第13話 日曜昼前、余韻と予感

第13話 日曜昼前、余韻と予感

2011.8.31 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症の依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『母が重くてたまらない』(春秋社)など多数。上野千鶴子さんとの共著『結婚帝国』がリニューアルされて文庫版に(河出文庫)。

前回はこちら]

「痛い、痛いんだ」……ノジマさんのつぶやきが自分への語りかけに聞こえてきた嘉子は、意を決してナースステーションに駆け込んだ。やがて二人の看護師がやってきて、ノジマさんをベッドごとどこかへ連れていった。嘉子はいつの間にか眠りに落ちた。

  

 

昨日と同じ今日のはずなのに、なぜか空気が違っている。
ふと携帯の画面を見ると、今日は日曜日だった。金曜に入院して3日目ともなると、すっかり曜日の感覚がなくなってしまう。

 

日曜日の病棟は、看護師さんや清掃担当者などの動く速度が心なしか昨日までよりゆっくり感じられた。
医療関係者の宿命ではあるが、日曜出勤することの大変さは、自分も月一回日曜出勤している嘉子にはよくわかった。


日曜の原宿は、表参道をまっすぐ歩くことができないほどの混雑ぶりである。精一杯のおしゃれをした若者たちの間をかきわけて仕事から帰るときの気分は、お祭りの高揚感に満ちた通りを、スーパーから大根やじゃがいもを買って帰るときのどんよりとした感覚と似ている。それは、自分だけが疎外されているような、妙な感覚だった。

 

 

ひょっとしてノジマさんは……

 

 

「木川さ~ん、お食事ですよ~」と朝食を運んでくる声はいつもと同じ男性だったので、嘉子は少し睡眠不足気味だったけどその声にほっとした。それと同時に、どんなことがあっても時間になると律儀にお腹が空いてくる自分に驚いていた。

 

朝食はパンだった。野菜サラダとヨーグルト、マーガリンとイチゴジャムがついている。コーンクリームスープは熱々で、空腹においしさがしみわたった。
カーテンにさえぎられているので左隣の空間を見ることはできないが、しんとして動かない空気から、昨晩までそこにあったベッドの不在が伝わってくる。嘉子は、去っていったノジマさんのことを思った。

 

ひょっとしてノジマさんは、私と話がしたかったのではなかったか。隣のベッドに横たわっている、けっこう騒がしい患者だった私と、なんらかの交流をしたかったのかもしれない。寝たきりのまま、まだ見ぬ相手とつながり交流するためには、「痛い」という言葉を発することがいちばん確実で有効であることを、おそらくノジマさんは知っていたのではないだろうか。

 

思いをめぐらせながら嘉子は頭を振った。
いや、そんなはずはない。あれは夜間せん妄に近かったのではないだろうか、と専門知識をふりしぼって考えた。
それに、万が一交流を求めていたとしても、昨晩の自分はそれに応じることは不可能だった。どう考えても無理だった。

 

そう結論をつけられたことで嘉子は少しだけほっとしたが、繰り返し襲ってくる感覚を拒むことはできなかった。
ノジマさんをこの病棟から追い出したのは自分ではなかったか――
フラバってしまったことは嘉子の個人的問題であり、ノジマさんに何の咎(とが)もないはずだ。だから、その後のノジマさんがどうなったか看護師に聞くこともはばかられていた。

 

仕事がら、ひとつのことで頭の中を占領されないようにする術に長けている嘉子は、気分を変えるためにあまり好きではないヨーグルトを顔をしかめて食べた。朝食を完食してから、ベッドを降りて右手のカーテンを全開し、晴れた空と眼下に広がる光景をぐるっと見渡してから、ナースステーションに行ってシャワールーム使用を申し込もうと決めた。

 


シャワールームの予定表を見ると幸いにも午前中は空いていた。嘉子は急いで名前を書き込み、ふっと目を上げた。視線の先をさえぎるように、ナースステーションの右手ななめ奥に二本の衝立(ついたて)が立っていた。その下の隙間からのぞいているのはベッドの足である。

 

看護師がひとり衝立の向こうから出てきた。嘉子はその向こうを見たくて、楕円形のナースステーションの反対側に回り込み、さりげない様子で衝立の向こうを覗いた。
うまく角度が合ったのか、その位置から嘉子ははっきりとベッドを見ることができた。
予想どおり、そこにはノジマさんが横たわっていた。

 

