第5回 初回、一瞬の勝負

第5回 初回、一瞬の勝負

2012.3.30 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)他多数。最新刊は『さよなら、お母さん――墓守娘が決断する時』(春秋社)。

 

 

「○○さんですか、どうぞこちらにお入りください」

 

初回に出会うクライエントとのカウンセリングの場合、にっこり笑いながらこう言って面接室に案内する。その部屋はかなり狭い。さまざまな公的機関(たとえば男女共同参画センターや精神保健福祉センター)の相談室の写真を見ると、私がいつも使っている部屋の四~五倍はある広さだ。心底うらやましく思う瞬間である。

 

ビルのワンフロアを借りているのだが、私たちのカウンセリングセンター(以下、センターと略)には、カウンセリングのための部屋が、全部で四つ、それに加えて、応接室、ミーティングルーム(グループカウンセリングやセミナーを実施する)、スタッフルームがある。その中で一番狭い部屋を私は使っている。

 

●カウンセリングの部屋はなぜ狭い?

 

私の使う面接室には、向かい合った二つのゆったりしたソファ、その間に置かれた小ぶりなテーブル、入り口脇に置かれた荷物置きの小机、そして電話台が配置されている。細長いその部屋は、これだけでほぼいっぱいになってしまう。ドアを開けると、ソファとぶつかりそうになるほどだ。

 

狭い理由は単純だ。九五年に開設してから五年後に、大幅に改装して面接室をひとつ増やしたからである。スタッフ数と来談するクライエントの数さえ確保できれば、部屋数が多いほど収益も上がる。その結果、部屋の面積が狭くなった。

 

現在は、事務スタッフが四名、臨床心理士であるカウンセラーの数が十二名である。常時出勤しているのは少なくても四名であり、フル稼働すれば、五ケースのカウンセリングを並行して実施できる。そうすれば、一日当たりのカウンセリング料金収入はそのぶん多くなるし、何より肝心なセンターの経営も安定するというわけだ。

 

センターが借りているワンフロアの賃料は、場所柄かなりの高額である。神宮前という地名のバリューは、この不況下でもそれほど下がらない。できれば今の一・五倍の広さのビルを借りたいが、原宿では経済的に到底無理である。立地条件さえ無視すればもっと安い賃料のビルを借りることもできるだろうが、センター名に原宿という地名を冠している以上、今ある場所を離れるわけにはいかない。

 

 

●どちらがくるくる回るのか

 

部屋の大きさ、机の配置、何を置くかといったことについては、それほど定説があるわけではない。開業心理相談の同業者のホームページを見ると、各機関がそれぞれ個性的なインテリアを施している。

 

フロイトの分析室には寝椅子(カウチ)が置かれていたのだから、かなり広かったのだろう。アメリカ映画によく登場する精神分析のオフィスには、ぎっしりと書籍が詰まった本棚と、大きくて雑然としたデスクが置かれている。××療法を学ぶためのアメリカ製のDVDでは、たいていセラピストとクライエントが斜め六十度に向かい合って、革張りのゆったりした椅子に座っている。

 

カウンセリングにおいて、クライエントと向き合う角度を自由に変えることができると、今より少し楽に感じられるのだろうか。ソファではなく、くるくる回る椅子に座れば、正面から対面することもできるし、九十度回転して横顔を見せて記録を書いたり、斜め四十五度に座ることも可能だ。

 

しかし、このように角度を変えることのできるのは、カウンセラーの側であることは注意しなければならない。多くのクライエントの椅子は角度を変えることができず、一方向を向いている。つまり角度を操作する権限はカウンセラーだけにある。

 

精神科医の多くは、デスクにパソコンを置き、回転する椅子に座りながら患者さんに問診しながらその内容を打ち込んでいく。合間を縫ってときどき患者さんの顔を見る、というのが多くの精神科クリニックの現状だろう。大病院を中心に電子カルテが導入されて以来、このような光景が一般化したことはあまり知られていない。

 

外来の診察時間は極めて短く、某クリニックは十分以内に切り上げるのが方針だという。医師によっては十五分くらいかけることもあるらしいが、いずれにしてもパソコン画面と患者さんの両方を見ながらの診察である。だから椅子はくるくる回らなければならないし、そんな椅子に座るのは医師だけである。

 

センターは医療機関ではないので、相談記録はあってもカルテは存在しない。電子カルテの必要もないので、パソコンに打ち込みながらのカウンセリングなどありえない。私とクライエントは、ソファに座ることで正面から相対することになる。

 

もし部屋のスペースに余裕があり、私もクライエントもくるくる回る椅子に座っていたらどうなるだろう。最初に「椅子を自由に回してくださっていいんですよ」と断っておけば、だんだんリラックスしてきたクライエントが椅子の角度を自由に変えるようになるのかもしれない。二人でくるくる回ったりする光景を、ときどきふっと想像したりすることもある。

 

●時計とお辞儀のヒミツ

 

