かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2020.9.24 update.
◎NGO世界の医療団・理事・精神科医。世界の医療団など6つの非営利組織の活動に従事しつつ、民間精 神科クリニック(みどりの杜)で医師として働く。旅が好き。
オープンダイアローグの中でとても大事にされているネットワークミーティング(NM)、またはトリートメントミーティング(TM)。精神面で困難をかかえる人と、その家族やネットワークにある人たちを一緒の同じ場に招いて、対話のトレーニングを受けた専門家たちが2名以上いて、その輪の中で本人たちの話を対話的に聴きます。
その場にいる全員は話したいことを話せているだろうか、自分が思っていることと話していることは一致しているだろうかというようなことを気にしながら、同時に専門職たちも対話が促進されることを願いながら、自分たちがどう思ったのかを対話的に話す時間も作ります。
ところでTMやNMなど呼ばれている名前がいろいろあるわけですが、現地のトレーナーたちに正式名称をきくと、「いろいろな呼ばれ方をしている」とか「TMはもともと別の所で存在していた名前」などと回答が返ってきます。輪になって話すことのその名前は決まったものがなく、集まった人たちによって変わるようです。
その輪の中には対話を理解していくための要素がたくさん詰まっていて、まるで宝箱です。その輪には、聴くことと話すことをしっかりと分けるとか、話す安全を確保するにはどうしたらいいかとか、言葉にできたことと考えていることは必ずしも一致できていないとか、1人1人が他者であって尊重されるとか、ヒエラルキーを存在させないようにしていくことや水平の関係性を作るにはどうしたらいいかとか、対話的になるための装置としてものすごい何かがあり、その意味合いからは、私はそれをあえて「対話装置」と名付けています。オープンダイアローグの考え方に基づいた対話装置がNMなどと名付けられているという理解の仕方です。こう理解するとケロプダス病院のやろうとしていることが見えやすくなる気がします。
この輪になって話すスタイルはオープンダイアローグの創始者たちが生み出したものかというと、そういうわけではありません。人類が誕生し、それぞれの争いが起こる中で、互いが対等であろうとし、互いに理解し合おうとした時に、人類は輪になって話し始めたようです。1人1人が尊重される場として。
私が好きな研究の1つに岡檀さんの自殺希少地域についてのものがあります。その最初の地でもあった徳島県旧海部町には、朋輩組という困難なことが起こった時に対話する組織があります。私はこれもその地域に存在する対話装置だと思うわけです。
オープンダイアローグにおいては、何か苦しいことがあったならば、まずは何が苦しいのかどうして苦しいのか、関係する人たちは何を思っているか、そこにどんな誤解や解釈があるのか、どうしたら理解し合えるのか、そういう人の営みをまずはやってみる。その当り前な、そういう機会が失われてしまっている社会において、ケロプダス病院は人類にとって大切な対話装置を精神医療の文脈で作ってみたということになるのだと思います。
困難な状況に直面した人たちが、対話装置という安全に対話ができる場で対話をしていくことで何が起こるのか。それは、その対話装置から出た後も、日常の中で互いの関係性の中で対話ができるようになっていくということ。
例えば、子どもが精神的な困難に直面し、親御さんは子どものことを何でもわかっていると思いこんでいる状況で病院に相談があるようなこともあります。輪になって話してみると、子どもが話すことと親御さんが理解していたことにズレがあることがわかったりします。
親御さんは子どものことを理解しきっていると思っていたから子どもの話を聴こうとはしていなかったか、あるいは聴いているつもりでいた。。何かを言ってあげようと思って話を聴くことはあっても子どもの考えを理解するために聴くことはなかったのが、安全に守られた対話の場で対話したことで、親御さんは自分たちが子どもの考えていることを理解していなかった、理解し切ることはできないのだということを理解し、その理解を通して、家庭では子どもの考えを理解しようとして聴こうとするようになる。
子どもにとっては自分の考えが勝手に決めつけられ解釈されていたゆえの理解されない孤独や怒りが軽減されていく。親御さんも自分たちが勝手に解釈してしまったことによって苦しむということがなくなっていく。
これは1つの状況に関する例にすぎませんが、対話装置というのはこのような、困難に直面するその人の周囲で対話が起こることになるという役割となっているようです。こうした変化の中の望まれる結論は、対話装置の中で至らなくてよくて、むしろ対話装置を出た後の家庭や人生の場で対話が続くことが願われています。
幻覚や妄想といったものが対話によって治るのか? という問いがあるとしたら、それは対話という考え方からすると問いが合わないかもしれません。対話というものを通すと、「妄想」は精神面の困難に直面し、その影響で誰とも話せなくなった時の本人なりの事態への解釈であり、幻覚はその時の精神状態によって生じたものだと感じてくるように思います。
だから本人の言葉が理解されるようにして聴かれていくと、独自の解釈の偏りのような強さは軽減されうるし、こころが楽になっていけば幻覚は起こりにくくなっていくというのは自然なことなのだと思います。お薬に関しては、治療のためというよりは、あまりにつらいような時に気持ちが楽になるための少量のものとして必要になるということもあるかもしれないと考えられているようです。
そしてとても困難な人間関係性がそこにあったとしたら、その対話の場を守ることができる、より訓練されたファシリテーターが必要になってくるわけですが、その人たちは相当な力量が求められることになります。
例えば自分は生きている価値がないと思っている人や、例えば宇宙人によって頭の中にチップを埋め込まれたと確信せざるを得ないくらいなところにまで困難な状況に至った人が、再び他者に理解され苦しみが癒されていくということが、その対話の場を通して起こることが期待されているほどの状況下で対話を起こす役割があるからです。
なお、対話によって頭の中のチップがなくなるか否かというような事実の争いのようなものはほとんど必要ないということは付け加えたいと思います。そのような「客観的な事実」みたいなものはいったん脇に置いといて、ただ対話を繰り返すことでその人が再びこの社会において自分自身が存在するための居場所を見つけるかもしれない、そのことによって心の苦悩が軽減するかもしれないというようなことが対話によって起こってくることはあるのだと思います。頭の中にチップを入れられたか否かということは実際は誰にもわからないことでもあります。
ケロプダス病院の対話装置の対話の時間は60分ということで、「診療」と考えるとすごく長いということになるわけですが、困難な人生の中の60分となるととても短いということでもあります。よって、ケロプダス病院のスタッフたちは、60分の対話の後で、苦悩をかかえている人たちの間で対話が続くことを願って対話の場を作っています。人生は、この60分の外で起こっていくという、そのプロセスを信頼しています。(つづく)
自分の所属するスーパーバイズグループの集合写真