かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2017.8.30 update.
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。
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1979年東京都生まれ。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学 3年次より文系に転向。
2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員などを経て2013年より現職。
研究のかたわら、アート作品の制作にもたずさわる。
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著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)など。
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現在、雑誌『看護教育』(医学書院)にて、吃音の不思議に迫る「リズムとからだ─「うまくいく」と「うまくいかない」の謎」を連載中。
1 世界に対してできる作用
15 年ほど前に、初めてバリ島のウブドという村を訪れた時のこと。薄靄の中で目が覚めた私は一瞬、国立競技場のピッチのど真ん中、しかもサッカー W 杯の決勝戦がまさに行われているピッチのど真ん中に自分が横たわっているのではないかと錯覚した。満員の観客席から湧き上がる歓声にも似た、地鳴りのような生き物たちの大合唱が、夜明けのウブドを包んでいたのである。
ホテルといっても壁のない部屋で私は、天井から吊られた蚊帳の中でじっと横になったまま、ジャングルのあらゆる葉の陰、あらゆる石の下、あらゆる水の辺に生き物がいて、それら一匹一匹が自分に可能な方法で音を出し、満足し、また沈黙に帰っていく様子に、じっと耳を澄ませていた。
(著者撮影)
虫もいたし鳥もいたしトッケイという鳴くヤモリもいた。面白いのは、この大合唱には時間的に移ろう「模様」のようなもの、パターンの変化のようなものがあったことだ。もちろん楽譜はないが、かといってただのカオスでもない。右の藪からある種類の虫の声がわーっと聞こえてきたかと思えば、今度は奥の田んぼから別の種類の虫が一斉に声をあげ、その音の層に穴を開けるようにトッケイが鳴き始め、その違和を埋めるようにして樹冠で鳥たちが鳴き出す。
そんな具合に、ゆるやかな構造が生まれては消え、消えてはまた生まれながら、生き物たちの大合唱は日が昇るまで続いたのである。
「あいつが声を出したからオレも返事しよう」とか、「隣の田んぼの住人には負けたくない」とか、生き物たちが思っていたかどうかは知らない。知らないが、明らかに同調する動きや、逆に打ち消そうとする動きがあり、その「模様」に聴き入りながら、人間の営みと言われているものも、じつは同じようなものなんだろうな、と思っていた。
私たちが世界に対してできる作用はただ 2 つ、「同調(YES)」と「違和(NO)」だけだ。生起しつつある運動の流れに、身を任せるないし加速させるか、それとも異質なものを付け加えるか。コマンドはこの 2 つしかないけれど、エージェントの数が多いからきわめて複雑な、相互に干渉しあうネットワークが生まれる。それが社会なのではないか、と。
2 いつも“意志”して行動してる?
■「能動か受動か」では分けられないこと
國分功一郎『中動態の世界』は、「中動態」というインド=ヨーロッパ語族の失われた文法カテゴリーを発掘しながらも、いわゆる言語学の領域を超えて、世界の新しい見方、つまり「中動態的な見方」を教えてくれる哲学の本である。文法カテゴリーとしての中動態は、「意志」概念の誕生と共に衰退した。だから「中動態的な見方」とは、一言でいえば、「意志」の枠組みを外すことによって見えてくる行為や出来事のありようを捉える、ということである。
もとになっているのは本誌『精神看護』に2014 年 1 月号から 11 月号まで連載されていた論考だ。主題的に論じられることはないが、発端になったのは、依存症患者とのかかわりだったという。
アルコールや薬物に依存してしまう人は、まさに「やめようという意志が弱いからやめられないのだ」といった「意志」の枠組みで責任を追及されがちだ。ところが彼らの実感としては、「依存したくないのに依存させられている」だったり、「やめようとすればするほどやめられない」だったり、意志や責任といった概念ではスパッと割り切れないものを抱えている。むしろ、概念のほうに、私たちの心の動きや行為の構造には合わない、不具合があるのではないか。
そのあわいをすくい取るために本書は、そうした概念を支えている言語の仕組みにまで遡り、「中動態」という失われた態を召喚するのである。
