かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2021.9.17 update.
村上靖彦(むらかみ・やすひこ)
1970年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程満期退学。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。専門は現象学的な質的研究。著書に『自閉症の現象学』(勁草書房、2008)、『治癒の現象学』(講談社選書メチエ、2011)、『傷と再生の現象学』(青土社、2011)、『摘便とお花見』(医学書院、2013)、『仙人と妄想デートする』(人文書院、2016)、『母親の孤独から回復する』(講談社選書メチエ、2017)、『在宅無限大』(医学書院、2018)、『子どもたちがつくる町』(世界思想社、2021)、『交わらないリズム』(青土社、2021)など多数。
宮地尚子(みやじ・なおこ)
一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻・教授。精神科医、医学博士。1986年京都府立医科大学医学部卒業、1993年同大学大学院医学研究科修了。1989~1992年、ハーバード大学医学部社会医学教室および法学部人権講座に客員研究員として留学。1993年より近畿大学医学部衛生学教室勤務、2001年より一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻・助教授を経て、2006年より現職。専門は文化精神医学、医療人類学、トラウマとジェンダー。著書に、『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房、2005/新装版2019)、『トラウマ』(岩波新書、2013)、『トラウマにふれる』(金剛出版、2020)など多数。
2021年8月19日、東京・代官山 蔦屋書店にて、村上靖彦著『ケアとは何か』(中公新書)と宮地尚子著『環状島へようこそ』(日本評論社)の刊行記念オンライン・トークイベントが行われました。
ケアをめぐって、かつてない新しい論点が頻出したこのトーク。当「かんかん!」が再構成をして、前編《違う道からケアに近づく》と後編《ケアの焦点は「時間」》の2回に分けて掲載します。緊張感のなかにも温かい交流が感じられるおふたりのやりとりをお楽しみください。
(トーク掲載を快くご了承いただいた代官山 蔦屋書店様に深謝申し上げます🙇)。
1 画期的な自前の理論――「環状島」
2 メタファーで考える――海、空、陸
3 証人としての著者――『ケアとは何か』
4 共感と何が違うのか――現象学への疑問
5 自分をどこに置くか――ジェンダーと巻き込まれ
6 待つ力が試される
村上■「時間」というテーマがだんだんと宮地さんのなかで際立ち始めているような気がするんですが、いかがですか。しかもいろんなレベルで問題になっているのかなって。
宮地●そうですね。村上さんの『交わらないリズム』(青土社)も時間の話ですよね。私も去年、共同通信で配信した12回のエッセイの連載で、「ずれる」や「逸(そ)れる」や「ゆれる」といった、いろんな“れる”がつく、でも受身や尊敬ではない言葉を使って書いたんです。身体や感情は人によってリズムが違うから、タイミングがとっても大事です。さっき「インタビューでは待たなきゃいけない」と話されましたけど、「待つ」ってすごく体力がいるんですよね。
村上■そうですよね。
宮地●待てなかったり、沈黙に耐えられない、間が持たないと、聞き手がつい喋っちゃって、本来ならそのあとに出て来るはずのものを聞けないということは非常に多いですね。
あと、人が人と一緒にいるときってリズムが違っていて、どっちかがどっちかに合わせなきゃいけなかったりするわけです。どっちが合わせるかによって、力関係が変わっていく。一緒にいて安心ができる人っていうのは、自分のことを焦らせもしないし、かといって、待たせすぎもしないみたいな。
その連載のエッセイにも書いたんですけど、「包容力」という言葉は空間的に理解されがちなんだけど、実は「包容力」っていうのは相手を待てる力だったり、なんとなく相手をうながしたりする力だったりするんですよ。時間をうまく相手と合わせつつ、つきあう力。それがいちばんよく表れるのは、危機的な状況のときです。
