かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2011.6.24 update.
3月6日に医学書院のセミナーを経験したのもつかの間……。
3月11日に地震が起きて、病院を含む地域全体が数日間の停電をしました。
停電が終わり携帯電話の電波が安定してから、数々のメールに励まされました。
私の周囲では状況が落ち着きつつあるので、被災者から支援者になり行動を始めたと
ころです。
タイトル写真:安部俊太郎(http://shuntaro-color.com/)
被災者から支援者へ 第2回
安保寛明
岩手晴和病院 社会復帰支援科長 看護師/精神保健福祉士
沿岸部のアウトリーチへ
3月26日。朝5時30分に盛岡駅前を出発したバスは、9時ごろに目的地の付近に到着した。バスの終着点は海岸まで1kmくらいの場所。そこから少し歩くと、津波で流された船が道路に立っていた。
9時過ぎに支援センターへ到着。3名の職員とミーティングをした。ミーティングでは、公用車にガソリンが確保できたばかりであること、避難所に行っていないと思われる精神障害者のご自宅へ、アウトリーチしたいことがわかった。
一方で、出勤している職員にも使命感と疲労感が混沌としている様子が見てとれた。
ある職員は、新築してから数年しか経過していない自宅が流されていた。彼は避難所から通勤していて、家族を避難所から親族の家へ避難させている。自宅にあった自動車や家具が無くなったことも残念だが、それよりも、家族の写真や思い出の品が流されてしまったことが残念でならない、と言葉を詰まらせた。
朝10時。支援センター職員2名のアウトリーチに同行することになった。
市街地のほぼ全域が津波で流されたと報道されている地域へ向かう。私は訪問先の方々の負担になることがないよう、アウトリーチ先の避難所には入っても、ご自宅には入らないことにした。
センターから被災地へ向かう道路では、予期していたものの、受け入れがたい光景が広がっていた。
骨組みだけになったドラッグストア、看板すら消えてしまった温泉、土台があったこともわからない住宅地が次々に視界に入ってきて、まるで戦争映画や原爆資料館で見た光景と重なっているような印象を受けてしまった。
11時を少し回った頃、1件目のお宅に到着した。
そのお宅に住んでいるAさん(20代)は、中等度の発達障害と診断されている。震災前、父親は出稼ぎ、母親は海産物加工の仕事をして生計を立てていた。
3月11日以降、母親は職場から戻って来ていない。出稼ぎ先から帰って来た父親が、母親の手がかりを探して避難所を回った。ある避難所で母親の同僚の女性に会い、母親が自宅に戻ろうとして交通手段を探していたところに津波が襲ってきた、と聞かされたそうだ。
Aさんは淡々としていたものの、父親は、「母親は安否不明のまま見つからないだろう」と話し、出稼ぎ先に戻らなければ会社を解雇されてしまうが、Aさんを1人で家に置いては行けないと心配していた。その場では解決できない問題である。
「また来ますね」と話して、支援センターの職員は玄関先から車へと戻ってきた。
次にお伺いしたのは、中年男性が1人で生活しているというお宅だった。
その男性は、食料や灯油を宅配に頼って生活していたため震災後に灯油が尽き、毛布だけで寒さをしのいでいた。食料は避難所から分けてもらっているので大丈夫、でも避難所で過ごすと迷惑をかけそうで申し訳ないから、ここにいると言った。ここでは彼の意思を尊重することしかない。持参した食料をおすそ分けした。
12時を回ってから、ある避難所へ行った。
震災前は保育園として使われていたその避難所では、70人くらいの人々が身を寄せていた。その避難所の住民代表者によると、精神科への通院が必要な方が1人いるが、車が確保でき通院が出来るようになっているとのことだった。
避難所の外では、数人の男性がドラム缶のたき火を囲んでいた。そのうちの1人がこちらを見て、「おう!」と手を挙げてきた。むかし支援センターの職員で、現在は法人内の別の福祉事業所で働いている人だった。一緒にいた職員とは、久しぶりの再会のようだ。
「あーお前、家、この辺なのか」
「そうそう、この辺。そういうお前は何してんの? 仕事?」
「おうアウトリーチ中だ。ちょうどよかった。俺たち、町役場あたりに行きたいんだけどさ」
「あの辺の橋、落ちてるらしいぞ」
「俺もそう聞いてきた。だからさ、お前、別の道案内してよ。」
「そっかー。よし。せっかくだから案内してやるよ。ちょっと待ってな。子供預けてくる」
避難所で偶然出会った高揚感と、海の男が多い地域での会話のおかげで、勢いがついていた。海沿いの道から向かうことを諦め、山沿いの道から町役場のある市街地へ向かうことになった。
車中では、運転席と助手席で話に花が咲いていた。
「てゆうかさー、お前どうしてんの?」
「え、俺避難所だよ」
「やっぱかー、お前の家も海っぱただもんな」
「まぁなー、お前も避難してんの?」
「俺のうちは大丈夫なんだけれど、食べ物も何もないからな。避難所に行って食べて、夜は戻って、って感じだ」
「そっかー、そっちの避難所って、メシどう?」
「こないだ、自衛隊の炊き出しが来てくれてさ、そのときが旨かったね。炊き出しする班ってあるんだね。ナイフの使い方とか超うまいの。でさ、ついでに余ったからって、自衛隊のカンヅメをもらったんだよね」
「マジで!」
「なんかさ、黒っぽいカンヅメでさ、開けたら肉が入ってるの。超うまかったよ。あれが震災後のベストメニューだな。」
「俺も、チョー肉食いて?!!!」
「カルビィー!」
「ホルモーン!」
被災しながら支援する側にまわっている同士しか、本当の思いが話せない。避難所ではなく車の中だからこそ、安心して「カルビ」「ホルモン」という言葉を口にできるのだろう。私は後部座席で、大人2人の甲高い声のやりとりを、じっと聞いていた。
山道を抜けて、主な目的地でもある、震災で被害を受けた町に向かった。
その市街地は、津波の被害とその後に起きた火災の被害で焦土と化していた。町にあった公立病院や鉄道の駅を含むほぼ全域の建物が焼失していて、かろうじて役場と2つの小学校が避難所等に活用されていた。
1つの小学校では、災害時の避難場所になっていたものの、校庭まで浸水して肝を冷やしたのだそうだ。多くの小学生は無事だったが、一部の小学生が、親と一緒にさらに遠くに逃げようとして、行方不明になってしまった。
その避難所では、大学病院、国立病院機構などの災害医療チームが到着して診療をおこなっていた。医療職のボランティアは少なく、避難所で活動する看護師・介護士のボランティアを募集する張り紙が多くあった。
ある看護師ボランティアに話を聞くと、話しをしてくれた。
震災後5日くらいまでは薬も医療者も不足していて、ワーファリン等の薬が切れた方がいた。医療チームは診察希望者の支援が優先になっていて、褥瘡や血栓症のリスクを査定する段階まではできていない。
もっと看護師がいれば……。血栓予防の体操など、身体のことを知っている人たちが避難所の生活にハリを作ることができればいいと思うのだが、今のところ、テレビを見る以外にすることがない。
焦土と化した市街地のややはずれに、3軒目のアウトリーチ予定のお宅があった。2軒隣の家までが津波と火災で失われていて、かろうじて火災を免れたのだそうだ。町全体が被災しているため病院への通院が出来ずにいること、自宅では電気や水道は開通していないが避難所で充電できるようになったので携帯電話は通じるようになった、と話していた。 【つづく】