中動態は、能動態でも受動態でもない、はたまたその中間でもない、全く別の態である。インド=ヨーロッパ語はある時代まであまねくこの態を持っていたことがわかっており、古典ギリシャ語にもサンスクリット語にも、中動態はふつうに存在する。しかしラテン語では失われている。いまでは能動態と受動態が対のように考えられているが、かつては能動態と中動態の対立があった。受動態は、中動態から派生してその地位を奪い、ついでに相方となる能動態の意味をも書き換えたのである。
能動態と受動態は、行為や出来事を「する」と「される」に二分するシステムである。「する」というと、意志して自発的にやっているようだが、実際の行為や出来事を観察してみれば、話はそんなに単純ではない。「やらざるを得ないからやっている」行為や、「やらされたわけじゃないけど、すすんでやっているわけでもない」行為のような、どっちつかずの例がたくさん存在する。
というか、そんな行為が日常にはむしろありふれている。例えば私が本を拾う時、それは落ちたから仕方なく拾うのであって、どう見ても意志的な行為とは言えない。かといって、拾わないという選択肢もないわけではないのだから、強制とも言えない。そんな「能動か受動か」では割り切れない事態も、中動態ならうまく語れる、というわけだ。
■「意志」があやしい
そもそも「意志」という概念がそうとうあやしい。意志は、〈私〉が〈意志して〉〈行為する〉という形で、行為の起点を「私」の中に置こうとする。しかしそもそも、100%自分発進で始まる行為など存在するだろうか。
私が本を拾う時、その前にまず「本が落ちる」という出来事があったはずだ。本が落ちる手前には「本を机の上に積み上げる」という習慣があったはずで、さらにその前には「読み切れないほどの大量の本を買い込む」という衝動が、その前には「講演会で面白そうな本をたくさん紹介される」という出会いが、さらには「その講演会に行こうと友達に誘われる」という人間関係があったかもしれない。その講演会に行くにしても、たまたまその日に「上司に仕事を褒められて気分がよかった」から何となく行ったのかもしれないし、「同姓同名の小説家が講師だと勘違いして」行ってしまったのかもしれない。
要するにすべての行為は、過去に起こったさまざまな出来事との関係でなされているのであって、決して「私」を絶対的な開始地点として起こっているわけではない。「意志」という仕方で強引に開始地点を確定することは、「無からの創造」と同じくらい無謀なことなのだ。
■意志とは、「過去の切断」である
著者は、哲学者ハンナ・アレントにならって、意志を「過去の切断」と定義する。「責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は、私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私の中に置こうとする」(132 頁)。
確かに、仮にあの本が、「前を歩いている女性のカバンから落ちたもの」であったとしたら、それを拾うことは「女性のもとに返す」という責任を生む。どうも声がかけづらくて、あるいはただ信号が赤になったせいで、その責任が果たせなかったとしたらどうだろう。場合によっては窃盗罪に問われるかもしれない。私は「意志して」その本を拾った人になってしまうのだ。「常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまう」(133 頁)。
意志をこのように時間的な視点からとらえる発想は、とても面白い。過去とのつながりを断ち切ってしまうのだから、意志とはいわば連続性に対する不敬行為ということになる。となると、意志の概念が生まれるより前に使われていたカテゴリー、すなわち中動態が語っていたのは、断ち切られていない時間の感覚、さまざまな出来事が起こり、作用しあい、積み重なって行く、その連続的な流れの中にいる感覚ということになろう。
私が今何かの行為をしているとすれば、それは過去のさまざまな出来事のうちに、すでにきっかけや萌芽が埋め込まれていたのだ。同じように未来に対しても、自分の行為は別の出来事や別の行為、思いもよらない結末の可能性を秘めている。「中動態的な時間感覚」というものがあるとすれば、それはこのような過去から未来へと続く連続性の中にある感覚だ。
■主語が、過程の内にあるか外にあるか
著者の言葉を借りて整理してみよう。
中動態が指し示していたのは、「主語が過程の内部にある」状態だと著者は言う(88 頁)。中動態のみをとっていた動詞、たとえば「できあがる」「惚れ込む」「希望する」などはどれも、生成の過程、感情に突き動かされている過程、未来に期待している過程を表している。逆に能動態のみをとっていた動詞、たとえば「行く」や「食べる」は、「行ってしまう」や「平らげる」といったニュアンスを持ち、主語が完結した過程の外部にいる状態を表していた(88-89 頁)。「中動態と能動態」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」なのだ。