村上■危機的というのは。
宮地●たとえば家族が行方不明の状態にある方と寄り添っているときなどですね。その方は、早く新しい知らせが欲しいと焦りつつ、でも、いつどんな知らせが来るかわからない状態でずっと待たせられ続ける、とってもじれったい状況にあります。そういう時間にサイコロジカル・ファースト・エイドの人は寄り添うわけです。そういうじれてる人のそばにいて、ちょっとでも落ち着かせるというか、待つ時間をなんとか耐えられるようなものにする。「焦っちゃいけません」と言ったって、じれるのは仕方がないじゃないですか。そういう人と一緒にいられる能力とか、その人のテンポをちょっとだけ楽なように戻してあげるとか、そういうこともたぶん、人間と人間のあいだの調律としてあるのだろうなぁと思います。
村上■今、宮地さんからお話しいただいた部分って、僕自身の今の関心とすごく重なります。一つは僕の場合だと人間関係もポリリズム、つまりリズムがずれたり合ったりずれたり合ったりっていう形でずっと見えていたので。だから医療現場もそういうふうに見えてくる。
タイミングって、なにか変化する時なのかなって思うんです。いままでの複数の人のあいだのリズムの取り方が、あるタイミングをきっかけにしてガラッと変わるような瞬間というのがたぶんあって、医療とか福祉の場所にいるとそういうものに出会うことがあるんです。そこはすごく僕も面白いなぁと思っています。
複数の人とのあいだと同時に、自分自身一人ひとりのなかにいろんなリズムがまずありますね。これは中井久夫先生がされてたことだと思うんですけど、自分のなかに生理的なリズムから、友人関係のリズムだったり、家族関係のリズムだったりとか、お仕事のリズムだったりとか、いろんなものが重なり合って、それがうまくいったりうまくいかなかったりする。それが人間なんだっていう感覚が中井先生にはあったんだろうなと思います。
宮地尚子さん
7 時間を支配される
宮地●あとね、身体的な暴力はなかったけどモラハラというか、精神的なDVを受けた被害者の方が言ってたこと、それがすごい印象に残っているんですね。その人は夫から「あなたは空気みたいな人だから」って言われたと。
でもその女性が空気のような存在であるためにどれだけ自分を犠牲にしてきたのか。そしてそのことに、モラハラ夫のほうは気づいてないわけですよね。その女性が空気であることが当然のように何十年もやってきた。でも、彼女は、相手にとっての空気になるのがもう無理だと思って離れようとした。そのときに初めてそういう言葉が出てきたわけです。夫からすると妻が空気であることは当然であって、それは要するに夫が自分のタイミングでやりたいようにやっていて、それにすべて彼女が合わせていた。彼女のリズムはまったく尊重されてなかったっていうことなんです。
DVについては、加害者が家の中のほとんどの場所を仕切ってるという空間的な理解もできるんだけど、誰が時間を支配しているのかっていう意味でも捉えられる。「何かが苦しいんだけど何が苦しいのかわからない」っていうときに、結構自分の時間が支配されていることが多いんです。たとえば、携帯でメッセージ送ったら、即返を常に要求されていたりとかね。それもある種の時間の支配じゃないですか。そういう意味でも、時間についてあらためて考える必要がありますね。
でも時間についてあんまり良い理論がないというか、特に臨床に関して、時間について明示的に書いているものって、あんまりない感じがします。それこそ中井久夫さんや木村敏さんが書いているのはあるんだけど、もうちょっと身近に使いやすいものがあるといいなぁと。
村上■DVで、片方の人のリズムが消えちゃうっていうのは僕はまったく知らなかった。そういうこともあるんだなって……。リズムってずれるだけじゃなくて、片方がなくっちゃうまでに不均衡になることもあるっていうのは知りませんでした。
8 「逸れる」の時空間
宮地●時間の問題から、それこそ「ずれる」んだけど(笑)、さっき言ったエッセイ連載のなかで「逸れる」っていうのも書いたんですよ。回避することについて。タブー領域のテーマについては、逸れるじゃないですか。みんなその話はしないで、話題が出かけてもスルーして、気が付いたら逸れてる。
