その6 病理解剖学の隆盛

その6 病理解剖学の隆盛

2013.6.10 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 病院医学が確立したといっても、当時の臨床医学の技術は、今日のそれに比べると極めて貧弱なものであった。そんななかで最も信頼できたのは、臨床的観察から診断された病態を、死後の病理解剖によって確認していく臨床・病理対応研究の方法論であった。このような研究は、その対象となる患者自身にはなんの役にも立たないが、次に来る患者の同様の病態をよりよく理解し、なんらかの対策を立てていくのにわずかでも貢献することができる。近代的な医学の体系は、このような臨床・病理対応研究の成果の上に築かれていったのであり、そのような研究が最も盛んに行われたのはパリの病院だった。

 

 病院医学の誕生6.jpgこのような臨床・病理対応研究の先頭に立っていたのは、ビシャ-(Marie François Xavier Bichat: 1771-1802)である。彼はドゥソーの愛弟子として師の家に起居し、師亡き後はその業績をまとめるのに尽力した。ドゥソーから病理解剖学の教育を任されていた彼は、オテル・ディユー病院の内科医として臨床に携わると同時に、一冬に600体という膨大な数の病理解剖を行っていった。そんな激しい仕事の最中、彼は屍体から感染したと思われる結核性髄膜炎に罹患し、数日間患っただけで急死してしまう。わずか31歳の若さであった。彼の早逝は、パリの医学界における一大ショックであっただけではなく、時の第一執政ナポレオン・ボナパルトをして、オテルディユー病院に、ビシャーを悼む記念碑を建てさせたほどの大事件であった。

 

 ビシャーの著作として医学史に残るのは、『諸膜論』、『生と死に関する生理学的研究』、『一般解剖学』である。このうち、『諸膜論』は、それまでの解剖学では器官単位の観点しかなかったのに対し、臓器の独立要素であると同時に、異なった臓器間において共通点をもつ「膜」の存在に焦点をあて、粘膜、漿膜、線維性膜などについて論じた。彼によって、組織学という新しいものの見方が提唱されるようになったのである。これにより、それまでは、心臓の炎症とか脳の炎症と呼ばれていたようなあいまいな概念は捨て去られ、心嚢炎、心筋炎、心内膜炎、あるいは脳炎、脳膜炎といった組織学的単位で呼ばれる明白な病名が生み出されていった。

 

 『生と死に関する生理学的研究』で、ビシャーはヒトの生命過程を動物性生命(vie animale)と有機性生命(vie organique)とにわけているが、これは今日の体性機能(somatic function)と植物性機能(vegetative function)に対応するものであり、後者を司る自律神経系の働きに関する研究の嚆矢ということが出来よう。『一般解剖学』は、彼の研究の集大成ともいえる書物であり、そのなかで彼は、非生命体と生命体とは全く異なった原理によって存在しているという生気論を展開した。そして彼は、病理解剖学は、臨床観察だけでははっきり判らなかったことを解決するために最も重要な未来の科学であることを力説したのである。

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