かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2018.4.24 update.
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劇作家・演出家・俳優
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1970年生、奈良県出身。早稲田大学在学中の1990年、カムカムミニキーナを旗揚げ。以降劇団の全作品の作・演出を担当。自らも俳優として出演。主な外部公演には、PARCO公演『ラヴ・レターズ』、NODA・MAP『ロープ』、阿佐ヶ谷スパイダース『はたらくおとこ』、ラッパ屋『筋書ナシコ』、劇団3〇〇『ゲゲゲのげ』などがある。2003年には史上最年少で明治座11月公演『三人吉三東青春(さんにんきちざえどのあかつき)』の脚本・演出を手がけるほか、2010年に演出をつとめた青山円形劇場で上演された『叔母との旅』では、新たな演劇的表現を開拓し、読売演劇大賞の優秀作品賞に選ばれるなど、4部門にノミネート。演出家として活躍の場を広げるなか、近年では、上記作品ほか、俳優としても様々な作品に出演を続ける。
國分功一郎著『中動態の世界――意志と責任の考古学』は、当たり前のようでいて、新鮮かつ奥深い論考がスリリングに展開していく大変面白い本だった。自分が携わっている演劇というジャンルに反映させても、「中動態」に関して考えることは、何かきっと、見落とされていた新たな視点の在処を発見させてくれるような気がする。そういう直観から、この書論を書き始めてみたい。
■「役になりきる」考
俳優が役柄を演じる方法について、「役になりきる」という言い方がある。いわゆる名優の優れた演技を指して、この言葉で称賛する場合が多い。舞台上で俳優として、どう歩き、どうしゃべり、どう振る舞うのかを、俳優が彼(もしくは彼女)本人として演技を“構成する”“計算する”というよりも、本人が身体ごと作品世界における役柄そのものと化して、いわば演技を“生み出す”というような演技概念を指す。一つの見方においては、これが自在にできるほど、優れた俳優であるというコンセンサスになっている。
極端な例を出すと、ある健康な俳優が、例えば貧困の時代に生きる、食うや食わずのやせ細った病人を演じなければならないときに、彼(もしくは彼女)は実際に断食し、ガリガリにやせ細り、役と同じように生活し、ときには本当に病気になったりする。これは「役になりきる」ために、わざと似た生活環境をつくることで、自分を役に寄せて誘導していく作戦である。歯を抜いたり、髭を伸ばしたり、住む場所を変えたりするのも同じことだ。また、わざと「役になりきる」場合でなくても、俳優が「役になりきって」、恋する相手役に本当に恋してしまう場合もある。普段はおとなしい俳優が、乱暴者の役を演じているせいで、日常の喋り方や服装が変化する場合もある。
しかしだからといって、俳優が「役になりきる」状態のまま、目覚めてから寝るまで、自宅であろうが、劇場であろうが、電車の中であろうが、飲み屋であろうが、役柄として現実世界をさまようなんてことは当然起こりえない。その俳優は、本人の俳優としての能動的な意志をもって劇場へやってきて、開幕のベルとともに、作品世界の「役になりきる」だけだ。
■能動から受動へ――早すぎる結論
ところで私の経験的な印象だが、演技を始めたばかりの未熟な俳優は、台詞を積極的に言いたがるところがある。そして積極的に動きたがる。台詞をいかにうまく喋り、いかにうまく動き回るか。それこそが演技の実力なのだと思いがちである。言い換えれば、演技というものをきわめて能動的なものだと考えがちである。
彼らは指導者や先輩たちにまずそこを注意されるだろう。その際に、受動的に演技を考えるという視点を初めて教えられる。私自身もそういう段階を経て演技というものを学んでいった実感があるので思うのだが、この受動的な視点での芝居の捉え方というものを一度体感すると、演技観が大きく変わるのだ。これは演技力を深めていく経路として必要な発見段階なのかもしれない。つまり相手の演技に応じて、自分の演技が発生する。あるいは、観客の反応に即して、自分の演技が発生するという考え方である。