このような「過程の内部」にある連続的な視点に立つ時、初めて「する」という単純な意志の枠組みでは割り切れない行為を表せるようになる。「流れでやることになったけど楽しい行為」や「気づけばやっていたけど狙ったわけじゃない行為」。そんな日常生活にありふれた行為のあり方について、中動態ならば生き生きと語ることができるのだ。
3 日常は、中動態にあふれている
(著者撮影)
さいごに著者の議論を離れて、この中動態的時間感覚にぐーっと身を沈めてみたい。
すると私には、冒頭で述べたあのウブドの夜明けの大合唱が聞こえてくるのだ。いつからともなく始まった大音量の歌ならぬ歌に、あらゆる生き物がその声でもって「同調(YES)」あるいは「違和(NO)」の入力をし続ける時間。その相互作用によって、歌の「模様」が少しずつ変化していき、つんざくような鳥の甲高い一声さえ、ひとつの違和的応答として飲み込まれていく。
もちろん私はあの時は大合唱の外に、つまり中動態ではなく能動態の側に立っていたわけだが、それでも蚊帳の底に横たわって動けないほど、あの分厚いポリフォニーに圧倒されていたことは確かだ。それは、私がふだん東京という大都会で生活していること、つまり仮設された「意志」の世界に生きていることと、おそらく無関係ではあるまい。
■回転寿司のポリフォニー
ふだんは「意志」の言語で生きているとしても、おそらく本質的には、人間の営みもまたあの大合唱のようなものだと思う。「人間の営み」と言うと何だか大げさなのだが、そんな歌は、耳をすませばいたるところに聞き取ることができそうだ。例えば、回転寿司店の店内。
いきなり卑近な例で恐縮だが、回転寿司店の内部は、さまざまな行為や出来事が、飲食店としては異常なほどに可視化された空間だ。それゆえ、相互作用がきわめて「聞き取りやすい」のである。
ポイントはあの同心円状の構造である。中心から順番に、料理人(板前)、コンベア上を回る寿司、客、店員、という多数のエージェントが、帯状に円を成している。全員が中心を向き合う格好になるため、他の客の食事のペースや料理人の忙しさ、やってくる寿司ネタの順番などを、誰もがお互いに察することができるのだ。通常の飲食店では客同士の目線がぶつからないように席の配置が工夫されていることを思えば、これはまさに異例の空間デザインである。
料理人にネタを注文することは、能動/受動式の発想からすれば、まさに「意志」のカタマリのような行為だ。何しろここは回転寿司店で、黙ってコンベアの寿司を取って済ませることもできるのだから。
しかしこの注文行為は、「意志」の様相に反して、実際にはさまざまな出来事の干渉の産物である。料理人に確実に聞き入れてもらうためには、体がこちらに向くのを待ったり、「まぐろ 1枚!」の前に「すいません」を付けて注意を引き付ける必要がある。直前に別の客が同じネタを頼んでしまったら、続けて注文するのは何だか気まずい。そうこうしているうちに、コンベア上の惹句につられて「まぐろ」ではなく「ホタテ」が食べたくなることもあるだろう。
料理人は料理人で寿司を握る手をリズミカルに動かしつつ客の注文を聞き、担当でないネタの注文にも復唱で応え、シャリの残り具合を勘案してホールのスタッフに指示を出したりする。まるですべてのエージェントが、協力するわけでもなく、ただ黙々と相互に干渉しあいながら、ひとつの「中動態ポリフォニー」を歌っているかのようだ。
個人的に以前から気になっていたのは、「おあいそ!」のタイミングである。私がよく行く近所の回転寿司店は繁盛店で、週末に行くとたいてい待たされる。壁伝いの列に並びながら、客が去って行くタイミングをぼんやりと観察するはめになるのだが、そこには明らかに「波」のようなものがある。
一組の客が「おあいそ!」と叫んで席を立つと、それにつられるかのように別の客も「おあいそ!」となり、あれよあれよと言うまに店内は歯の欠けたようになって行列が一気に解消される。パチンコで言うなら「確変」のような時間帯だ。逆に、待てど暮らせど「おあいそ!」がかからない我慢比べのような時間帯もある。
「おあいそ!」とは、いわば回転寿司的な「中動態の歌」から降りるという離脱宣言である。そのような大きな「決断の一手」こそ、私たちは流れの中で歌うように下すのかもしれない。
【『精神看護』2017年7月号より転載|伊藤亜紗|中動態の歌――書論『中動態の世界』】
自傷患者は言った。「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」
依存症当事者はため息をついた。「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」
――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか?
語る言葉がないのか?
それ以前に、私たちの思考を条件づけている「文法」の問題なのか?
若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。
ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。