【最終回】精神科ナースが単身海を渡った――イタリアの精神障害者施設滞在記

【最終回】精神科ナースが単身海を渡った――イタリアの精神障害者施設滞在記

2014.8.29 update.

 

文:吉田育美
日本赤十字看護大学を卒業後、都内の総合病院に病棟看護師として4年勤務(うち3年は精神科)、都内の精神科病院の急性期病棟に2年勤務した後、日本赤十字看護大学精神保健看護学領域の助手として3年勤務する。

それから日本赤十字看護大学大学院に進学し、修士論文は精神科病院の慢性期男女混合病棟でのフィールドワークを通して、長期入院をする患者との茶話会グループの実践をまとめた。そこで出会った患者たちの中には、ひとりで暮らすのはさみしいから病院にいる方がよいと話す方も少なくなかった。そのため、‘地域で暮らすこと’に興味をもった。

 

 

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帰国日が近づいた先日、「帰る前に何か作ってよ」という当事者の方たちのリクエストに応え、私は夕食にカレーライスをふるまったり、日本から持ってきた浴衣を女性当事者に着付けたりしました。
日本の文化に触れて、彼女たちはとても喜んでいました。
両手を合わせ、「ありがとう」と深々とお辞儀をしてくれます。私は拝まれることにとても違和感があるのですが、日本人はこういうイメージなのだそうです。

 

■■■浴衣を楽しむ当事者の方たち
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そして、とうとう最終週になってしまいました。会うは別れの始め。ロベレート(Rovereto)に来て、当事者の方たちと心を込めてかかわったぶん、彼女たちとの別れも本当にさみしく、辛いものです。

 

初めの頃、盛り上がりを見せた「comunità【コムニタ】」での折り紙ブームは、1か月ほどで終息しました。
それからは、私がソファに座っていると、TVを見たり、会話をしたりする傍ら、肩に頭をのせもたれてきたり、手をつないできたりと当事者の方たちは私に甘えてくるようになりました。
抱きつかれたままということもしばしばで、「私はあなたのクッション?」と言うと、ある女性当事者は恥ずかしそうに、でも満足そうに微笑んでいました。

 

イタリアは、挨拶でハグをしたり、キスをしたりする文化があります。そのためか、身体的な接触も大胆で、甘え方もダイレクトな印象を持ちました。
当事者の方は普段は忙しくしているスタッフの方が仕事の合間にソファに座ると、嬉しそうにくっついています。

 

そして終盤になると、当事者の方はまた、戸棚に置いてある折り紙を毎日のように私のところに持ってくるようになりました。でも、それには初めの頃の単純な盛り上がりとは少し違う意味あいがあるように感じました。

 

女性当事者Aさん(60代)は、私の隣に誰かが座っていても「どいて!」と言わんばかりに割り込みます。抱きついてきたり、「マッサージして〜」と言ったりと、一番多く私の隣にいました。
また毎回、私に折り紙を持ってきては、あれ折ってこれ折ってと言い、私が折るところを楽しそうに見つめていました。

 

そんなAさんの様子を伺いながら、合間に「私にもこれ折ってくれない?」と折り紙をねだってくるのは女性当事者のBさん(50代)でした。Bさんは潔癖症でもあったので、私に身を寄せてくっつくことができず、少し距離をあけながら穏やかな眼差しを私に向けていました。

 

折り紙にあまり興味がなかった女性当事者のCさん(80代)は、AさんやBさんが部屋に折り紙作品を運んでいる隙に、隣にやってきて手をつなぎ、私をなでます。そして「足をケガして困っている」「お腹が空いた」などと話し、抱きついてきました。

 

そうした女性陣がいなくなると、すっと私の横に座るのが、男性当事者のDさん(60代)でした。時に、Aさんが私の肩にもたれていると、Dさんは反対側の肩にどさくさ紛れに少しだけもたれてきて、「ふふふー」と照れたように笑っていたこともありました。

 

女性当事者Eさん(60代)は、いつもソファの横で編み物をしているのですが、Aさんと私が折り紙をしていると、命令口調で「(折り紙を)私にも!」と注文します。何を折ってほしいのか聞いても「何でも良い。それでいいわ、(Aさんと)同じの」と投げやりで、Eさんの好きな青色の折り紙がもうないと答えると「じゃ、その色でいいわ」と適当に色を選びます。
折っている過程を見て楽しそうにするAさんと比べ、Eさんはそれを見る様子もなく編み物をします。その割に、自分の分をすぐに私が作り始めないと、「それ、私の?」と言い、急かしてきます。「今は違う人に頼まれた分を折っている」と伝えると、Eさんは不機嫌になりました。私はEさんの身勝手さにイライラしていました。

 

ある日も、ひとつ作品を作って渡すと、Eさんは「もうひとつ、同じのを私に」と言いました。Aさんに頼まれたものがあるので、また後で折ると私が伝えると、Eさんの手の中から折り紙を握りつぶす音が聞こえました。
私がアタマにきて「何?もう、折り紙しない」と返すと、Eさんは「何でもないわよ。あるわよ!」と、少しくしゃくしゃになった先程の作品をちらりと見せました。
少ししてから、Eさんは私を部屋に呼び、涙目で謝ってきて「ここにあなたの折り紙、ちゃんととってあるのよ」と言いました。

 

Eさんは、おそらくAさんが私に甘えていることが羨ましく、自分にも注目を向けてほしいという思いがあったのだろうとわかりました。
折り紙は、彼女たちにとって私を独占する格好の理由だったようです。Eさんのそのような不器用さを理解しているのがBさんで、「次はEさんのをお願いね。その次は私のも折って」とBさんは気遣って調整をしていました。

 

