その10 神経内科学の誕生

その10 神経内科学の誕生

2013.8.05 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 

 臨床病理対応研究に基づいて発達した症候学が、最も目覚しい成果を挙げた領域の1つは、神経系の病気の臨床診断学である。19世紀半ばまで、神経疾患のほとんどは、患者の呈する症状の外見的な記載のみに止まり、その根底にある特定の疾患を診断しようという試みはなされなかった。そのような中で、神経系をおかす病気の疾患概念を打ち立てていったのは、シャルコー(Jean-Martin Charcot: 1825-1893)である。1862年、37歳の彼は、サルペトリエール病院に内科医長として赴任した。以前紹介したように、この病院は女性の浮浪者や精神病者を収容する巨大な病院であったが、入院患者の中には、さまざまな神経疾患を有するものが多かった。中でも、元娼婦であった女性では、脊髄癆のような神経梅毒に罹患しているものが多かったし、脳血管障害も少なくなかった。また、様々なタイプの筋萎縮症や、振戦を有する患者も沢山収容されていた。これらの患者の臨床症状を細かく観察し、彼らが亡くなると病理解剖によってその病変部位を確認していくだけでなく、当時は目新しかった顕微鏡を用いた病理組織学的検索を取り入れて、神経疾患に対する近代的な病理組織診断法を確立していった。さらに、彼は当時まだ始まったばかりの写真術を、臨床所見の記録に取り入れたことでも有名である。サルペトリエール病院はMedical photography発祥の地でもあるのだ。

 

 このような長年の努力が実を結び、彼が設立したサルペトリエール病院の神経病クリニック(Clinique des Maladies du Système Nerveux)は、1882年、パリ大学の正式な講座として認められるに至った。このようにして完成した神経内科学講座には、神経内科学のメッカとして、世界中から留学生が集まってきた。わが国からも、後に東京大学の内科学講座教授に就任することになる三浦謹之助が、シャルコーの晩年に当たる1882年、10カ月ほどの間サルペトリエール病院に留学し、シャルコーの教えを受けている。

 

 シャルコーは、金曜講義と火曜講義という2種類の公開講義を行った。前者は、特定の疾患の患者を提示しながら、その疾患について論じていく、十分に準備された学術講演的な講義であり、そこで論じられた脊髄癆の電撃痛やシャルコー関節、ポリオ、筋萎縮性側索硬化症、多発性硬化症、パーキンソン病、あるいは脳の局所診断法などの講義録は、そのままオリジナル論文として引用されるほどである。これに対し、火曜講義は、その日の外来患者を提示しながら行われた即興的な講義であり、臨床現場の臨場感溢れる活き活きとした講義である。この火曜講義録は、弟子たちにより1887年度と1888年度の2年分、2冊が出版された。これを、ウィーンからシャルコーの下に留学していたジーグムント・フロイドが独訳しているが、この独訳本に基づいて、1906年から1911年にかけ、後に日本赤十字病院の病院長を勤めた軍医佐藤恒丸は、『沙禄可博士神経臨床講義(前編上、前編下、後編)』として全訳出版するという偉業を成し遂げている。この訳業は、佐藤の師である三浦謹之助の勧めによってなされたものであった。

 

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