第12回 夜のしじまの果たし合い

第12回 夜のしじまの果たし合い

2011.8.12 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症の依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『母が重くてたまらない』(春秋社)など多数。上野千鶴子さんとの共著『結婚帝国』がリニューアルされて文庫版に(河出文庫)。

前回まで]

「う〜ん、う〜ん、」「いた〜い、いたい〜」「かんごふさ〜ん」――隣のベッドの高齢女性、ノジマさんのうめき声は終わらない。やがて、ナースコールでやってきた看護師がひそやかに肌をさすり始めると、ようやく夜の静寂が戻ってきた。これで眠れる……だろうか。

 

 

パタパタと靴音をさせて看護師が去ってから、ノジマさんのベッドにはしばらくのあいだ静寂が訪れた。奇妙に動かない空気、身じろぎの気配の消失。それらはかえって嘉子を緊張させた。

今だ。この機会を逃したら眠りに就けるチャンスはなくなってしまう。

そう思ったからだ。

 

懸命に眠ろうとして目をつむったが、嘉子の脳裏に浮かんだのは午後に繰り広げられたあのナースコール連打の記憶だった。

これで収まるだろうとほっとしたとたん、そんな嘉子を見透かすかのようにノジマさんはナースコールのボタンを押して看護師を呼ぶ。それが何度繰り返されたことだろう。

 

あのときの感覚は自分がまるで麦踏みの麦になったようだった。

ノジマさんはこれで静かになってくれるだろうという期待の芽は、わずかに頭を出したとたんつぶされた。嘉子の気持ちが全部見透かされてしまっているように、次々と期待は踏みつぶされていった。

 

だから今の嘉子はこの静寂がずっと続くとは思えなかったのだ。つかの間の平安はすぐに終わりを告げ、ノジマさんは再びあの掠れた声で呻き出すに違いない。それはあと15分後か、それとも1分後かもしれない。気がつくと奇妙なことにその瞬間を今か今かと待ち構えているのだった。

 

そんな自分に気がついた嘉子は、カウンセリングで出会った多くの被害女性のことを思い出した。

個人カウンセリングやグループカウンセリングをとおして長年聞いてきた虐待やDV被害を受けた女性たちの語る経験と、自分が病院のベッドで経験したことはどこか共通していると思った。

 

 

切断される自由意思

 

 

「母は私が学校から帰るのを毎日待ちかまえていました。少しの休憩も与えずバイオリンの練習をさせるためにです。拒んだら何をされるかわかりません。なんとか自分の自由になる時間が欲しくて、ある日のこと、回り道をしようと公園のブランコの脇で休んでいたら、そこに不意に母親が現れたのです」

 

「二回の調停を経てDVをふるう夫と別れることができ、子どもと二人で新しいマンションに引っ越しました。生活も落ち着いたある日曜日、子どもといっしょにアニメの映画を見に行ったのです。帰宅したら、玄関先の自転車の荷台の中に、さっき見た映画のパンフレットが入っていたので、ぞっとしました。きっと別れた夫がやったに違いありません」

 

いつのまにか彼女たちの動静が相手に伝わってしまっているという実にこわい話である。ところが、二人のエピソードに対して、グループのメンバー全員は驚きもせず、「あるある、そんなこと」とうなずいていたことが印象的だった。

 

ブランコ脇で母に見つけられた女性は、それから一切の抵抗をあきらめてひたすら母に従った。

DV夫と別れた女性は、知られているはずもない新住所に映画のパンフレットを発見し、前夫からの監視を直感した。

二人とも、もう抵抗できない、どうしたって結局無理なんだ、そこから逃れることなどできないという絶望感と底知れない恐怖を抱いたという。

 

暴力被害とは、少女がバイオリンの練習をさぼって母から殴られた痛み、夫のDVで肋骨が三本折れた痛みだけではない。それを逃れるために一縷の望みを託した行為が無残にも突然潰されてしまうことによっても生じる。

いうなれば、逃れようのなさと希望に通じる道が遮断されたという感覚、自ら選択したかに見えて実は相手にすべて見透かされているという感覚に支配されることが暴力被害の恐ろしさなのだ。そこでは自由という言葉すら立ち上がることはない。

 

これを裏返せば加害とは何かが見えてくるだろう。

暴力とは相手の行為の文脈を切断し驚愕と恐怖を与えることで、人間としての自由意思を根こそぎ奪うものである。そしてこれを意図し選択されるのが暴力の加害行為なのだ。

 

嘉子はDVや虐待の被害女性たちのグループカウンセリングをとおして、このようなことを考えつづけてきた。もともときっちりと割り切ることが苦手な嘉子だったが、なぜか「加害・被害」という二項対立的な言葉だけは、それほど抵抗なく使うことができた。

 

 

プチ被害体験

 

 

ノジマさんはすぐに呻き始めるだろう、そして私を眠らせないようにするだろう。いつの間にかそんな非合理な考えは確信に近くなっている。

 