これはうまくいったと感じると目からうろこが落ちるような体験である。その瞬間に自分の外部、他人との「つながり」というものを実感する。これが演劇なのだと感激し、演じるということの何らかの結論にたどり着いたかのように思える。
■受動しつづける先
そうなると、次はどこまで舞台上で受動的でいられるかということが、演技力の指標となる。周りで起こっていることに、どこまで純粋に影響を受けることができるか。「芝居は相手役から発する」あるいは「芝居は観客から発する」。いかにもベテランの俳優が若手にアドバイスしそうな言葉である。
この考え方は一見、楽なように思えるかもしれない。確かに基本的に俳優は、自分の外で何かが起こるのを「待つ」だけのようにも思えるからだ。あとはできうる限り純粋な形で受動的に影響さえ受ければ、勝手に自分の演技が発動し、自ずと芝居が進行していく。
しかしこれは、ただ能動的に演技することよりよっぽど難しい。なぜならそんな催眠術にかかった人みたいに、演技という現象がどこか得体のしれない場所から都合よく発生してくるわけではない。あるいはそんなベルトコンベアみたいに、芝居が電力か何かで勝手に動いていくわけではない。つまりその受動的なる度合いには限度がある。芝居には段取りがあり、台詞がある。どんなに「役になりきる」状態でいようが、いかなるタイミングで登場し、どこへ立ち、どちらへ顔を向け、誰に向かって何をしゃべるか、ということは基本的には脚本・演出によって決まっており、その道を辿らなければならない。
極端な例としてたとえそれが即興演劇だったとしても、即興的に振舞うことができる範囲というものは、時間や空間、置かれている状況によって制限されるという意味で同じことである。無制限に何でもありの状況なんてものはありえない。つまり無制限に受動的でいることはできない。作品世界の中で演技をするためには、能動的に段取りや約束事を辿らなければいけない。しかも効果的に、つまり上手にそれを辿る、ということが、俳優には必ず課されるのである。
それでいて、同時に受動的でなくてはいい演劇はできない。そうでなければ、誰の影響も受けず、誰ともつながることができない、一人だけの密室演劇は演劇と言いがたい。
■心地良さの正体
ここまで考えてきて明らかなように、そもそもこの演劇の分析においてズレを生じている原因があるとすれば、演技の中身を能動/受動の区別を使って説明しようとすることである。まさに本書に様々な例を使って書かれている事態である。そしてここに中動態の概念を持ち込むことで、俳優の演技という行為は、比較的簡単に説明される。「演じる」という行為は中動態の範疇にある。
演じているとき、俳優は自分の意志やプランの力でのみ、自分の演技を進行させているのではない。また何かの力、例えば台本や演出、相手役の演技、観客の期待、反応などによって、人形のように操られているというわけでもない。そのどちらでもあり、また同時に、どちらでもないような状態が、演じている時間には流れる。
たとえて言うなら、流れている川に、その流れに乗りたくて飛び込み、身体は流れに任せて、それでいて同時に、その流れの中を何かに向かって泳いでいるような状態である。その格別な心地よさの正体は、川の流れとの一体感、その流れの力が加わることで体感する自分だけでは得られない推進力、その推進力がもたらす解放感、日常重力からのしなやかな逸脱……。能動でも受動でもない、中動態で表されうる、この演じているという状態は、一般にイメージされるよりもずっと“自由”を感じうるものだ。
■観る態について
さて、ではもう一方の極にある観客にとって、演劇を観るという行為はどうか。
観客が能動的に観る芝居を選んで、劇場に足を運んで、チケットを買って舞台を観る。面白くなければ途中で席を立っても誰にも文句は言われない。なぜならそれはその観客が自分の意志で能動的に選んだ舞台だから。自分に責任があるのだから、その行動は他人(舞台側の立場の人間)に問われることはないし、その観客側から舞台に対して文句を言う筋合いもない。その芝居がつまらなければ、その芝居を選んだ自分が悪いのだ。
しかし現実には、つまらない芝居に対して「金を返せ」なんて声がしばしば飛んでくる。最近は「時間を返せ」という声も多い。こういう声が出るときの観客の、舞台側への捉え方はきわめて受動的である。金と時間を払ったのだから、当然面白いものを見せられるべきであるというのが彼らの考え方である。自らの意志で作品を見世物興行にしている舞台側にはそういう責任がある、というように。