二つ置かれたソファは、落ち着いた赤とグレーのツートンカラーである。

「お掛けください」とクライエントに勧め、先に座るのを見届けて、私は二~三秒後にソファに腰をおろす。クッションは適度な柔らかさで、ときには朝から計六時間以上も座ることになるが、腰に負担がきたことはない。

 

私の正面、クライエントのうしろの壁には時計が掛かっており、クライエントの正面の壁には油絵が一枚掛かっている。この配置にも意味がある。

 

クライエントから時計は見えないのは、時間を気にせずにいられるようにとの配慮である(なかには気にして自分の腕時計を外して置きながら話す人もいる)。なぜなら、カウンセリング時間をコントロールする責任はカウンセラーにあり、クライエントにはないからだ。カウンセリングの流れをつくり、全体が決められた時間内に収まるようにするのは、カウンセラーの役割である。

 

視線をそれほど動かさず、時間を気にしているという気配を見せずに、クライエントの背後の時計によって時間を測ることは、私が毎回心がけていることである。

 

カウンセリングにおいて、面接時間は生命線ともいっていい。

一時間もしくは三十分を正確に守らなければならない。カウンセリングの料金は時間に対して支払われる。時間延長するクライエントとそうでない人との間には、明らかな不平等が発生するだろう。そのことでクレームがつけられても仕方がない。

 

できる限り、予約時間きっかりにカウンセリングを開始し、三十分、もしくは一時間できっちりと終了すること。クライエントを待たせないこと。なおかつ内容的にもクライエントの満足を得ること。これらをすべて実行できなければ、プロのカウンセラーとはいえず、料金をクライエントからいただく資格はないと考えている。

 

「○○さんでいらっしゃいますか? 初めまして」

 

ソファに座ったクライエントの目を見ながら、笑顔でこう言う。そして「信田と申します」と頭を下げる。

 

初対面の人の場合、一般的には自分が相手の目にどう映っているかが気になるものだ。クライエントから見て、「ああ、信田さんって実際こんな雰囲気なんだ」「へえ、やっぱり年だなあ」……などと思われるのではないかと今でもびくびくするのだが、実際にはそんな人は少ないものだ。

 

●クライエントは何も見ていない

 

クライエントには目的がある。自分の困っている問題をなんとかしてほしい、なんとかしたいという動機があり、そのために高額な料金を支払って、時間と労力を使ってまで原宿にやってくるのだ。

 

センターに到着してからカウンセリング開始までの待ち時間に、私に話すことを準備しながら、どの人もかなり緊張しているに違いない。私の外見や雰囲気に対する関心よりも、こんな自分がどのように信田の目に映っているか、この問題が「わかってもらえる」だろうか、果たして使えるカウンセラーかどうか、といったことがクライエントの関心の大部分なのである。

 

センター全体が醸し出す雰囲気を大切に思っているので、数年に一回リフォームすることにしている。床や壁紙を張り替えたり、椅子の色を変えたりするのだ。壁に掛けた絵も、入念に選ぶ。できるだけ意味やメッセージ性のある絵は避け、明るすぎもせず暗すぎもしない絵を選ぶと、必然的に風景画になってしまう。

 

ある日、待合室の正面の絵を交換したのだが、そのことに気づいた人はほとんどいなかった。このことには驚かされた。クライエントは、自分の問題で精いっぱいな状態なのであり、外界に関心を持つ余裕などないのだ。関心は外部ではなく、他者の目に映った自分も含めて、ひたすらそのベクトルは自分に向いている。

 

これまでのクライエントで絵に関心を示したひとは数名しかおらず、よほどのプロでもない限り、飾ってある絵に関心を払うことはない。今では、壁に飾る絵を交換しなければという気持ちを抱くことは少なくなった。

 

●私が限界を感じるとき

 

私が丁寧にお辞儀をし、「今日は遠いところからお越しいただきありがとうございました」と言うと、多くのクライエントは意外な顔をする。

 

医療機関しか利用したことのない人ほど、そのような対応に驚かれるのかもしれない。患者様と呼びながら、特に精神科医は、患者からみれば高圧的と思われる対応が珍しくないのが現実だ。私の丁寧な対応は、そのことを意識しているのは事実である。

 

その対応には、もうひとつの理由がある。

 

三十代で本格的に個人カウンセリングを始めた私は、しばしば女性のクライエントから値踏みされることがあった。「あなた、結婚してらっしゃるの?」と聞かれることは珍しくなかった。「はい」と正直に答えると、さらに畳み掛けるように「じゃ、お子さんは?」と尋ねられるのだった。

 

中年の男性クライエントの中には、わざと難しい言葉を使用しながら私の知力を値踏みする人もいた。精神科病院勤務のころ多くの男性患者さんからそんな扱いをされたことがなかったのは、私が精神科医を頂点とする医療のヒエラルキーの中に位置していたからだということに、そのとき初めて気づかされたのだった。

 

医療を離れてクライエントと対峙したとき、初めて私は、ひとりの経験の浅い三十代の女性カウンセラーとしてクライエントの目に晒されることになった。そのことが私を成長させてくれたのだと思う。

