その12 日本における病院医学

その12 日本における病院医学

2013.9.02 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 

 わが国に西洋医学が伝わってきたのは、16世紀である。インドのゴアや中国のマカオに基地を建設したイエズス会士たちは、フランシスコ・ザビエル以後、続々と日本に渡ってきた。そんな中、医師免許を持つポルトガル商人ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida: 1525-1583)は、マカオを拠点として日本との貿易を始め、経済的な成功を収めていた。彼は、豊後、すなわち現在の大分の地で布教活動を行っていたイエズス会士たちとの出会いを通じて宗教活動に目覚め、1559年、大分に病院を建設して医師としての活動を開始した。これが、日本に西洋医学が導入された最初であり、日本最初の病院の建設であった。しかし、この時代の病院は、今日的な意味での、治療・教育・研究の実践の場としての病院とは程遠い存在のものであった。

 

 

 徳川幕府による鎖国制度が確立してから後、わが国における西洋医学の発展はいったん振り出しに戻ってしまい、歴史の忘却の中に埋もれるがままになっていた。そんな中で、長崎の出島に来るオランダ人医師たちだけが、辛うじて西洋医学の進展を垣間見せてくれる貴重な存在だったのである。古代中国医学に基づく伝統的な漢方医学に飽き足らなかった日本の若い医師たちは、西洋医学の知識を求めて、長崎に出向き、出島に派遣されて来るオランダ人医師から、それを学び取ろうと必死に勉強した。そんなオランダ人医師の中でも、最も有名なのは、1828年に来日したフォン・シーボルトである。彼の開設した鳴滝塾には、多くの日本人医師が、西洋医学を学び取ろうと詰めかけた。しかしその教育は、古くからの徒弟制に基づく古典的な医学教育の形式をとっており、近代的病院医学の教育制度とはまったく違う旧態然とした教育法であった。

 

 

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 わが国に、真の意味での近代的な病院医学を導入したのは、幕末に来日したオランダ人軍医、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort: 1829-1908)である。彼は、長崎に設立された長崎奉行所西役所医学伝習所の教授として弱冠28歳で来日し、5年間にわたって日本人学生に対して近代的な医学教育を行った。彼が行ったのは、彼自身が母国で受けてきた、病院医学の教育の実践であった。その中でなによりも特筆すべきは、1861年に創立された「小島養生所」である。これは、治療と教育の場である近代的な病院としての、日本で最初の施設である。このような、ポンペによって始められた体系的な西洋医学教育は、その後のわが国の医療と医学教育の方向を決定するにおいて、極めて重要な意義を持っていた。この時ポンペの下で学んだ医学生には、松本良順、岩佐 純、佐藤尚中、長与専斎といった、その後のわが国の医療と医学教育を担っていった人々がいるからである。彼らが、小島養生所においてポンペを通じて学んだ病院医学の精神がなければ、わが国の医療と医学教育の近代化はもっともっと遅れたであろう。このような、わが国のリーダーたちを育成した偉大な教師が、30歳そこそこの青年医師であり、学んだ学生たちも本当に若い人々であったことを思うと、わが国の現在の医療と医学教育の基礎を築いた若い彼らの意気軒昂たる魂に感謝しないではいられないのである。

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