しかし、面白さなんてものは当然、定まったものではない。ここが電化製品や食べ物とは違うところだ。便利度合いや味といったものと比べて、面白さという価値観の幅は広い。したがって当然舞台側は、金も時間も返さない。能動的な責任は観客にあるのだからと彼らは考える。ここに芸能芸術の経済的難しさがある。
しかしここでもまた、能動と受動という区別の議論の立て方に問題がある。演劇を観るという行為、演技を観られるという行為は、その区別自体が能動/受動の図式に合わせて当てはめられているだけで、実のところは一つの「演劇」という中動態の範疇の行為なのである。それは観る、観られるという区別を越えて、同じ場所で、両者自他一体に影響し合いながら進んでいく中動態的な現象なのだ。だからこそ責任の所在が曖昧になる。先に述べた経済上の難しさはここから発生するのだろう。
■面倒くささと自由の実感
このご時世、経済的な難しさを孕んだ中動態的現象――演劇すなわち舞台芸術――は、より責任の所在がはっきりとしたその他の娯楽に比して、勢いとしては押されるばかりである。大量消費に乗るかどうかという価値観に、資本も人も集中する度合いが高まるばかりのこの国において、それは時代遅れとばかりに取り残され、その能動/受動的な意志と責任の在処の曖昧さという特徴ゆえに、面倒くさがられる傾向にあるのは間違いない。これはまるで、昔の言語から中動態的な考え方が失われていき、能動と受動の色分けが世界を覆っていくという、本書に書かれた歴史そのもののようである。
しかし、それでもこの舞台芸術の魅力に取り憑かれて、経済的成功や日常的幸福とやらを犠牲にしても、この分野にこだわる人が今でも後を絶たない。それは、この「演劇」という行為の本質が、中動態的な範疇に含まれる行為であることと、少なからず関係しているのではないかと思われる。
中動態的な認識の仕方が世界から失われつつあるという状況に対して、すなわち、何から何まで能動/受動の図式の中で責任の所在をクリアにすべきだという考え方がほぼ常識となっている事態に対して、直観的に危機感を持っている人が少なからずいるということだ。そこにおいて、一見責任を裏付けるものとして、よりクリアに整理されているかにみえる意志は、かりそめの図式が見せる幻影にすぎない。実は中動態的な認識の内側においてのみ、初めて意識され、初めて立ち昇る、本物の意志というものがある。そして、その存在を実感として感じとっている人が少なからずいるということだ。その中動態の内における意志こそ、「自由」と感じる人々が。
■自由の奪還
能動とも受動ともつき難い因果の繋がりの内側で、ままならぬ流動に身を任せる私達が、その前提において、瞬間瞬間に下しつづける決断。大きな受動的状況の中で、その状況だからこそ不断に生起する能動的な選択。その同時進行、両論併記的な中動態状況の中でしか生まれえない、人間能力の常識的限界からの解放感。自由の実感。大袈裟を承知で言うならば、演劇への憧れを絶ちがたい人々というのは、この、自由の実感への渇望を絶ち難い人々なのである。
私は演劇に携わる一人の人間として、優れた演劇を観る行為が、その実感を取り戻す契機になりうると信じている。そして本書を繰り返し読み、中動態という、人間がそもそも持っていた、いわば“謙虚”な世界認識を、自分なりにイメージし、身体の中に取り込むことが、この自由の実感の奪還戦において心強い稽古になるとこれまた強く信じている。
(松村武「演劇における中動態の世界――演じるという態」了)
カムカムミニキーナ vol.66 「蝶つがい」
作・演出 松村武
・5.17~27 座・高円寺1
・6.2~3 近鉄アート館
公演特設サイトhttp://www.3297.jp/tyo-tsugai/
カムカムミニキーナ劇団オフィシャルサイトhttp://www.3297.jp/
――だが、「能動」と「受動」の区別の不適切さを強調してきたわれわれとしては、(中略)これらの言葉を言い換えたいという気持ちを抑えることは難しい。
実のところ、スピノザ哲学にはそれらを言い換える別の言葉がある。
――スピノザが追い求めてきたもの、すなわち「自由」であり、その自由の対義語としての「強制」に他ならない。
著者による《する》《される》の外側への欲求は、ジャンルを超え人々を惹きつけてやまない。色分けばかりの世界に疲弊しているすべての人へ本書を。