【第8週】精神科ナースが単身海を渡った――イタリアの精神障害者施設滞在記

【第8週】精神科ナースが単身海を渡った――イタリアの精神障害者施設滞在記

2014.7.23 update.

 

文:吉田育美
日本赤十字看護大学を卒業後、都内の総合病院に病棟看護師として4年勤務(うち3年は精神科)、都内の精神科病院の急性期病棟に2年勤務した後、日本赤十字看護大学精神保健看護学領域の助手として3年勤務する。

それから日本赤十字看護大学大学院に進学し、修士論文は精神科病院の慢性期男女混合病棟でのフィールドワークを通して、長期入院をする患者との茶話会グループの実践をまとめた。そこで出会った患者たちの中には、ひとりで暮らすのはさみしいから病院にいる方がよいと話す方も少なくなかった。そのため、‘地域で暮らすこと’に興味をもった。

 

 

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今週のロベレート(Rovereto)は、30℃の暑い日もあれば、20℃を下回る肌寒い雨の日もあり、気温の差が激しく体にも堪えます。

 

先日、「centro【チェントロ】」で当事者の方たちと一時間程度の‘散歩’のプログラムに出かけました。ところが、山登りのような想像以上の急な坂道を歩きました。田舎、恐るべしです。

 

ある50代の当事者は「私は歳なのよー」とごねており、私も内心、「もう十分だよ。暑いよー」と思っていました。でも、登った先は想像以上の絶景で、ぶどう畑が広がり街を一望できるところでした。その日は自然に癒され、気持ちよく帰ってきました。

 

■当事者の方たちとの‘散歩’

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そして先日、「centro【チェントロ】」に新しい外国人ボランティアの男性が来ました。当事者との会話も通じているような、いないような……という様子のため、言語の似ているスペインの方だろうかと思いました。

 

当事者に手を引かれて作業スペースに連れていってもらったり、早速皆と同じ作業着を着せてもらったりと、私が初めて来た時とは違っていて、羨ましく嫉妬していました。

 

その新しい彼が、ボランティアではなく、新たに通うことになった当事者の方だったと私が気づいたのは、それから2時間後のことでした。常に困ったような苦笑いを浮かべた彼の様子は、ここに来た自分と同じだったのでしょうね。

 

当事者たちは、新しい仲間に「生まれはどこ?」「その靴、素敵ねー」「何歳なの?僕は60歳だよ。頭もこんなに真っ白さ」などと優しく微笑みかけていました。さらには、彼を迎えにきた母親にも、「あなたの息子さん?いい方ね」と話しかけていました。

 

彼はまだまだ戸惑っていますが、他の当事者の方がほどよい関心を寄せて居場所をつくってくれているので、彼もじわじわと仲間になりつつあります。

 

■「centro【チェントロ】」のあるビル

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今回は、「comunità【コムニタ】」での当事者の方々のグループミーティングについて報告したいと思います。

 

前回、「comunità【コムニタ】」では当事者の方には色々な役割があるということを報告しましたが、毎週月曜日の夕食前にグループミーティングがあります。スタッフを中心に役割を分担したり、夕食のメニューを決めたりしているのもこの時です。

 

グループミーティングと紹介しましたが、「comunità【コムニタ】」では、イタリア語で「èquipe ospiti【エクイープ オスピティ】」と言い、通称「èquipe【エクイープ】」と言われています。「èquipe【エクイープ】」とは「チーム」という意味で、「ospiti【オスピティ】」とは英語でいう「hosts」で、合わせて「主人たち、あるじたちのチーム」という意味です。

 

スタッフ2人とあるじである当事者6人全員が、ダイニングに集まります。そこではまず、スタッフがひとりの当事者を指名し、その方の話から始まります。この一週間の自分の調子、出来事を自由に話していきます。

 

そして、今、自分が悩んでいることや、思っていることなども話します。ひとり5〜10分くらいかかり、話した方が次の方を指名して、続いていきます。

 