少しベッドが起こしてあるためか、嘉子はまじまじとノジマさんを眺めることができた。内出血の跡は黄色く変色しており、隣に付き添っている看護師さんからスープを飲ませてもらっている。スプーンを口にするたびに、子どものように、このうえなくおいしそうな表情を見せるノジマさんを見ていると、昨晩のできごとがまるで夢のように思われた。きっと昨晩と同じピチャピチャという舌の音をさせながら飲み干しているのだろう。
 

嘉子の中に残っていたひとつのわだかまりが溶けていくようだった。

 

 

消音モードの彼と出会う

 

 

シャワーを済ませた嘉子は、昼食までの時間をどう過ごそうかと考えた。
空き時間がわずかであればあるほど、その使い方を考えているとしあわせな気持ちになれるものだ。
講演からの帰路、空港でフライトが遅れるというアナウンスを聞いたとき、次の仕事に移動するまで1時間だけ余裕があるとわかったとき、嘉子はエアポケットのような時間にはまりこむ。すぐに終わってしまうひとときだからこそ、それをどのように使うかの自由さはより強烈に思われた。

 

わくわくしながら考えた末、嘉子はラウンジで本を読もうと思った。テレビの音、携帯電話を掛ける声、知人と会話する声などが飛び交っていても、カフェと同じだと思えば平気だ。何冊も持ち込んだ本の中から分厚い一冊を選び、ブランドもののエコバックに入れてさっそうとラウンジに向かった。

 

ラウンジは日曜だというのに、午前中のせいかガランとしている。いつもは窓際と決めているが、さすがに陽光が暑く感じられたので嘉子はエレベーター近くのコーナーに陣取って長編小説の続きを読みはじめた。

 

ひとりの初老の男性がやってきて、窓際の角の椅子に座り、リモコンでテレビのスイッチを入れた。そして、ちらりと嘉子のほうを見てから消音モードにした。
読書の邪魔になるから音を消してくれたのだろう。そんな心遣いをされたことに少し感動した嘉子は、その男性のほうを見て軽く会釈をした。真新しいベージュのパジャマ姿の彼もそれに気づき会釈を返した。

 

ふたたび本に視線を戻した嘉子は、まったく別のことで頭がいっぱいになっていた。還暦を過ぎた女性が入院先の病院で知り合った男性と言葉を交わしそして恋に落ちる……。せっかく入院したのだから、これくらいの妄想は許されてもいいだろう。そう考えると心なしかドキドキしてきた。

 

ちらりと盗み見した彼の横顔は、なかなか品がいい。きっと入院したばかりに違いない。何歳だろう、どんな病気で入院しているのだろう。もちろん結婚はしてるはずだ、ひょっとして妻と死別していたりして……。孫がいるのかもしれないなあ。読書にふけるかに見えて、嘉子ははてしなく広がる想像の世界に遊んでいた。

 

 

紫ラメの仁王様

 

 

少しにやけた顔で字面(じづら)を追っていた嘉子の耳に、机の上に荷物を置くドサッという音が聞こえた。
目を上げると、そこには全身紫の女性が仁王立ちになっている。よく眺めると、紫の地に細かいラメの入った刺繍がほどこされたスーツ姿である。ラウンジの机の上には、両手で運んできたらしい旅行鞄と大きなショッピングバックが置かれている。

 

でっぷりと太ったその女性は、二重あごや目の下のたるみなどからおそらく50代半ばだと思われた。腰回りにかけてスーツの紫のボタンははじけそうになっている。
厚いファンデーション、光沢のあるチーク、さらに口紅の上に塗られたグロス、くっきり過ぎるほど引かれた眉からは、相当時間をかけてメークしたことが一目瞭然だ。遠目にも、顔全体がピカピカの光沢を放っていることがよくわかる。
髪にはソバージュ風のパーマがかかっているが、毛は薄くなっているので地肌が透けて見える。

 

「はあ~」

 

深いため息をついた彼女は、額にしわを寄せて病棟の方向を不機嫌そうに眺めた。履きなれないハイヒールに足がめりこんでいる。
その視線の先から、背広姿の男性がひょこひょこと小走りにやってきた。

 

「何しとっと!」

 

紫の女性が男性に向かって抑え込んだ声を浴びせる。
男性は女性と同年代だろうか。背丈は女性と変わらず、髪の毛もまばらで小太り、くたびれた背広のお腹の部分ははち切れそうになっている。目じりが下がってどこか愛嬌のある顔立ちは、テレビでおなじみのお笑いタレントにそっくりだ。