私は彼女たちに甘えられると、そこに満たされない思いがあることを感じました。

 

前回までに報告したように、日々たくましく、作業や役割をこなし、スタッフに応じている裏には、不安や不満、さみしさなどもあり、それを受け止めてほしいという思いがあるようです。
スタッフとは異なり、特に仕事もなく、毎日ソファにどっしりと座っている(座っているしかなかった)私には特殊な安定感があり、抱きつきやすかったのかもしれません。
でも本当は、短期間だけ滞在する私ではなく、きっと家族やスタッフの人に甘え、抱しめ返してほしい思いがあるのだと思います。

 

今週に入って私の最終日が近づくと、「日本に行きたい。その後、家族も連れていく」という方や、「日本は遠すぎる〜」と泣いたりする方、「来年戻っておいで」という方もおり、嬉しいことに私との別れを皆が惜しんでくれました。
また最終日はスタッフの方たちの計らいもあり、おやつの時間にケーキを準備してくれ、お別れパーティーが開かれました。そして、いよいよ最後の時、彼女たちはいつもより強くハグをして、笑顔で静かに送り出してくれました。

 

■■■お別れパーティーの様子
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今回、11週間「comunità【コムニタ】」や「centro【チェントロ】」に滞在するという経験を通して、私は地域の中に“小さな精神科病院”があるという感想を持ちました。

 

そこには2つの意味があります。

 

ひとつは、地域の中に“小さな精神科病院”をつくることが可能であるという希望です。
少人数のユニット毎にケアが展開されている様子は、ちょうど日本の精神科慢性期病棟の多床室を地域に移したような印象です。ユニット毎にスタッフが配置され、当事者の生活を支援しているこのシステムは、本当に羨ましいと思いました。
地域に小さな精神科病院があれば、やはり大きな精神科病院はいらないのです。

 

初めは、「comunità【コムニタ】」と「centro【チェントロ】」間の移動にも、わざわざ専用車を使い、運転手を雇っていたり、必要な食材をユニット毎に買い物したりと、コストも相当かかるだろうなと考えていました。
でも、移動距離を短くして楽にしよう、食事を栄養バランスのよいものにするために給食室で作ろう、少ないスタッフでできる限り多くの当事者を担当しようなどと「効率性」を求めていくと、結局、何もかも備えた大きな精神科病院になってしまうのだと思います。
ここでは逆に効率的でないことが、ゆとりや自由さを生んでいるようにも感じました。
それに、顔なじみの運転手やスーパーの店員などと会話を楽しんでいる当事者の方の様子を見ていると、病院の患者さんにはない心豊かな機会にあふれていることを感じました。

 

協同組合の管理者は、施設を運営するのにとにかくお金がかかることが問題だと話していました。それでも何十年もの間、地域にこうした施設を展開してきたことはすばらしいことであり、それはスタッフの人にとっての誇りでもあるようです。

 

もうひとつは、地域ケアの組織であっても“小さな精神科病院”になってしまうということです。
当事者の方たちの「comunità【コムニタ】」と「centro【チェントロ】」を行き来する毎日は、ある部分、病院と同じように管理された生活のように感じました。物理的な環境を整え、地域で暮らすことができても、それだけでは当事者の方たちの生活は変わらないのです。
当事者の方たちの生き生きとした意欲や自主性を生み出し、維持していくには、工夫が必要なのだと思いました。その中で、支える「人」という環境も重要なのです。

 

システムが変わっても、結局は私たち援助する者も変わらなければならないことを痛切に感じています。当たり前に繰り返される生活に、スタッフのほうが脱け出せなくなっているのかもしれません。
必要な作業や役割をこなせるよう援助すること以上に、地域で暮らす当事者の方たちがこれからどのように生きていくかというビジョンが持つことが大切なのだと思います。と同時に、それを持ち続ける難しさもあるのだと思いました。

 

日本の患者さんの中には、どんなに困難な事情を抱えていても「退院して故郷に帰りたい」「家族が迎えに来る」「一人暮らししたい」と話す方がいます。
こちらでは、こんな風になりたい、こんなことをしたいという将来の展望を語る当事者も、スタッフも少ないように感じます。どこか行き詰まっている感覚を私は感じました。
こうした先の見えない不安が、私のような新参者に抱きつくという行為につながっているのかもしれません。


11週間という短い期間でしたが、イタリアの地域で暮らす当事者の生活を目の当たりにして、当事者の苦労や魅力、彼らを支える難しさも楽しさも学びました。体験してみてわかったこともたくさんあります。これから日本に戻り、私自身の社会復帰をしながら、この体験をもう一度振り返っていきたいと思っています。


そして、先日無事に日本に帰国しました。
と、言いたいところでしたが、行きの飛行機でのロストバッゲージに続き、帰りの飛行機でもトラブルに遭いました。イタリアから乗り換えの経由地に向かう便が2時間も遅延してしまい、乗り換えの便に間に合いませんでした。
仕方がないので、経由地のドイツの空港で‘英語’で交渉です。英語を封印してイタリア語で生活をしてきた私…。とっても簡単な英単語も出てこず大苦戦しました。対応した空港職員が不思議そうな顔をしていました。
そうでしょうね……私は無意識に、イタリア語混じりの英語で必死に話していました。あげく、6時間以上も乗り換えの便まで待ち、到着地も成田空港のはずが羽田空港の便に変わってしまいました。成田の方が近いのに……。
危惧していたロストバッゲージはなんとか免れましたが…。到着して、改めて言葉が通じるということにとてもほっとしました。
最後の最後まで試練だらけです。それも含めて楽しい冒険だったと思っています。

 

最後まで読んで下さった読者の皆さま、どうもありがとうございました。

 

■■■当事者の方が書いてくれた私の似顔絵
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