その11 看護教育と政教分離

その11 看護教育と政教分離

2013.8.19 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 

 病院医学が医療の主流になっていくにつれ、新たな問題として、看護の担い手をどう育成していくかという問題が生まれてきた。このことは、フランスの病院医学にとっては、大きな難問であった。カトリックの信仰が強固な社会基盤をなしていたフランスでは、病院における看護の担い手は修道士、修道女であった。すなわち看護は神に仕える者たちの使命であり、宗教的な行為そのものであったのである。しかし、19世紀後半になり第3共和制が確立した後のフランスでは、社会活動の主役となったブルジョア市民層に、科学的合理主義に基づく政教分離(Laïcisme)の思想が芽生えてきた。その中で問題となったのが、病院における看護の担い手の問題だったのである。当時、男性修道士による看護は行われなくなっており、看護の主役は修道女たちであった。彼女たちは献身的に看護を行い、看護技術も高かったが、宗教的には必ずしも寛容ではなく、臨死状態の患者がカトリック教徒でなければ、改宗を迫ったりすることが稀ではなかった。このことに反発し、精神の自由を求めた医師たちは、看護の世界に政教分離を導入しようと考えたのである。政教分離に基づく新しい看護制度の実現に尽くした一人が、前回紹介したシャルコーの弟子の1人ブールヌヴィーユ(Désir Magloire Bourneville: 1840-1909)であった。

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 彼は1878年に、フランス最初の看護師養成所をサルペトリエール病院内に設立する。この看護師養成所は夜学であった。当時、パリには、地方から沢山の若い女性が女中や料理人として働きに出てきていた。ブールヌヴィーユは、彼女たちを看護師として教育していこうと考えたのである。したがって、看護学校の学生たちは、昼間の仕事を終えてから、夜学に通った。しかし、ここに大きな問題が生じた。この頃、すでに英国ではナイティンゲールの看護学校が発展を遂げてきていたが、そこに入学してくる学生は、教養ある家庭の子女であり、読み書きが出来るのは当たり前の女性であった。ところが、ブールヌヴィーユの看護学校に入学してきた女性は、地方から出てきた、もともと読み書きのできない女性ばかりであり、まず初めに読み書きから教えなければならなかった。それに加えて、昼間の激しい労働を終えてから通学してくる看護学生たちは、授業中に寝てしまうことが多く、十分な教育を行うことができなかった。これらの理由から、この夜学看護師養成所は、十分な成果を挙げることができなかったのである。

 

 このような失敗を経て、1908年、サルペトリエール病院に新しい看護学校が設立され、読み書きと裁縫の試験を通った18歳から25歳の独身女性が入学を許可された。彼女たちには寄宿舎と制服、そして食事が与えられ、一定額の給費が支給された。このような恵まれた環境のなかで、2年間の教育を受けた後、彼女たちは看護の現場に送り出されていった。この看護学校の設立とともに、長い間看護の担い手を努めてきた修道女たちは、病院を去ることとなった。1908年1月15日、パリにおける最後の看護修道女たちがオテルディユー病院を去った日には多くの市民が集まり、彼女たちに感謝を捧げたという。

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