「調子はいいよ」「落ち着いているよ」などと始まり、「先日はおじの誕生日があったね」とか「週末は母親と出かけて食事をしたよ」などという話をしていました。

 

スタッフはファシリテータのような役割を担い、「他には?」とか「〇〇があったんじゃなかった?」などと、当事者の方の話を広げていきます。当事者の方たちは慣れた様子で、スムーズに話をしています。

 

基本的に「èquipe【エクイープ】」は、他の人の話をきちんと聞くことになっています。おもしろい話に笑ったり、よい出来事には「Bravo!【ブラボー】(すごーい)」と拍手をしたりすることもあります。私がイタリア語に堪能ならば、当事者の方たちがどんなことを話しているのかが詳細にわかっておもしろいと思うのですが、まだそれが難しいので本当に残念なところです。

 

そして、たいてい「èquipe【エクイープ】」の話の最後は、共同生活の文句や苦情になっていきます。「帰ってきたのに窓を開けないでいる」「夜中から起き出してうるさい」「トイレに行く時にドアを閉める音がうるさい」「ずっと部屋で独語をしているから、こっちが眠れない」「私の洗面の番なのに、〇〇のトイレが長いから使えない」という話が出ます。

 

日本の精神科病院でも病棟ミーティングをすると、必ずこうした話が出るように思います。そのため、文句の話になると、なぜか私は彼らのイタリア語の話がよく聞き取れるようになっていくのがまた、おもしろい体験です。

 

当事者の方たちは、話に口を挟んだり、意見したりすると、「あなたの話す番じゃない」とスタッフに止められてしまいます。そのため、言われたことに反論したくても、スタッフに「あなたはどう思うの?」と聞かれるまで待ちます。

 

しかし、待っても十分に反論できるわけはないように感じます。スタッフの仲介が早くて、結局スタッフが一番長く話し、誰よりも当事者の話を遮っているということもしばしば。イタリア人はおしゃべりだなーと思います。スタッフは問題を解決しようと、当事者に説教したり説得したりしています。

 

そして、毎回、2人部屋の60代の女性当事者が同室の80代の女性当事者の苦情を言い、スタッフに説教されて泣きべそをかいた80代の当事者から握手を求めて終わるという流れで、一件落着。しかし、結局、次回も同じ流れになります。先日、周りにいた、ある女性当事者はこのやりとりの最中に「あ〜あ」と大あくびをしていました。


この前、「centro【チェントロ】」で当事者の方たちが「今日は月曜だから、(これから帰って)èquipe【エクイープ】があるよ。シャワー入って、èquipe【エクイープ】があって忙しいな」とため息をついていました。私がもう何を話すのか決めたのかと聞くと、彼らは「うーん……」と特に返事はなく、「èquipe【エクイープ】」はどう?好き?と聞くと、また「うーん、……うん」と言っていました。

 

別の時に、同じ流れを繰り返す60代の当事者にも質問をすると「嫌い。だって長いから」と答え、80代の当事者も「嫌い。なんでってことはないけど嫌い」と答えていました。同じやりとりを繰り返す裏には、彼女たちの何らかの思いがあるように思うのですが、私にはまだよくわかりません。

 

共同生活のわだかまりを解消するには、話し合いの場があることはとても大事なのだと思います。でも、言語化される文句や苦情ほど、この6人のあるじたちがうまくいっていないわけではないと私は感じています。

 

「centro【チェントロ】」でも「comunità【コムニタ】」でもほとんど一緒に行動を共にしているので、お互いの性格をよくわかっていて、6人という少人数が故の密な関係性と気遣い合いやおもいやりがあり、紙には貼り出されない役割分担があって、共同生活が成り立っています。普段、私はリビングのソファに座っているので、そういった彼らのさりげない気遣いが伝わってきます。

 

