【第9週の2】精神科ナースが単身海を渡った――イタリアの精神障害者施設滞在記

【第9週の2】精神科ナースが単身海を渡った――イタリアの精神障害者施設滞在記

2014.8.05 update.

 

文:吉田育美
日本赤十字看護大学を卒業後、都内の総合病院に病棟看護師として4年勤務(うち3年は精神科)、都内の精神科病院の急性期病棟に2年勤務した後、日本赤十字看護大学精神保健看護学領域の助手として3年勤務する。

それから日本赤十字看護大学大学院に進学し、修士論文は精神科病院の慢性期男女混合病棟でのフィールドワークを通して、長期入院をする患者との茶話会グループの実践をまとめた。そこで出会った患者たちの中には、ひとりで暮らすのはさみしいから病院にいる方がよいと話す方も少なくなかった。そのため、‘地域で暮らすこと’に興味をもった。

 

 

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今週から、当事者の方たちは毎年恒例の5日間の夏休みでした。「comunità【コムニタ】」の2つのユニットが合同で、半数ずつ2つのグループに分わかれて、山へ出かけて行きます。
前半のグループで出かけていった当事者の方たちは帰ってきましたが、楽しそうに「滝を見てきたよ」「ピザが美味しかった」などと話をし、「こっちは暑くて困るわ〜」と言っていました。むしろロベレート(Rovereto)も涼しい日が続いていたのですけどね……。

 

ある当事者は、別の当事者を指して「この人、向こうではずっとうれしそうな顔をしていたのよ」とからかうように教えてくれましたが、そんな彼女もとてもうれしそうに報告をしていました。

 

当事者の方たちとは別の場所ですが、私も休日を利用して北イタリアの山塊の絶景を見てきました。イタリアは文化遺産が有名ですが、自然遺産も負けていません。とても素晴らしいのでおすすめです。

 

■■■北イタリアのドロミテ地方 ミズリーナ湖
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私がイタリアに来て、9週目になります。なんとか今もイタリア語だけで生活しています。この生活ももう少しで終わり。でもなかなか言葉が上達せず、焦る気持ちもあります。覚えた単語もたくさんあるはずなのに、相手の話が理解できず、コミュニケーションがまだまだ難しい状況です。この状態だったら、初期の頃と変わらないのではないか、むしろ初期の方が神経を研ぎ澄ましていた分、聞こえていたかもしれないと思い悲しくなります。

 

しかし、同じように他言語を学んだ人たちに相談すると、こうした時期はよくあることで、逆に初級から中級へとレベルが上がる時にこそ、聞こえない、上達していないという悩みを抱えるものだとアドバイスをもらいました。
ハウスメイトにも「初めよりもちゃんと聞き取っているよ」「イタリア語しゃべっているじゃない」という励ましももらいました。その渦中にいる私にとっては、未だにどれも本当かな~と信じがたいことなのですが。

 

しかし、おもしろいことに、相手の言葉が‘聞こえない’と思って聞くと、聞き取れません。‘聞こえる’と思って聞くと、聞き取れるのです。聞き取れないと、気持ちが鬱々としてきて、集中力も記憶力も低下し、ますます聞き取れなくなるという悪循環に陥ります。すると、私の耳は閉じ、話す気さえ起きず口も閉じます。一方、話が聞き取れたとうれしくなると、私の耳は開いていき、ますます色んなことが聞こえてくるようになるのです。

 

このような体験をしていると、語学の習得には、心の安定をコントロールすることも大事だと学びました。耳を開き、口を開くために、「私は聞こえる〜。私は聞こえる〜」と唱え、最近は自分に暗示をかけています。使うのか使わないのかもよくわからない単語を片っ端から覚えていくよりも、暗示をかける方が私にとってはとても効果的で、聞き取ったけれどわからない言葉をそのつど調べて覚えています。

 

そして、こうした語学の習得の過程以外にも、私の耳が閉じ、口が閉じる要因があるようにも思いました。

 

「centro【チェントロ】」に行って「comunità【コムニタ】」に行くというこの生活は慣れてしまうと、とても単調な生活に感じます。これから何をするのか、自分は何をしたらいいのかといちいち聞かなくても、要領がわかれば必要なことをすればいいのです。当事者の方や、スタッフの方と顔なじみになり、安心して自分がそこに居られるようになった分、言葉がなくても過ごせるようになっていました。
当事者の方たちが、スタッフの方たちに比べて、表現が乏しくおとなしい理由がよくわかりました。そして、スタッフ同士の早くて軽快なおしゃべりや、スタッフが当事者の方を叱るような気まずい場面の会話は特に、私の耳は閉じていたように思います。無意識に耳も口も閉じていくということが、本当に怖いところです。