そのなかで「斥力」って言葉を初めて使ったんです。読み方さえも、食パンの一斤、二斤と字が似てるから、「キンリョクだっけ?」とか思いながら。でも排斥の斥だからセキリョクなんだと気づいて、覚えました。村上さんも「斥力」のことをどこかで書いてましたよね。
村上■書いてますかね。自分で記憶がないけど(笑)
*(『ケアとは何か』第四章「「死や逆境に向き合う」144頁にありました)
宮地●どこかに書いてあって、面白いなと思ったんですよね。「大変な出来事でした」と語ることがトラウマだと思われてるけど、ほとんどの場合は避けて通られるところにこそトラウマがある。だから、どう斥力がはたらいてるかっていうことをきちんと見られるようになるのがとても大事なんじゃないかって思っています。斥力というキーワードを見つけられたことはよかったと思います。それと時間論をどう結び付けられるかはちょっとまだわからないけれど……。基本的に「逸れる」ってやっぱり空間的なものだとは思うんですが。
村上■なんか時空間が一体になってますよね。要するに三次元空間でもないし、時計の時間でもない。空間的なイメージとしては「逸れる」けれども、時間的なイメージでは「ずれる」っていうふうに言える場面もきっとありそうです。なにかそういう三次元とか物理学的な時空間とは違った時空間なんでしょうね。
宮地●う~ん、そっかぁ。やっぱりまた別なのかな。症状としては「回避」と言うんだけど、でもそうやって回避することによって、なんとかそのときをやり過ごして生き延びることは、人生のなかでとても重要な手段だと思うんですよね。そんなにみんな真正面からぶつかってはいかない。逸れられるところは逸れて、避けて生きていくことが多いと思います。そのことと、時間をやり過ごす、しのぐということとの関係も私は見ていきたいですね。
時間に対してはたくさんの関心があって、先ほどの「焦(じ)れる」「焦(あせ)る」もそのひとつですけど、もうひとつ、患者さんが、「今のこの時間がもうどうしようもなく耐えがたい」というときに、自傷などをしないで――まぁ死ななかったら自傷でもいいんですけど――どうやってその時間を「やり過ごしてもらうか」がとても大事なテーマです。なんとかしのげたら、その後はけっこうケロっとしていることがあるので。とにかく今日もったら明日はまた気持ちが変わるかもしれない。
村上■過ぎ越す……
宮地●しのぐとか、やり過ごす。
村上■いま、全然関係ないこと思い出したんですけど、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りってありますね。出エジプトをお祝いする祭りですよね。神が過ぎ越すになるのかな、ユダヤの人たちの場合は。ちょっと全然関係ないですけど、レヴィナスのことを思い出しちゃいました【注1】。
過ぎるって、何かが過ぎるんですけど、何が過ぎるかわからないですよ。時間をやり過ごすんだけれども……何が過ぎるんでしょうね【注2】。
宮地●そのときはものすごく視野狭窄に陥って、もうそのことしか考えられなくて、どこにも逃げ場がないと思っていたのに、次の日「あれ、なんだったんだろう」と思えることも多い。今、ひどい恐怖に襲われていて、その恐怖に襲われている状態をなんとかやり過ごして――寝逃げでもいいんですけど――なんとかしてその時間をやり過ごしてみたら、次の日はケロっとしているとか。あと「ぎゃ~」って泣いてわめいている子どもの注意をほかに向けさせることで、すっと落ち着くことがあったり、カッとなって暴力行為をしている人をなんとかなだめるなど、いろんな場面が想定されます。
村上■考えてなかったテーマでした。でもたしかにありますね。
宮地●そのときはもう、みんなが場に巻き込まれてしまっていて、圧倒されるんだけど、それをやり過ごせたら、ふっと我に返って「あれ、なんだったんだろうね」みたいなのってあると思うんですよね。
初心者だと慌てちゃって「どうしようどうしよう」となるときに、ベテランの人はそこをうまくやり過ごせる。たとえば誰かが感情を爆発させて大騒ぎになるんだけど、他のことに気を向かせたり、ちょっと休ませたり、何らかの手段によってその時間をやり過ごせたら危機を脱出できることは多い感じがします。たぶん西成でもよく起きてることじゃないかと。
