かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2012.4.27 update.
1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)他多数。最新刊は『さよなら、お母さん――墓守娘が決断する時』(春秋社)。
ある日突然カウンセリング予約がぱったりと止まったとしたら……。
おそらくその瞬間から私たちのセンターは、徐々に経済的破綻に向けて滑り落ちていくだろう。いまだに私はそんな恐怖から自由になれないでいる。
しかし、その恐怖を抜きに、クライエントに対する私の姿勢を語ることはできない。
●三時のあなた
講演先やマスメディアの人たちにこう言われることがある。
「講演で全国飛び回ってたいへんですね」
「その合間を縫って本を書いてらっしゃるんですか?」
何度も繰り返されてきたため今ではその誤解を訂正する気力も失せるほどだが、やはりちゃんと書いておこう。
私の日常業務は、原宿カウンセリングセンター(以下センター)に週四回勤務することである。多いときは、一日に八ケースほどの個人カウンセリングを実施し、曜日によってはさらに二時間のグループカウンセリングを二つ実施する。
九時過ぎまでの夜間のグループとカウンセリングを月二回、日曜出勤も月一回。こうしてウィークデイの昼間に来られないクライエントにも対応している。
年齢不相応な働きぶりには、書きながらため息が出るほどだ。
その合間を縫って講演に出かけるので、日曜はすべて講演や学会関連の理事会でつぶれてしまう。したがって原稿を書くのはほとんどが深夜にずれ込み、しらじらと夜が明けるころに原稿を添付した編集者宛てのメール送信ボタンを押すことになる。
ある知人は、メール送信時刻から、私のことを「三時のあなた」と呼ぶ。
●客集め? そのとおり
そこまで働くのはいったい何のためかと聞かれれば、こう答えるだろう。
いちばん大きな理由は、センターという会社組織が維持されるためだ。スタッフ十六名の生活のすべては私にかかっているという責任意識は、開設以来、片時も頭から離れたことはない。
全員に賞与を支払い、社会保険を完備し、可能であれば毎年昇給すること。そのために弱小企業においては、社長がいちばんよく働くものと決まっている。
しばしば言われる「クライエントのニーズに応えるために」という決まり文句は、表向きの理由にすぎない。何よりもまず、クライエントが訪れなければニーズに応えようもないし、経済的基盤は容易に崩れてしまうだろう。
ひとりでも多くのクライエントが来談すること、つまりお客さんを集めることが経済的基盤づくりには必須なのだ。
どれだけセンターのあの狭い部屋の中で一生懸命カウンセリングの質を上げたとしても、クライエントがただちに増えるわけではない。徐々に評判が上がることはあるだろうが、その前に経営破綻をきたすことは明白だ。
じっとクライエントを待っているのではなく、積極的にセンターの外に打って出ることが必要だった。そのために一九九五年の設立当初は、どのような講演依頼もすべて引き受けた。
センターの名前が聴衆の記憶に残ることを願い、そのひとたちの中からカウンセリングを予約する人が出てくることを期待した。講演の終わりにはホワイトボードにセンターの電話番号を大きく書くのが常だった。
マスメディアへの露出もいとわなかったのは、私個人ではなくセンターの知名度を上げるためだった。テレビ出演は、所属名をテロップで流すことを条件に承諾した。
幸いにも機会を与えられて今日まで多くの本を出版することができたが、必死で本を書いてきたモチベーションの多くは、センターの存在を知らしめることでカウンセリングのニーズを掘り起し、未来のクライエントを獲得するためだった。
著書の出版はセンターの社会的認知度を上げ、公的機関や医療機関からの社会的信頼を勝ち得ることにつながった。精神科医からコンスタントに紹介があることは、センター運営にとって大きな安心材料となっている。
●露悪のプライド
「要は客集めなんですね?」
「じゃ、お金のためなんですか?」
そう聞かれれば、私は胸を張って答えるだろう。
「Yes」と。
このような発言が誤解を招きかねないことは知っている。これまでに周囲から何度もたしなめられ、注意を受けてきた。ネット上でも「信田さんは結局お金のためなんだ」などといった発言を目にすることもある。それでもあえて露悪的とも思える表現を用いるには理由がある。
国家資格でもない臨床心理士による開業心理相談機関が、十七年間も生き残ってくるのは至難の技だった。これからもいばらの道が続くことは間違いない。
おそらく医療機関という保険制度に守られたシステムの中で仕事をする人には想像もできない厳しさなのだ。
多くの精神科クリニックが、一人あたりの患者さんに割く時間の目安を決めているといわれる。それほど多くの患者さんが受診すること自体うらやましくもあるが、精神科医たちはわざわざ「お金のため」などとは言わない。受診する側も、クリニックの治療内容が充実していれば、経済原則を前提としていることにそれほど抵抗感を抱かない。
医療経済学という領域が存在するように、医療は治療行為の裏側に冷徹な経済原則を秘めていることが社会的に承認されているのだ。
私の発言が批判的にとらえられたとすれば、それは、従来は精神科医しか存在しなかった領域に参入した新参者である証明なのかもしれない。
これまで開業という言葉は、ほとんどが医療機関のことを想定していた。業種として市民権を獲得していないために、どこかボランティア的な善意を期待されており、お金という言葉とはそぐわないと考えられているせいかもしれない。
このような状況に切り込んでいくために、私はあえて「お金のため」という露悪的な表現を用いてきた。そこには屈折したわずかのプライドがこめられている。
繰り返すが、倒産してしまっては元も子もない。存続することが必要条件なのである。
