その4 医学教育の場としての病院

その4 医学教育の場としての病院

2013.5.13 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 長い間にわたって、臨床医学の教育は徒弟制度によって行われていた。大学医学部、あるいは医科大学は、医学研究者である教授たちが、医学の理論を伝授する場であり、医療実践の場ではなかった。大学で講義される医学は、ヒポクラテスやガレノスといった古代の医学理論であり、使われる用語もラテン語であった。臨床の実践力を学ぶための臨床教育は、医療を実践している医師のもとに弟子入りして、その診療の手伝いをしながら受けるしかなかったのである。そんななかで近代的な臨床教育の実践を始めたのは、オランダ、ライデン大学のブールハーヴェ(Herman Boerhaave: 1668-1738)であった。彼は、12床の病院において、臨床医学の教育を行った。病院を医学教育の場とするというこの新しい考えは、ヨーロッパ中に広まっていったが、国家政策としてこれを成し遂げたのは、フランス革命である。しかし、その基礎は、革命前のアンシャン・レジーム時代末期に、既に築かれていた。

 

 病院医学の誕生4.jpgパリのシャリテ病院(今は廃止されている)のデボア・ドゥ・ロシュフォール(Louis Desbois de Rochefort: 1750-1786)は、1780年から病院での臨床教育を始めた。これに倣って、1787年から、オテル・ディユー病院の外科医ドゥソー(Pierre-Joseph Desault; 1738-1795)も、病院での臨床教育を開始した。しかし、これに対しては、当時のオテル・ディユー病院で看護の任に当たっていた尼僧たちから、大きな抵抗があった。若い医学生たちが病院に入り込むことによる風紀の乱れが懸念されたからである。このような強い反対意見にもかかわらず始められたドゥソーの臨床教育は、瞬く間に大成功をおさめ、400名もの医学生が集まった。半世紀以上前に始められたブールハーヴェの医学教育の理念は、こうしてパリにおいて、大規模な形で受け継がれることになったのである。そして、彼の行った臨床教育からは、後のフランス医学を背負って立つことになる多くの優れた人材が輩出した。

 

 革命後しばらくの間、医療は資格を問わぬ自由業となり、公的な医学教育は中断されていたが、これによって生じた医療レベルの低下を憂えたフルクロア(Antoine François de Fourcroy: 1755-1809)らの意見書に基づき、1794年、国民公会はパリ、モンペリエ、ストラスブールの3箇所に、国立の健康学校(École de Santé)、すなわち新しい医学校を設置することを定めた。この新しい医学校の基本をなすのは、病院を教育の場とした実践的な臨床医学の教育であり、もちろん使用される言語はフランス語であった。教育の場で重視されたのは、フルクロアの意見書に書かれていた「少なく読み、多く見、多く行え」であり、その象徴として、解剖学実習が特に重んぜられるようになった。

 

 健康学校の教授は、競争試験によって選ばれる専任職であったが、基本的には臨床医であり、プライヴェート診療を行っていた。学生も入学試験によって選抜され、入学後も定期的な筆記試験、および口頭試験によってふるい落とされた。入学後の競争は激しく、パリの健康学校に入学する2,000人ほどの入学生のうち、卒業できるのはわずかに300名程度であったという。

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