それなのに……嘉子はあの時の反応をどう整理していいのかわからなくなるのだった。

 

 

不信と嫌悪と欲望と

 

 

彼が医師だったことがどうして自分を緊張させたのだろう。

根深い医師不信のせいだろうか。過去に何度も経験した医師からの屈辱的体験のせいだろうか。

それだけではどうにも納得できないものがあった。

 

たぶん、嘉子は医師という存在に巨大な権力を感じ取っていたのだ。それを行使される立場にあることを嫌悪しつつ、実はその権力に対し羨望の念を抱き、あわよくば自らもそれを手にしたいと渇望していたのではないだろうか。

それほどまでに力、権力への欲望が強かったことを嘉子は認めたくなかった。

 

「僕の後輩が……」というフレーズを聞いたとたんに、それまで漂っていたフラットでゆったりとした空気がガラガラと崩れたのは、二人のあいだに目に見えない段差が生まれたからに違いない。

明らかに彼のほうが上に、嘉子は下に位置していた。

その落差が嘉子を閉ざすことにつながった。そう認めるしかなかった。

 

では、医師である彼はあのとき、どう感じたのだろう。嘉子は彼に聞いてみたいと思った。話題を急に変えたのはどうしてですか? 私の反応の背後にあなたは何を感じたのですか? と。

多くの医師たちは骨の髄まで医療というものに浸食されていた。口々に医療の問題点を言い募りながら、身振りや言葉の端々からは自らの立っている地平の自明性を疑っているようには思えなかった。

しかし、彼はどうだろう。一瞥してリョサのノーベル賞受賞作だと指摘した彼は、足元に広がる無数のヒエラルキーの階層をどの程度まで自覚していたのだろう。

 

なんとなく、ラウンジの入口で手を振ったのが最後のような気がした。もう会うことはないだろう、根拠なくそう思った。

 

 

時計はすでに十時半を指している。やれやれ、こんなことを考えていると眠れそうもない。

嘉子は天井に目を凝らしながら総括モードに入った。楽しいことを考えて、できるだけ平安な気分で眠りに就くのがいつもの習慣だった。

 

家族の入院や手術を経てかなりハードな体験をかいくぐってきたと思っていたが、自分が入院するということ、それも「特権階級」として患者になることは、短期間であってもずいぶん多くのことを考えさせてくれるものだと思った。

特権階級という絶妙なキャッチコピーを与えてくれたひとりの男性のことは、検査入院を思い出すたびに蘇るだろう。

ああ、いい出会いだった……。

ぼんやりと明るい病室の天井を眺めながら、いつのまにか嘉子は眠ってしまった。

 

 

嘉子は検査室に向かう前にホリゾンを一錠飲んだ。気分を落ち着かせるためですよ、という看護師さんの説明を聞きながら、ホリゾン依存だった何人ものクライエントの顔がよぎった。

まるで肩凝りがほぐれるように、固いつぼみが開くように、だんだん気分が和らいでくる。ずっとこんな気分でいられたら、ホリゾン依存も悪くはないなどと考えてしまうのも薬の効果だろう。

 

なんとか時間に間に合って夫がやってきた。

ぜいぜいと息をしている姿を見ながら、心配しないでねと言いながら車いすに乗った。

車いすに乗ると、目線がふだんよりぐんと低くなる。歩くこともできない嘉子は、見上げるほどの存在である看護師さんにすべてを委ねるしかない。

 

さあ、出発しますよ、という看護師さんの言葉で、検査室行きのエレベーターに乗り込む。

朝食を食べていないのに不思議にお腹が空かない。

エレベーターを降りて検査室の入口に到着すると、音もなく銀色のドアが左右に開いた。部屋の中からは眩しいほどの白い光が放たれ、消毒薬剤の匂いが湧き起こるかのように嘉子を包んだ。光の中でチョコチョコと動いているのは、カルガモのような主治医の姿だった。

メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトのメロディーが高らかに響いている。

まるで晴れの舞台に上るかのように、嘉子の車いすは検査室の中に進んでいった。

(第1部了)

 

第1部「カウンセラーは見た!」は今回で終了です。

次回より第2部「カウンセラーを見る」が始まります。

お楽しみに!

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