●カウンセラーのオン/オフ感覚
さて、二回目以降のカウンセリングは、初回のような位置取りをめぐる緊張も少しほぐれてくる。それに伴って、会った瞬間にクライエントに対する勘も働くようになる。前回との比較が可能になり、私にも少し余裕が生まれるからだろう。
表情や体つき、姿勢などから、疲れているな、ひどく調子が悪そうだ、きらきらして元気だ、何か言いたいことがあるようだ、といったメッセージが伝わってくるのだ。その勘はたいてい外れることはない。
ところが、プライベートな関係においては、私の勘はそれほど働かない。仕事が終わってからは、頭のモードがまったく別のバージョンに切り替わってしまう。人によっては、こんな鈍感な人がカウンセラーなのか、と驚いてしまうだろう。
カウンセリング場面において作動する感覚は、私にとって一種の商売道具なのであり、仕事以外の時間は無意識に休ませているのかもしれない。カウンセリングとそうでないときを分けて、オンとオフの切り替えが自在にできるようになることが、カウンセラーとして長持ちするコツなのかもしれない。
そうでなければ、おそらく一日でダウンしてしまうだろう。それほどまでに、カウンセリングは何かを疲労させる。
ではいったい何が疲労するのだろう。カウンセリングを一日八ケースも実施すると、私の何が疲れるのだろうか。
●「共感疲労」ではない
各地で講演をするたびに、フロアからほぼ毎回のように出る質問がある。
「重い話ばかり聞いていてストレスがたまりませんか?」
「つらい話を聞くと自分までつらくなってしまいませんか?」
ああ、またか……と内心で嘆息しながらこう答える。
「カウンセラーとして疲れることはありますが、たいてい頭が疲れるんですね。つらくなったりストレスになったりすることはほとんどありません。ありえないくらいつらい話を聞くと、かえって元気が出てきたりするんですね。やっぱり私ってヘンなんでしょうか?」
会場には笑いが走り、質問した人もなんとなく納得した様子で終わる。
この質問は、カウンセラーである私に対して当たり前に抱く疑問だろう。一般的には、カウンセリングは共感をするものだと考えられている。共感という以上、目の前のクライエントの苦しみやつらさを追体験すること、できる限り同じつらさを感じてわかってあげることだと考えられてきた。どのカウンセリング講座に参加しても、共感と傾聴が必須であるとされる。
しかし、私は共感しなければならないと考えたことはない。
クライエントの気持ちをわかろうとか、クライエントの身になって考えようなどと思ったこともない。
私が疲れるのは共感しすぎたり、気持ちがわかったりするからではない。
いくつかのハードルを越えて来談したクライエントは、さまざまな感情の渦の中にあったり、自分の感情をうまく把握できなかったりする。感情と名づけていいのかわからない塊【かたま】りに押しつぶされそうになっている。家族の誰かを憎んだり、殺したかったり、そのことで罪悪感にさいなまされていたりする。
私は、それらを「感情」と名づけて焦点を当てるのではなく、クライエントが抱えている「問題」を、まるで映画の場面のように頭の中で再現したり、言葉で物語的に表現できるようにするのだ。
●映画のシーンを組み立てるように
これまで会ってきたクライエントは膨大な数にのぼる。以前は十年以上経ったクライエントの名前をすべて記憶していたし、そのひとがどんな問題でカウンセリングにやってきたかもすらすらと言うことができた。
加齢によってさすがにレベルダウンしたが、この三年以内に一度会ったクライエントについては、相談記録に目を通さなくても暗記している。カウンセリングにやってきたその人について、私の記憶のファイルからただちに取り出すことができること。このことも、「共感」の中に含まれるのではないだろうか。
それは単に記憶力の問題ではないように思う。六十代半ばの私にそのような能力が残っているとは思えない。クライエントの語る内容の聞き方にポイントがあるのかもしれない。
私にとって重要な要素は、その人の住所である。
○○県、○○区、○○町という住所は、想像の世界を具体化するものである。どんな家に住んで、どの駅から何分くらいか、緑は残っているか、鉄道は何線だろう、といった具合に、目の前の人の登場する映画のシーンを組み立てていくのだ。
息子の暴力で困っている母親であれば、部屋の広さ、息子の身長までも想像する。まるで映画監督になったかのように話を聞きながら場面を次々と展開させていく。その際、場面としてはっきりしなければ、そこを質問する。
「どんな言葉で責めるんですか」
「え~っ、バカラの食器も割っちゃうんですか?」
といった問いかけで、私の頭の中の映画・ドラマの場面は立体的になる。
クライエントは質問されることで、自分の経験にカウンセラーが真剣に関与しようとしていることを感知するだろう。これまで夫からも関心を払われることのなかった息子からの暴言を、カウンセラーはこれほどまでに関心をもって聞こうとしていると感じれば、彼女の語りは促進されるはずだ。
●すべては住所から
私の構成した現実(リアル)とクライエントの生きている現実とが、少しずつ重なり始めることが、クライエントを「わかる」ことであり、クライエントが「共感」されたと感じることにつながるだろう。これがカウンセリングの基礎であり出発点となる。
その作業のすべては、クライエントの住所から出発する。
紅茶の香りを嗅ぐことから始まる長い物語があるように、「○○区○○町に住んでいた××さん」と言われれば、すぐさま私の記憶のファイルが開きその人の問題と経過がするすると登場してくる。私にとって、クライエントの住所が記憶のファイルを開くパスワードなのかもしれない。
逆に言えば、クライエントの話を、住所にまつわって浮かび上がる光景とともに繰り広げられる映画のあらすじとして再構成できるくらいにじっくり聞かなければ、カウンセリングを始めることはできないのだ。
(信田さよ子「カウンセラーを見る」第6回了)