村上■そうですね、いっぱい起きてますよね。大変な場面がたくさんありますもんね【注3】。
村上靖彦さん(右ですよ)
9 カントとレヴィナスはどこにいたか
宮地●爆発はポリリズムで言うと、どうなるのかな。
村上■なにか凝縮しちゃってる感じがしますね。ポリリズムがブラックホールに全部吸い込まれるような感じですね。爆発のときって、リズムが複数は成立しえないような状況なので。その人にとってはもうそれだけ、場がそれだけになっちゃうと思います。
宮地●そうですね。
村上■そういう凝集の瞬間っていうのがあって、それをやり過ごすには、なにか質的にまったく違った時間が助けになる。
宮地●でも、もう圧倒されるしかないときもありますよね。環状島の内海で地底火山が爆発したらそれに圧倒されるしかないし、津波や地震が起きたら、そのときはそれに飲み込まれるしかない。
村上■それは生き延びることはできるんですか。
宮地●どこにいるかによりますね。
村上■いま、カントを思い出したんですけど。カントの崇高論だと、もしも安全な場所にいさえすれば、今のような場面も崇高として受け止めることができて、道徳法則を発見できるって言うんですね。だから安全な場所がないと飲み込まれちゃって、それこそカントはパニックに陥ると言う。それが未開の人たち、キリスト教を持っていない人たちなんだって言うんですけれども……どうなんだろう。
宮地●カントは飲み込まれた人についても語っているんでしょうか。
村上■カントは語っていません。理性に対する信頼があったからだと思います。逆にショアーを経験したレヴィナスは語っています。レヴィナスは両親やきょうだいがナチスによって殺されているサバイバーズ・ギルト(生還者の罪悪感)の人で、それをずっと引きずっている人です。だからそれを語ろうとしたんだと思っています。
宮地●そこ、なんか言語化していただけると……。
村上■えぇぇぇ、いまのはすごく考えたこともなかったんですけど、大きなテーマですね。
宮地●ねぇ、過ぎ越しの……。
村上■過ぎ越しの祭りって、でもそういうことなのかなって。それこそ神さまが過ぎ越すことで、なんとか生き延びるっていうことだと思うので。
宮地●pass overですよね。
村上■えぇ、pass overですねぇ。生き延びたことをお祝いするということなんだと思うので。
宮地●生き延びることだけがいいのかどうかわからないのですけどね。とにかく生き延びよう、とりあえずは生き延びなきゃね、みたいについまとめてしがいがちなんですけど……。こんな話になるとは思いませんでした(笑)。
村上■まったく予想してなかった……。ありがとうございます。
■質問1――トラウマの時間
――心理職として、病院で働いているものです。トラウマのある方があるとき、そのときから時間が止まってしまっていると述べられたのが非常に印象的でした。周りの時間は流れているのに自分だけはそのまま、とも述べられ、時間性ということと、人とのつながり、孤独感ということのつながりも感じました。
村上■一言だけいいですか。レヴィナスのことをずっと忘れていたんですけど、今日は思い出しました。彼は1906年に生まれて1995年に死んでいます。倫理の哲学者とよく言われるんですが、リトアニア出身で、両親やきょうだいがナチスによって銃殺されています。ところが、戦争や暴力について彼はずっと書かなかったんですね、戦後ずっと。最初に書いたのが1966年のテキストで、戦争が終わってから20年が経っている。そのなかで、「あのとき以来、時間が止まってる」と書いてるんです。時間のなかに腫瘍=癌ができている、と。小さいテキストなんですけど、それを書いたあとから、トラウマの話をしはじめるんですよね。
彼の後期に『存在するとは別の仕方で〔講談社版は『存在の彼方』〕』(1974)という主著があるんですけど、そのなかで哲学のタームとして心的外傷という言葉と、あとは内臓という言葉――フランス語で内臓と子宮って同じ言葉です――あと迫害っていう言葉、そういう言葉がタームになってほとんど同義語として使われるんですね。そのきっかけになるのが「名前無しに〔旗なき栄誉〕」っていう1966年のテキストでした……っていうのを思い出しました(『固有名』所収)。それだけです、すいません。宮地さんがちゃんとしたお答えをすると思います。
