その5 医学研究の場としての病院

その5 医学研究の場としての病院

2013.5.27 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 病院医学で教育を受けた若き学徒たちは、自らの育った病院において活発な診療活動を行うと同時に、医学研究を強力に推進した。その基盤となったのは、臨床的観察と病理解剖所見との照合から、疾病概念を築き上げ、個々の疾患を分離していくという臨床・病理対応研究である。既に18世紀において、イタリアのモルガニ(Giovanni Battista Morgagni: 1682-1771)は、病理解剖学の基礎を築き上げ、臨床所見と病理解剖学所見の対応研究によって、疾病というものは器官をその発現の場として生じるものであることを明らかにしたが、この研究方法を踏襲して、系統的な臨床・病理対応研究を推し進めたのは、パリの病院医学を担った医師たちであった。そのような研究を組織的に行っていくことができるようになったのは、病院医学の国家的体系があったからこそである。1807年の統計によれば、パリの病院には年間3万7千人以上の患者が入院したという。この膨大な数の患者に対する医療を通じて、医学史上に今も残るような数多くの発見がなされていった。

 

 病院医学の誕生とともに発展した臨床医学研究のうち、最も重要なものは、打診法と聴診法という診断学的手法の確立である。この分野で活躍した医学研究者は、コルヴィサール(Jean Nicholas Corvisart: 1755-1821)と、その弟子のラエンネック(René Théophile Hyacinthe Laënnec: 1781-1826)である。コルヴィサールは、オテルディユー病院でドゥソーに教えを受けた1人であり、後に皇帝ナポレオンの侍医となったが、心臓病学の体系化を行ったことで有名である。ラテン語に堪能な彼は、ウィーンの医師アウエンブルッガー(Leopold Auenbrugger: 1722-1809)が著した”Inventum novum(新考案)”という小さな本に書かれていた打診法を高く評価し、この本をフランス語に訳すとともに、打診法を世に広めるのに努力した。それと同時に、生前の打診所見と、死後の剖検結果との対応研究を行うことで、打診法の科学的根拠を確立した。

 

 病院医学の誕生5.jpgコルヴィサールの弟子であったラエンネックは、聴診法の発明者として特に有名である。心臓や肺の聴診は、それまでは、医師が患者の胸壁に直接耳を当てることで行っていたが、ラエンネックは、偶然紙を丸めた筒で聴診すると、直接胸に耳を当てて聞くより遥かによく心臓の拍動を聴診できることを知り、聴診器を発明した。彼はこの聴診器を用いて、患者の心音や呼吸音の聴診所見を克明に記録し、この所見と病理解剖所見とを比較しながら、聴診法による診断学を確立していったのである。彼ら2人が広めた打診法と聴診法は、いずれも病理解剖所見との対比という方法により、誰もが納得できる科学的な臨床診断法となった。これらの客観的所見に基づいた臨床診断法の確立により、臨床診断は、単なる推測から確定へと変容を遂げたのである。このような研究を可能としたのが病院医学であることを考えると、病院医学の確立こそが近代医学の発展を促したと言うことができよう。

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