真衣が病院にいた時間には、マルジューで買い物をしたいというかわいそうな老人だったノジマさんは、消灯後の今、嘉子を過去にフラッシュバックさせ期待の芽をつぶす存在へと変貌している。

 

 

そうか、これはプチ被害体験なのだ。クライエントの女性たちのように、ノジマさんにとらわれてしまっているのだ。眠りを妨げられていると考えていたが、期待が切断された恐怖によるものかもしれない。

 

ノジマさんにまつわる記憶の切片が頭の中でひとつずつ繋がることで、どこか不気味だった全体の相貌が変わっていく。それに伴って、不眠のまま長い夜を耐えていくしかないと考えていた世界がふっと明るみを帯びる気がした。

 

よくよく考えればいくらでもこの事態を避けることはできるはずだ。自分だってナースコールの権利はあるのだし……。ノジマさんは導尿の管や点滴の管に囲まれて横たわっているが、少なくとも今の自分は歩いてトイレやナースステーションに行くこともできる。

 

それにしてもさっきのフラバといい、今回のとらわれの恐怖といい、入院していると本当にクライエントから聞かされたことを追体験できるものだ。けっこう今回の入院はお得だったかもしれない。

な~んだ、と思った嘉子は体から力が抜けて少し元気を取り戻した。そして、今度こそ眠りにつけると勢いこんだ。

 

その途端、ノジマさんのベッドから、ピチャピチャという口の開け閉めのたびに起きる舌の音が聞こえ始めた。のどから空気が漏れる音もする。予想どおりノジマさんの活動が再開されたのだ。

しかし嘉子の反応は前とは違った。

どうせ眠れないのなら耳を澄ませてすべてを聞いてやろう、ついでに隣のベッドの前を通ってノジマさんの姿をのぞき込んでやろう、と思った。

少しだけわくわくしながら、好奇心全開になった嘉子は、暗がりで全身の神経を隣のベッドに集中させ臨戦態勢に入った。

 

 

粘る声、拾う耳

 

 

「う~ん、いた~い」「…………」

 

うめき声はかすかだが、身体の向きを変えるときのシーツが擦れる音がする。

「ハー、ハー」という息切れのような音も混じっている。先ほどのナースコールのときに比べると、どこか遠慮がちに聞こえるのは気のせいだろうか。

 

嘉子はすっかり観察者気取りになって、呻き始めてからどれくらいでナースコールのボタンを押すのだろうとタイムを計ってみようかと思った。

「いた~い、いた~い」

ところがノジマさんは、小声で呻いているのだがいっこうにボタンを押さない。それに呻き始めてから少しだけ間が空いたりするのだ。

 

以前の「いた~い」では、声がだんだん大きくなり、最後にナースコールのボタンを押して看護師が飛んでくるという直線的経過をたどった。聞いている嘉子も、うめき声開始から看護師到着までの時間がだいたい予想できたのだった。

まるで嘉子のそんな意気込みや観察意欲を逆手にとるかのように、ノジマさんのうめき声は少し大きくなったかと思うと少しずつ小声になり、間が空いたかと思うと「う~んう~ん」と連続した。

 

この不定期な非連続性は、耳を澄まして計測している嘉子にとってあまり心地いいものではなかった。

もともと不眠気味だった嘉子は、今回の入院に際して睡眠導入剤を処方してもらっていた。不定期なノジマさんの声と音を聞いているうちにだんだん嫌気が差した嘉子は、臨戦態勢をこのあたりで打ち切ろうと思った。そして床頭台の引き出しを開けて薬を取り出そうとした。

 

 

これまで体を縮めるようにして様子をうかがっていた嘉子が上半身を起こした途端、ノジマさんのうめき声がピタッと止まった。

嘉子は驚いた。

単なる偶然なのか、それとも隣のベッドの異変を聞きとったからなのか、空気の流れを五感で感知したからなのか。

嘉子がずっと耳を澄ましていたように、隣のベッドからノジマさんも耳を澄まして嘉子の様子をうかがっていたのだろうか。

 

いや、そんなはずはない。「う~んう~ん」とうめいているときは、自分の身体感覚を追うだけでせいいっぱいのはずだ。痛みに襲われているとき、隣のベッドに関心を向ける余裕などないはずだ。

あり得ないことだと考えながらも、あまりの符合、あまりの同調性が薄気味悪く感じられた。

嘉子はそれを振り払うように手早く薬の袋を取り出し、カプセルを指で押した。プチっというひそかな音は、消灯後無音世界となった病室全体にくっきりと響きわたった。

それからミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開け、ごくごくとのどを鳴らして水を飲み、睡眠導入剤の白い粒を二つ飲み込んだ。

ひとつとして同じ音はない。これらの物音はノジマさんの耳に入っているのだろうか。薄暗い病室での嘉子の行為すべてが無数の音を発していることに気づかされた。

 

隣のベッドは、じっと聞き耳を立てているかのように静かなままだ。

再び横になり、嘉子はベッドの上で目を閉じて薬が効いてくるのを待った。

 

 

痛いんだよ!

