その7 疾病分類学の誕生

その7 疾病分類学の誕生

2013.6.24 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 

 今日、病気に名前があるのは当たり前のことであり、すべての病気は、その病気を特定する病名で呼ばれることになっている。そして、そのような病名がつけられる基礎には、病気の分類、すなわち疾病分類学(Nosology)という体系がある。

 

 今日のような疾病分類学の基礎は、植物学者であり医者でもあったスウェーデンの学者リンネ(Karl von Linné: 1707-1778)によって築かれた。彼は1737年に、植物分類学の基礎的な体系、すなわち、綱、目、属、種からなる分類法を確立し、その体系は今もなお存続しているが、その後1763年には、『疾病属』を著して、同じ方法で疾病分類学を築こうとした。これに刺激を受けたエジンバラ大学のカレン(William Cullen: 1710-1790)は、1769年に “Synopsis nosologiae methodicae(疾病分類学方法論概要)”を著し、リンネの分類法にならって、病気を、綱、目、属、種からなる体系で分類した。これらの方法にのっとって、さらに疾病分類学を進めようとしたのは、パリにおける病院医学の旗手の1人であったピネル(Philippe Pinel: 1745-1826)である。彼は、フランス大革命と同じの年1789年に、『哲学的病理論(Nosographie philosophique)』を出版し、2700の病気を、リンネの方法に従って分類した。

 

 ピネルの疾病分類学は、単に症候をつなぎ合わせたような病名がつけられていたり、今日ではまったく異なった疾患とされているものが、同じ病名の下に分類されていたりするという、今日的な見地からすると極めて不自然なものである。しかし彼の疾病分類学の不完全さこそが、革命後の病院医学の誕生とともに、コルヴィサール、次いでラエンネックが広めた、打診や聴診法といった臨床診断技術の開発の必要性を高め、また臨床所見と病理解剖所見との対比研究を続けていく原動力となったのである。そのような中で、今回紹介したいのはクリュヴェイエ(Jean Cruveilher: 1791-1874)である。彼は、パリのサルペトリエール病院やシャリテ病院で臨床に携わると同時に、病理解剖学の研究を積極的に進めた。1826年、パリ大学に病理解剖学の講座が置かれるようになると、彼はその初代教授に任命され、疾病分類学の基礎となる病理解剖学の研究に専念するようになる。かれは、1832年から1840年にかけて、2巻からなる『人体病理解剖学(Anatomie pathologique du corps humain)』を出版した。これは、美しいリトグラフの図譜がついた大きな出版物であり、多くの疾患の正確な病理所見が、臨床所見の記載つきで示されている。私たち神経内科医にとって、この書物が特に意義深いのは、この書物の中に多発性硬化症の世界最初の病理所見が記載されていることである。今から30年以上前、当時東京大学医学部の学生だった古川壽亮氏(現京都大学教授)と岩坪 威氏(現東京大学教授)とともに輪読会をしていた時、彼ら二人が、東京大学医学部図書館にクリュヴェイエの『人体病理解剖学』があることを突き止めてくれた。そこで早速、その原書をコピーし図とともに紹介した。今ではそれぞれの研究分野における世界的なリーダーとなっている方々の、若き日の業績の一端である。

 

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