宮地●ちゃんとはできないけど(笑)。トラウマ的な出来事で時間が止まるとか、そのときから自分が2つの時間を生きている――ひとつは他の人たちと一緒に流れていく時間で、もうひとつはそのときに留まったままの時間――と言われます。なにかのきっかけで、それこそ時間をおいて、その出来事にもう1回取り組んで、だんだんまた時計が動き始めたということはよくあります。すごく単純化すれば、トラウマ的な出来事で時間がそこで留まり続けるっていうようなことはとても多いだろうなと思います。
あとは、どうなんでしょうね。さっきの爆発の話とかも、他の人には爆発起きてないけど、自分だけに爆発が起きていて、そのことを誰とも共有できないときも、時間感覚っていうのは……。
村上■爆発のなかで時間はなくないですか。
宮地●ないでしょうね。というか、止まらざるをえない。原爆でも、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、その時間で止まった時計というのは写真としても現れるけど、現実の人々の心のなかでもやっぱりそういうことは起きていることが多い。もう1回時間が動き始めるようにするにはどうすればいいか考えなきゃいけない。
村上さんの言い方で言うとポリリズム――自分のなかにあるポリリズムがどうしようもなく共調できないぐらいのずれが起きちゃってる場合もあるし、周りの人と自分とのあいだでずれが起きている場合もある。そういう時間的な感覚そのものにずれがあるんだということを誰かがちゃんとわかって、その人に伝えられると、それだけでもだいぶ救いかもしれないですね。
そういう時間のずれがあることさえ、みんな認識してないかもしれない。別にトラウマ的な時間だけじゃなくても、家族のなかの誰かが危篤状態にあって何週間か過ごさないといけないようなときも、その人にとっての時間感覚と、周りの人では全然違いますよね。
研究者のあいだでも、研究対象によって、歴史学をやってる人と現代政治学をやってる人では、時間の感覚が違っています。“いま現在”という時間そのものについての捉え方も非常に違ってるなぁって感じることがありますね。
村上■それはそうですね。
宮地●あとやっぱり子どもですよね。子どもは目に見えて成長していくから、コロナ禍で1年半会っていないと、その1年半という時間が身長の変化として、もろにあらわれるし、子どもと大人では時間感覚がまったく違うでしょうね。
■質問2――時間の濃淡
――おふたりは、時間の濃淡についてはどのように捉えていらっしゃいますか?
宮地●ちょっと濃淡の話をする前に、思い出したことを言いますね。なぜ時間が気になるかというと、臨床現場って本当に時間が勝負だったりします。精神科の場合はそれほど緊急はないけど、産婦人科なんて5分であっという間に赤ちゃんが死にそうになったり、お母さんが出血多量で死にそうになったりする。その5分はとても濃厚であり、運命を変えるクリティカルなものであり、ものすごく焦らなきゃいけないわけですよね。これは質問された方の言う濃淡とは別のものかもしれないけど。
村上■僕も助産師さんのインタビューを取ってたときに、それこそ出産の瞬間、あるいは陣痛が来て出産するその瞬間の時間の、それこそ濃度と強度の高さを聞くことはありますね。まさに濃度ですよね。あとクリティカルな場面の濃度もだし、子どもが生まれる、赤ちゃんが誕生するってその場面の濃度もあった。これは生命の濃度なんだと思うんです。
宮地●同時にね、そういう5分が得意な医療従事者もいるし、それが苦手な人もいる。間延びしている時間が苦手な人というのもいるんですよね。慢性疾患より、急性疾患の対応が得意な人や、緊急対応の方が楽だという人もいます。必ずしも、運命が分かれるような、濃度の高い5分だけが大切だとも限らない。
「律速(りっそく)段階」という言葉があるんです。自律の「律」に速度の「速」です。化学反応全体にかかる時間を決める段階の話ですが、変化がとても速く起きているときじゃなくて、ダラダラと変化が起きているときのほうが全体の時間を決めるんですよ。
村上■へぇぇぇぇ。