 

 

ノジマさんの静寂が続くにつれ、嘉子は穏やかに眠りの海に滑り込んでいった。

どれくらいの時間が経ったのだろう。突然嘉子はノジマさんの声で目が覚めた。

 

「痛い、痛い」

 

はっきりとした発音である。それに声も違う。これまでのようなしゃがれ声ではなく、誰かに話しかけているような、明晰で低いトーンである。一瞬そばに誰かがいるのではないかと思ったほどだ。

他の二人は相変わらずぐっすり眠っている。ノジマさんの声は隣の嘉子にしか聞こえていないのだ。

 

「痛いんだ、痛い」

「痛いよ、痛いよ」

「ああ、もういい加減にしとくれ」

 

「いた~い」とさっきまでしゃがれ声でうめいていたノジマさんが、なぜはっきりと発音するようになったのだろう。ナースコールを押す気配もなく、誰に向かって語っているのだろう。応答してくれるひとは誰もいないはずなのに。

それにしても眠い、こんなふうに起こされて、と嘉子は腹が立った。

 

眠い頭でぼんやりと思いをめぐらせていた嘉子だったが、突然雷に打たれたように目が覚めた。

ひょっとしてノジマさんは隣のベッドの嘉子に向かって訴えているのではないだろうか。

 

 

嘉子はやおらベッドに起き上がった。

薬のせいで少しだけ頭がふらふらするが、かまわずスリッパをはいて一目散にナースステーションに向かった。

煌々とした灯りのもとで、夜勤の看護師たちが忙しく動いている。時計を見るともう夜中の0時をまわっている。めざとく嘉子を目にした看護師が近づいてきた。

どうしましたか?という質問が出る前に、嘉子は一気に伝えた。

 

「あの~、○○号室の木川ですが、隣の患者さんの話し声が聞こえて眠れないんですけど。いったん眠ったんですが目が覚めてしまって」

「ああ、お隣はノジマさんですね、はい、わかりました」

 

そう答えると、彼女はすぐにノジマさんの担当らしき看護師と小さな声で相談を始めた。もちろん詳しくは聞きとれなかったが、嘉子の耳にはよく使われる睡眠導入剤の名前が聞こえてきた。

 

「こちらで対応しますので、木川さん、ベッドにお戻りください」

 

にっこりと笑った看護師の顔を見たとたん、ほっとしたのか嘉子は思わず涙が出そうになった。おそらくナースステーションにやってきた時の嘉子はこわばって必死な顔をしていたに違いない。

 

 

静寂、ふたたび

 

 

往きとは違って少し落ち着いた足取りで嘉子は病室に向かった。病室の入口右手にはノジマさんのベッドがある。嘉子は思い切って立ち止まり、閉じられたカーテンの向こうで横たわっているはずのノジマさんを一瞬だけ凝視した。そして自分のベッドに戻って横になった。

 

その直後、パタパタという音を立てて二人の看護師が病室にやってきた。

「ノジマさん」と小さな声で呼びかけてからカーテンを開けた看護師は、ノジマさんに語りかけた。隣の嘉子のことを思ってか、耳元でひそひそ声で話しているので内容はまったく伝わってこない。

 

「あい」「あい」

 

ノジマさんはおそらく「はい」と言ったつもりだろうが、「あい」としか聞き取れないほど神妙に答えている。そして、その声は以前のしゃがれ声に戻っていた。

 

深夜のためか、すべてのことがらは音を立てないように注意深く、言葉を介すことなく運ばれた。それは粛々としてまるで儀式のようだった。嘉子はカーテンの向こうの看護師二人の手際よい動作が、まるで目に見えるような気がした。

 

半ば予想していたことだったが、ノジマさんのベッドはそのままストレッチャーと化して、二人の看護師さんによってナースステーションのほうに運ばれていった。嘉子にはノジマさんが運ばれていく際の空気の振動と遠ざかっていく床を滑る音だけが残された。

 

こうしてノジマさんはいなくなり、左隣のカーテンの向こうは再び何もない空間となった。

嘉子はいつのまにか眠りに落ちていた。

(第12回了)

 

[次回は9月上旬UP予定です。乞うご期待!]

 

信田さよ子先生の著書

nobuta_book1.jpgアディクションアプローチ もうひとつの家族援助論

A5判・224ページ・1999年06月発行

定価 2,100円 (本体2,000円+税5%)

ISBN978-4-260-33002-2

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DVと虐待 「家族の暴力」に援助者ができること

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A5判・192ページ・2002年03月発行

定価 1,890円 (本体1,800円+税5%)
ISBN978-4-260-33183-8

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