しかし、前回までに報告したように、いざこざはしばしばあります。ちょっと気に入らないことがあるとスタッフの名前を呼ぶこともあります。子供が「お母さーん、〇〇がこんな悪いことしているよー」と言い、その度に「譲り合って仲良くしなさーい」とお母さんの決まりきった適当な返事が返ってくるといった、兄弟ケンカのような印象もあります。

 

また、この「èquipe【エクイープ】」には月に一度、担当医が参加することになっています。まだ私は一度しか会ったことはありませんが、担当医は彼らの日常の世話をしているわけはないこともあってか、落ち着いた声とトーンで彼女たちの苦情の話にも対応しながら、普段のスタッフに代わってファシリテータの役割を担っていました。ここでのやりとりは、彼らの言葉を直接聞く診察をかねているという面もあるようです。


現在、私もハウスメイトと3人で共同生活をしています。初めは、宿舎に帰ると彼らがいて、またイタリア語で会話しなくてはいけないのかとうんざりして、ルームシェアなんて無理、ひとりになりたいと思うこともありました。けれど、徐々にお互いの性格や生活のペースがわかってくると、自分のベッドだけが安全基地だったのが、宿舎もくつろげる居場所となり、彼女たちといることで安心感を得るようになりました。

 

ここイタリアで孤独感を緩和できるのも、彼女たちのおかげです。でも、私にはひとりでほっとする時間は必要で、共同生活の中にもそういう時間を作っています。

 

ある50代の男性当事者は、「comunità【コムニタ】」に帰ると、ほとんど部屋でひとり、独語をしています。皆がリビングで音楽を聞いていても、そっと扉を閉めて、交わりません。初めは放っておいてよいものかと思いましたが、共同生活の中にも自分の時間を持つことで、彼も心の安定を保っているように思うようになりました。もちろん、独語に没頭するのではなく、他に代わるものがあればベストですが。

 

共同生活には、孤独にならないよう心を開いて皆となじむ努力も必要ですが、皆といてもひとりで自分をいたわる努力も必要です。どちらかに偏らないよう、そのバランスを保つことの難しさも楽しさも、今、私は体験しています。

 

こうして、私もハウスメイトもそれなりに気遣い合って譲り合って生活しているわけですが、気に入らないところをあげてと言われたら、そりゃあ……あります。ギニアの男性は砂糖が好きで、ブラジルの女性は塩が好き。食事の好みも違います。

 

床に食べ物を落とさないでほしいとか、靴下は毎日変えてほしいとか。文化の違いも明らかです。きっと彼らも私に対して思うところはあるでしょう。

 

でも、担当が決まっていなくても、食品や日用品を買い足したり、シャワーの順番もケンカになったりしません。私が夕食前に疲れてベッドで寝ていると、「寝ているみたいだから、起こさないであげよう」という2人のひそひそ声がうっすらと聞こえ、翌朝には私の分を冷蔵庫に入れておいてくれていたりします。私はそんな優しい気遣いをうれしく感じながら、甘んじてそのまま寝るし、ありがたく食べます。

 

それでも、私は期間限定の共同生活であるからこそ、多少の我慢もできるのだと思います。

 

これがいつまで続くかわからないとしたら……「èquipe【エクイープ】」が必要でしょうね。当事者の方たちは期間の決められていない共同生活で、何年も「comunità【コムニタ】」に住んでいます。役割分担が決まれば、公平だし、気遣いは減るので、共同生活は少し楽なのかもしれません。でも、決まってしまうと、それをやらないことへの文句も出てくるのが難しいところです。

 

日本で看護師をしていた時は、苦情や文句を訴える患者さんに「お互い様でしょう?」「そんなに嫌ならあなたが部屋から出て過ごせばいい」なんて、私はよく言っていました。今はそんな自分に「そんなことはわかっているの」「文句ぐらい言わせてよー」という気持ちです。

 

「comunità【コムニタ】」にしろ、日本の病棟の多床室にしろ、改めて終わりのない他人との共同生活は難しいと感じます。

■「èquipe【エクイープ】」で集まるテーブル
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