 

叱責された彼は、無言のままだ。先生に叱られた生徒、いや母親に叱られた息子のようにおどおどとした表情で妻の顔を見ることもできず、そっと机の上の旅行鞄を持とうとした。

 

「余分なこと、せんでええ!」

 

再び怒声が浴びせられる。
それとほとんど同時に、テレビの音が流れはじめた。消音モードにしてくれたあの男性が、ここでテレビの音を流したほうがいいと状況判断したのだろう。

 

さすがに居心地の悪さを感じていた嘉子は、そのナイスな判断に救われた思いがした。それどころか、これでゆったりとこの二人を観察することができると思った。心なしか、彼のほうもテレビを見ながらチラチラとそのカップルを気にしているようだ。

 

 

粛々たる儀式

 

 

ピカピカの紫の女性とおどおどした毛の薄い男性は、やりとりからしておそらく夫婦だろう。妻が退院することになったので、夫が迎えに来ているに違いない。紫のラメ入りスーツと念入りなメークは、やっと退院できることになった喜びの表れだ。しかし、何らかの理由で妻は夫の態度に腹を立てている。嘉子はそれまでの展開からこのように推測した。

 

夫は額に汗をかきながらやたら手を揉んだり、左右のポケットに交互に手を入れて物を探したかと思うと、携帯を取りだしてメールをチェックしはじめた。しかしいっこうに妻の怒りは収まりそうにない。
妻の態度におろおろしながら、夫はどうしていいかわからないという風だ。

 

突然、紫のピカピカ女性はカバンのチャックを開け、中の物を一気に全部机にばらまいた。夫はびっくりして身動きできず凍り付いている。

「フン!」という鼻息とともに、妻はそれらの中身をひとつずつ再びカバンに入れはじめた。洗面ポーチ、スリッパ、本、コップ……自分がしばらくのあいだ病院で過ごした痕跡の残る品々を、ひとつずつ確かめるように妻はそれらをカバンに収めている。

 

我に返った夫は、自分の役割が見つかったとばかりにそれを手伝おうとした。ところが妻は、その手をバシッと叩き、払いのけた。

 

次は大きなショッピングバックの中身が同じように机にばらまかれた。
紫のカーディガン、ピンクのパジャマ、そして紫の靴下が、まるでサンタクロースの袋から溢れ出るように机の上に散乱した。
妻は先ほどと同じように、それらを丁寧にたたみ直してはひとつずつ袋の中に収めていく。一連の行為は、目的が不明なぶんだけ、粛々としてまるで儀式のように厳かに思えた。

 

 

二人で見つめた濃厚ドラマ

 

 

二つの荷物は元通りに収められ、机の上に乗せられた。
作業を終えた紫の女性の顔には、びっしりと汗が浮かんでいる。ファンデーションもピカピカのチークも、すっかり最盛期の状態から崩れ去っている。全身を覆っていたあの怒りのオーラはどこかに消え去り、そこに立っているのは老いの入口でたたずむ一人の女性だった。

 

「ふつうね、ふつうはね……」

 

こうつぶやくと彼女は少し泣きそうな顔になった。
そして夫の顔を見ながら言った。

 

「こういうときって、ぜーんぶ家族がやってくれるもんなのよ、家族がね」

 

先ほどとは打って変わった標準語だ。
夫は、妻の顔を見つめながら直立不動の姿勢で、何度も何度もうなずいている。
そんな様子を一瞥した妻は、やおら二つの荷物を両手に提げて早足でエレベーターのほうに向かった。夫はあわててその後を追いかけた。その姿はチャボが走る姿にそっくりだった。

 

視界から紫の女性夫婦の姿が消え、再びラウンジは嘉子と消音モードの男性だけになった。
テレビでは、ちょうどアナウンサーが11時のニュースの時間を告げていた。
嘉子はテレビのほうを眺めてはいたが、短時間の濃厚なドラマを見たかのような余韻にひたっていた。

 

どれくらい経っただろう、少しずつその波が引き始めたころ、男性は静かに振り返って嘉子のほうを見た。彼の視線は、読書をされるならもう一度消音モードにしましょうかと問いかけていた。
まるで内面が感知されているかのようなタイミングのよさに驚きながら、嘉子は笑顔で首を振った。無言のままでも通じるという確信があったからだ。

 

しばらくの間、二人は離れて座りながら、同じNHKのニュースを見た。

(つづく)

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