その3 医療革命としてのフランス革命

その3 医療革命としてのフランス革命

2013.4.29 update.

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岩田 誠(いわた まこと)

東京女子医科大学名誉教授、メディカルクリニック柿の木坂院長。
「人」に対する興味に端を発して、東京大学医学部へ入学。その後、東京女子医科大学神経内科主任教授、同大学医学部長を歴任し、現在に至る。人を「観る、診る、視る」神経内科医。

文学や音楽といった芸術にも造詣が深く、著書も多数。主なものに、『神経内科医の文学診断(白水社)』、『見る脳・描く脳(東京大学出版会)』、シリーズ『脳とソシアル』などがある。

 1789年に起こったフランス大革命は、フランスの社会構造全体に大きな変化を与えたが、なかでも最も目覚しい変革を成し遂げたものの1つが、国家政策としての医療の改革であり、その中心をなすのは、病院を強化し、これを医療と医学教育の中核と位置づけたことであった。実は、この国家政策は革命前のアンシャンレジーム末期から徐々に進められつつあり、前回紹介したトゥノンの病院調査も、そのような病院改革政策の1つとして行われたものであった。この病院改革の基本政策には、オテルディユー病院やシャリテ病院のような古くからある病院の改善・拡張、これらの病院の福祉施設あるいは刑務所からの分離、そして規模の小さな新病院の建設などがあった。この病院改革政策は革命政府に引き継がれ、1790年に、病院は全て国家財産となった。1793年、フランス共和国の国民公会(Convention Nationale)は、貧民と病人は国家によって公的に保護される権利を有することを保障する法令を出した。また、国家に没収された修道院のうち、聖アントワーヌ僧院、ヴァルドゥグラ-ス僧院、病院医学の誕生3.jpgポールロワイヤル尼僧院を病院に改組して、それぞれ、聖アントワーヌ病院、ヴァルドゥグラ-ス病院、そしてマテルニテ産院とした。このような病院改革は、その後1795年~99年の総統政府(Directoire)、そして1799年以後の執政政府(Consulat)に引き継がれ、国家政策として確立していった。この改革の推進役として大きく貢献したのはシャプタル(Jean-Antoine Chaptal: 1756-1832)である。

 

 1800年、統領ナポレオンの下で内務大臣になったシャプタルは、農民の出であり、医師であると同時に化学者でもあった。彼はパリ病院の人事を中央集権化し、またエクステルヌとアンテルヌの制度を創設した。エクステルヌは病院外から通う臨床実習生、アンテルヌは病院内住み込みの研修医であり、いずれも統一競争試験によって採用するようにした。すなわち、病院を臨床医学教育の場とする組織改革を行ったのであり、この制度は今日に至るまで続いている。彼は、病院の衛生環境の整備、病院における中央製パン所や中央薬局の設置に力を注ぎ、また、病院における看護の担い手として、革命以後排除されていた女子修道会からの看護婦の動員を行った。

 

 このような病院改革によって、パリの病院環境は一変した。かつては1つのベッドに何人もの患者が収容されていたオテルディユー病院においても、1795年以降は、1床1患者の原則が守られるようになり、死に場所としての古い病院の姿から、治療の場としての近代的な病院へと変容していった。この一連の病院改革政策の中でも最も重要なものは、外科医の地位向上である。それまで、内科医に比して外科医の地位は低く、病院内に住み込んでいる外科医は居なかったが、この病院改革以後は、外科医と内科医は病院内で同等の権利を持つこととなり、それによって実現した外科学の発展が、医療技術と医学研究の進歩、そして医学教育の近代化に大きく貢献することになったのである。

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