 

また、先日の「comunità【コムニタ】」でのことです。おやつを食べていたある当事者の方が、食べ終わったお皿の片付けていた時、私はテーブルに残された紙ナプキンを「捨てる?」と彼女に聞きました。すると、彼女は「おせっかいをやかないでよ!」と怒って紙ナプキンを握りしめ去っていきました。
彼女の言葉がすぐには理解できなかったのですが、電子辞書ですぐに調べてみて「mestare【メスターレ】(おせっかいをやく)」とわかりました。
私はなんとなく口に出して聞いただけだったので、その反応にとても驚きましたが、確かに余計なひと言だったかもしれないと反省しました。その後すぐに、怒っていた彼女は「あんなこといっちゃってごめんね」と私にハグをしてきました。
私も謝り、「私もおせっかいなんてやきたくないよ。だから、私はあなたの(役割分担の)作業ももう手伝わないよー」と冗談で返すと、彼女はにやにやと笑っていました。

 

仲直りができてよかったと私は安心しました。でも、なんだかわからなかったのですが「mestare【メスターレ】(おせっかいをやく)」と言われたことに、無性に腹が立ってきました。徐々に悔しさがこみ上げてきて、雨が降り出した窓の外を眺めながら、私は必死にあふれそうになる涙をこらえていました。

なぜ涙が出るほど悔しかったのだろうかと、私は後から振り返ってみました。すると、いくつもの同じような場面が思い出されました。ある当事者の方が私にある質問してきた時、私が答えようとすると即座に隣の若い当事者が代わりに答え、「Ikumiを困らせちゃダメだよ」と言いました。また、ある当事者が私に甘えて抱きつき離れないでいるのを見たスタッフが「いい加減にしないと。Ikumiが困るでしょ」と注意をしました。私は困ったなと感じていなかったし、私なりの反応を返そうとしているところでした。
でもその当事者やスタッフたちは、きっと私がイタリア語を話せないから困ると思い、助けようとしてくれたのだと思います。このように、私が反応を返そうと、口を開き、息を吸った瞬間に遮られ、私は息を飲み、無意識に引き下がった場面です。

 

私こそ「おせっかいをやかないでよ!!」と怒りたかったのです。助けようとした人たちは親切心からの行為であり、決して私の邪魔をしようとしたわけではないことはわかりますが、私にとってはありがた迷惑なおせっかいでした。

 

こうしたおせっかいは、普段よくあることのように思います。“その人の能力に合わせたサポートをする”などとよく習いますが、看護師という職業柄でもやってしまいがちです。
しかし、おせっかいをされてみると、強い「無力感」が残りました。できるけれど、できないように扱われ、知らず知らずのうちに力を発揮する場もなくって、ますますできない人になっていってしまう……というような危機感を感じました。

 

私は「うまくできないかもしれないけどやらせてよ」と内心は思っており、それが悔しかったのだと思います。
この周りの方たちからのおせっかいもまた、私の耳と口を閉ざす要因のひとつのようでした。そして、私も皆に甘んじず、きちんとできるところまでをアピールしていく努力を怠らないことが必要なのだと改めて学びました。

 

窓の外を見ながら涙をこらえたその日。「よし! なんとかこらえた」と思ったのですが、少し遠くに座っていたある女性当事者の方が「Ikumi、どうして窓の外を見て、そんなに悲しい顔をしているの? こっちにおいでよ」と話しかけてきました。
こんな時、優しくされる方が私には危険なのです。気づかれた恥ずかしさと気遣ってくれたうれしさも相まって、結局少しだけ涙がこぼれてしまいました。近くにいた他の2人の当事者にも「大丈夫?」「明日は折り紙しようね」「雨が降ってきたから、涙が出ちゃうって時もあるよね。今日は雨が降ってきたからね〜、ふふふ…」などと優しいケアをされながら私は一日を終えたのでした。

 

「mestare【メスターレ】(おせっかいをやく)」という、基本単語帳には載っていないであろう、このマイナーな単語。私は一生忘れないことでしょう。日本に帰ってからも「mestare【メスターレ】、mestare【メスターレ】」と唱えて、私自身もおせっかいを控えたいと思います。

 

■■■「comunità【コムニタ】」にある別のユニットのキッチンダイニング(上)と、雨を眺めたリビング(下)
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