宮地●説明うまくできているかなぁ、劇的に変化が起きているところで全体の時間が決まるように思われるけど、別に30秒で起きる変化が10秒でおきても20秒しか変わらないですよね。でも30分で起きる変化が50分に延びたら、全体としては20分違う。30分のところが29分40秒になるだけか、50分になるか。あまり知られていないけど、律速段階という捉え方って大事だなぁと思っていて。どう大事かをここでうまく説明はできないんだけど(笑)。
村上■なんか、基本的なリズムがあるってことですかね。すごい雑な言い方ですけど……。
宮地●濃淡でいうと、濃度の濃い部分のほうがみんな大事だと思いがちだけど、実は淡のほうが全体としては大事かもしれない、という話かな、無理やり単純化すると。非日常も大事なんだけど、実はダラダラしている日常のほうを大切にしたほうがいいというふうな言い方もできるし。
村上■いやぁ、思いがけない方向にいきましたね、打ち合わせとも全然違う話で、すごい楽しかったです。考えたこともないことを考えるきっかけをいただきました。
宮地●対談って、初め話そうとしていた方向と全然違うところに行くのが醍醐味でもあるので、とても楽しかったです。今後の課題もたくさん出てきましたね。なんらかの形で次につなげられたらと思っています。
【注1】「過ぎ越しの祭」はユダヤ教においてエジプト脱出を祝う祭。エジプトで奴隷として囚われていたユダヤ人が解放されて自由になったことを祝う。時期的にはキリスト教の復活祭(イースター)と重なる。
ユダヤ教では過ぎ越しの祭だけでなく日々の典礼のなかで、この隷属状態からの解放が想起され、民族のアイデンティティを確認する。過ぎ越しはこの民族の解放の記憶という始原の出来事のことである。
しかしレヴィナスは『諸国民の時に』(合田正人訳、法政大学出版局、1993)に収められた「思い出を越えて」というタルムード講話のなかで、ショアー〔ホロコースト〕は解放の記憶を無効にしたと論じている。それゆえ破壊的な外傷を経過したときには、思い出とは異なる仕方で世界を構想し直す必要があると考えることになる(彼の倫理はこの文脈のなかに位置づけられる)。宮地さんとの対談では、心的外傷の記憶と過ぎ越しの祭を結びつけてしまったが、レヴィナスの論旨は少し異なった。
【注2】『存在の彼方』のレヴィナスにおいて、自己は「他者から取り憑かれ、他者の身代わりになる者」という定義になる。それゆえ「外傷」が自己の定義そのものになる。ところで他者から取り憑かれるという出来事は、無限(神)が過ぎ越すことそのものなのだ(「過ぎ越し」のもう一つの意味、より深い意味がここに登場する)。しかし他者による取り憑きを通してしか神は過ぎ越さないので、神の姿が見えることはない。結局のところ何が過ぎ越したのかは分からない。ともあれ、対人関係が起きてしまうこと、これが第2の(レヴィナス的な意味での)過ぎ越しなのだ。
【注3】宮地さんが恐怖や爆発を「やり過ごす」と呼んだ出来事は、複雑な仕方で、レヴィナスと接続するのだろう。
後期のレヴィナスは、外傷体験の「目眩」に囚われることそのもののなかに主体の個体化を読み取ろうとする。外傷をやり過ごすこと、突き抜けることが主体の成立の契機でもあるのだが、そのとき主体の生成のなかに過ぎ越すのが無限=神なのだ。もしも無限=神が過ぎ越さなかったとしたら、主体は外傷体験の目眩のなかに、すなわち「あるil y a」のなかに融解することになる(『存在の彼方』第5章)。
(了)
★村上靖彦さんと宮地尚子さんのトークは好評につき、この続きが予定されています。
↓
【オンライン配信(Zoom)】村上靖彦×宮地尚子トークイベント「リズムにふれる」
村上靖彦『交わらないリズム』(青土社) 、宮地尚子『トラウマにふれる』(金剛出版)・『治療文化の考古学(臨床心理学増刊第13号)』刊行記念
https://store.tsite.jp/daikanyama/event/humanities/22083-1056520904.html
「普通に死ぬ」を再発明する。
病院によって大きく変えられた「死」は、いま再びその姿を変えている。現在の在宅死は、かつてあった看取りの文化を復活させたものではない。
先端医療が組み込まれた「家」という未曾有の環境のなかで、訪問看護師たちが地道に「再発明」したものである。
著者は並外れた知的肺活量で、訪問看護師の語りを生け捕りにし、看護が本来持っているポテンシャルを言語化する。
「看護がここにある」と確かに思える1冊。