かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2011.6.22 update.
3月6日に医学書院のセミナーを経験したのもつかの間……。
3月11日に地震が起きて、病院を含む地域全体が数日間の停電をしました。
停電が終わり携帯電話の電波が安定してから、数々のメールに励まされました。
私の周囲では状況が落ち着きつつあるので、被災者から支援者になり行動を始めたと
ころです。
タイトル写真:安部俊太郎(http://shuntaro-color.com/)
第1回 被災者から支援者へ
安保寛明
岩手晴和病院 社会復帰支援科長 看護師/精神保健福祉士
音信不通だった、
沿岸地域の支援センターからメールが届く
3月11日14時45分を境に、私の周りでは、とにかく患者の生命を維持することが当面の優先目標になった。停電が起き、生命維持に必要な機器が動かない。水をくみ上げるポンプも、人や物を運ぶエレベータも動かない。携帯電話の電源はなくなり、連絡よりも目の前のものにベストを尽くすことに専念した。病院の発電機でまかなえる電気はごくわずか。患者、水、食事など、可能な限り全ての物事を、人間の手でリレーした。看護師も精神保健福祉士も作業療法士も事務員も、階段や廊下に並び、食事や水を運び、汲み、繋いでいった。
3月13日、電気が灯る。携帯電話の電源が確保できメールが受信できるようになると、30通を超えるメールが届く。そのほとんどが、私と岩手県の様子を心配したものだった。友人や仲間からのメールに心が震えた後、岩手県沿岸の福祉職の人々の顔が目の前に浮かんだ。
そういえば、3月8日にメールをくれたあの支援センターは無事だろうか?
14日以降、岩手晴和病院では通常診療が再開された。ガソリン供給のめどは立っていないが、事務職員と施設営繕職員が最大限に工夫をしている。ウチの病院は、きっと大丈夫。
テレビでは、沿岸部の映像が繰り返して放送されている。宮古、山田、大槌、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼……岩手や宮城県北部のほとんどの市町村で、甚大な被害を負っていることがわかってきた。
精神科病院の状況は15日ごろから明らかになってきたものの、地域の支援センターの情報はつかめないままだった。
21日以降、病院車両のガソリンは供給されるようになった。電車もバスも運行が再開された。盛岡地域も当院も、他地域の支援に向けた準備を始めるようになった。
それでも、私が気にかけていた沿岸地域の支援センターからは連絡がなく、こちらから電話をかけても繋がらない日々が続いた。
盛岡は色んな意味で安定してきている。今度の土曜日は仕事も休みだし、支援センターに自分で行ってみよう。行ってみたらわかることがあるはずだ。地元のバスも開通しているから、交通の面で迷惑はかけずに済む。
力になりに行こう。他人から援助をもらうには警戒するかもしれないが、元々関係がある自分なら、大丈夫なこともあるはずだ。言葉だけじゃなく、元気をバケツリレーしよう。被災者から支援者へ――そんなことを考えて26日に沿岸地域へ行く予定にした。
前日の25日、震災からちょうど2週間が経過した日。その支援センターの職員からメールの返事が入った。
ご心配をおかけしました。無事です!
やっとインターネットがつながりました。
職員は家が全壊になった人もいますが、みんな無事でおります。建物も大丈夫です。
今の状況に、私共まだ夢の中にいるような気持ちですが、
やっと通常体制に戻り、相談も徐々に出てきています。
健康な人でさえ、すごいストレスです。
精神(障害者)の方は、
家族や家を失ったことや、避難所の生活に強いストレスを感じており、
体調を崩してしまう人は多いようです。
それでも、助けを求められない障害者はたくさんいると思いますし、
このような人が埋もれることのないよう
今はニーズ把握の段階ですが、頑張っていきたいと思っています。
よかった。無事だったのか。その後すぐに電話をした。電話越しの声には、疲労と喜びが混じっているように感じられた。職員は全員が無事であること、メンバーたちの様子が把握できていないこと、何をしたらいいか、どんな言葉をかければいいかで心配があるとのことがわかった。翌日、現地へ行くことを申し出た。
自宅に戻って、妻に話した。「連絡がとれたので、支援センターに応援に行ってくる」と。妻の祖母の家も津波で流されているため、沿岸へ行って支援がしたいと言う私の気持ちを尊重してくれた。
情報収集に行くのではなく、支援者として行く。そのことを肝に命じた。リュックは、職場の部下やデイケアメンバー(当事者)から預かった支援物資でいっぱいになった。【つづく=3回に分けて掲載します】