 

六十代半ばという年齢だけでも、多くのクライエントにとっては「人生経験の長さ」という権威をもたらす。カウンセラーとは、年齢を重ねることが価値を高める職業なのだ。それに加えて、私が何冊か本を書いていることもクライエントにとっては権威となる。センターを知るきっかけが拙著であるというクライエントはとても多いのは事実だ。

 

このようにして、私が望んだわけではないのに、いつのまにか多くのクライエントに対して私はカウンセラーとして権威性を帯びるようになってしまった。

 

私が限界を感じるのは、自らの非力や老いによる疲労ではなく、このような外部から与えられてしまった権威性を痛感するときである。「ああ、もうだめかもしれない」とつぶやくことがこのところ増えてきたのは、そのせいだと思う。

 

●仰げば尊し

 

眼の前に座ったクライエントは、私を「仰ぎ見る」という位置をとる。私からすれば、そんな立ち位置を取られてしまうのだ。

 

仰ぎ見られるという立ち位置ほど私を居心地悪くするものはない。プライベートにおいてもそれは変わらない。仰ぎ見られる高い位置へと追いやられ、相手を見下ろさなければならないのだ。そのことがもたらす不安と恐怖は私に根深い。状況的にどうしてもそうせざるをえないときは、持ち前の演技力を発揮し、「偉そう」な態度をとりつつ仰ぎ見られることに耐えるのである。

 

このようなクライエント位置取りを瞬時に感知すると、私はことさら丁寧に頭を下げて来談したことのお礼を言うのである。私とクライエントとのあいだの高低関係が、これによって少しでも水平に近づくように、あえて私の位置を下げるのだ。家族療法にはワンナップ(one up)ワンダウン(one down)という用語があるが、とにかくワンダウンを心掛けるのである。

 

しかしながら逆に、私に権威性を感知するからこそ、クライエントのほうがワンナップの位置を取ろうとする場合もある。私というカウンセラーの権威性を認めてしまったら、果てしなく依存したくなり縋(すが)ってしまうに違いない、そんな自分を怖れるあまり、とにかく私を査定してやろうというワンナップのポジションを取ろうとするのである。そんな人ほど、やっかいなことに、どこかで私というカウンセラーがぐっと自分を押さえつけてくれないだろうかという期待を強く持っていたりする。

 

ワンナップの位置取りをして偉そうな態度をとるクライエントに対して、カウンセラーが腹を立て批判したり押さえつけようとしたらどうだろう。もしクライエントがクレームをつければ、そんな態度はあってはならないものであり、明らかにカウンセラーの側に非があるのだ。反対にそんなカウンセラーだからこそ、一転してワンダウンの位置に転ずることで、べったりと依存することもできる。

 

このようなクライエントの場合、私は決してワンダウンの位置を変えず、ひたすらクライエントを仰ぎ見る立場に徹するようにする。カウンセラーの動きや位置取りは注意深く観察されているので、私がワンダウンの位置を取り続けることはすぐに感知される。そのことで、私というカウンセラーを「なかなかやるじゃないか」と評価するクライエントもいれば、なかには腹を立ててしまうクライエントもいる。

 

カウンセラーは偉くなければならないと考えていれば、私のやっていることはその期待を見事に裏切るだろう。私がワンナップの立場を取らないのは、依存させてくれないことになり、見方によってはクライエントに対する意地悪になるのである。

 

●何がカウンセラーの敗北か

 

今述べていることは初回のカウンセリングに限定しており、その後継続してカウンセリングを実施していく過程で、私がワンナップの位置に上ることもある。それが必要になることもあるからだ。しかしながら、初回のカウンセリングにおいては、ワンナップは極力避けるというのが私の原則である。

 

なぜなら、権威という力を利用して目の前に座っているクライエントに何かを伝達しようとすることは、カウンセラーとしての敗北だと考えるからだ。

 

たしかに水が低きに向かって流れるように、力を利用すれば簡単にクライエントを依存させることはできる。その気になれば、カリスマ教祖的存在になることだって不可能ではない、と思う。しかし、そこに生まれる支配と依存関係は、カウンセリングの中心となる「言葉」の力を削ぐものであろう。

 

仰ぎ見ることによって生まれる関係性は宗教的な信仰にも通じ、スピリチュアルという言葉にあらわされるように、カウンセリングにおける宗教的要素は重要なポイントであることは否定しない。しかし、私が実践するカウンセリングは、宗教と一線を画さなければならないし、力の行使に対して最大限自覚的でなければならないと考えている。こだわりすぎと思われるかもしれないが、私のカウンセラーとしての基本はそこにある。

 

なかでも、初回のカウンセリングはすべての出発点となるからこそ、原則を守りたいと思う。クライエントと初めての出会いは、一瞬のうちにすべてが見えてしまうような恐ろしさをはらんだ場でもある。

(信田さよ子「カウンセラーを見る」第5回了)

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