かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2012.2.17 update.
1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)他多数。最新刊は『さよなら、お母さん――墓守娘が決断する時』(春秋社)。
カウンセラーとしての私を語るとき、どうしても外せないことがある。精神科医療と私との関係である。
それは個人としての私というより、カウンセラーとしての立ち位置や、立っている足元の構造を説明する際に不可欠だからだ。そのためには、原宿カウンセリングセンターを設立した当時の状況に立ち戻らなければならない。
●私の来歴――ささやかな美学から
あの精神科病院に五年間勤務した後、二八歳で退職した。本連載では個人史を書くことが目的ではないので、くわしい退職前後の事情は省略する。それから一〇年間、私は二度の出産と育児というライフイベントによって大きく影響され、パリに二年間住むという経験もした。
一方で、アルコール依存症の単身男性で生活保護受給者を対象とした社会復帰施設や、東京都の保健所で主催されていた「断酒学校」で、細々と非常勤心理職として働き続けた。いずれもグループ活動をメインとしていたが、病院の中では見たこともないアルコール依存症者の別の顔を知ることができた。そして、保健所においてはアルコール依存症者の妻に、社会福祉施設においては当時日本では勃興期だったAAに、リアルに触れることができた。今でもそれらは、心理臨床家としての一つの財産である。しかしそのころの私は、まだ自分のことをカウンセラーと定義していなかった。
正確に述べれば、私のカウンセラーとしての経歴は一九八三年に始まる。
当時三七歳であった私は、一人の精神科医の誘いをきっかけに、ある民間のカウンセリング機関に勤務する決断をした。アメリカで当時いくつか誕生していたパラメディカルスタッフ主導の相談機関をモデルに、その精神科医が主導して立ち上げたものである。精神科病院における強固なヒエラルキーを体感していた私にとって、医療の外部で、アルコール依存症、それも女性の依存症者にかかわることができるというのは大きな魅力であった。
それから一二年の間、アルコール依存症に始まるさまざまなアディクション(嗜癖)問題の本人・家族との出会いを経験することになる。
そのあいだに、第二子である長女は五歳から一七歳に成長した。仕事を続けながら、育児や家事との格闘を迫られる時期でもあった。
これまで私は、私生活について述べることを控えてきた。オーバーな表現かもしれないが、それは私なりの「美学」である。私の売り物は別のところにあるという、どこか傲慢な考えと、古臭いと言われるかもしれないが、プライベートな事情を開示することが「仕事上のハンディを付けてくれ」という要求につながるのではないかという危惧があった。
育児や家事の大変さを、ことさらに強調することは見苦しいと今でも思っている。だから、書けば膨大な量になるほどの苦労はあるけれど、やはり本連載でもその美学を貫こうと思っている。
●ある創世記の物語
今から約一六年前の一九九五年一二月一七日の日曜、原宿カウンセリングセンターのオープンが翌日に迫っていた。
他のスタッフにオープンのための準備をすべての任せ、神戸での学会に出席していた私は、帰りの新幹線の車内でひっきりなしの腹痛を覚えた。なんとか我慢して帰宅した途端に、猛烈な吐き気と悪寒に襲われ、夜間救急外来を受診した。注射を打ってもらい、薬を飲んだ私は泥のように眠った。
明日だけは、何があろうと這ってでも原宿に行かなければと夢の中で念じたのが通じたのか、翌朝目覚めたとき、憑き物が落ちたようにすっきりとした気分が戻っていた。
一二月一八日の月曜、冬の朝の日差しは弱々しかったが、師走の寒さに身が引き締まる思いだった。記念すべきオープンの日、心なしか足取りも軽く、私は初めて原宿カウンセリングセンターに出勤した。
どのような国も、宗教も、はたまた会社にも、必ず創成期の物語が存在する。どれほど歴史が短かろうと、その物語はどこか神話化されており、そこに属する人たちすべてに共有される。出エジプト記、パリサイ人を見るまでもなく、石持て追われたひとたちが新たな土地で生き始める際の迫害の度合いが大きければ大きいほど、その神話は強固なものになる。私たちも同様だった。
●二人の精神科医の傘の下
前の職場は、精神科医Aの所有するビルの二階にあった。最上階には彼の経営するクリニックがあった。
カウンセリングの業務内容は、定期的カンファレンスも含めて、精神科医Bの指導のもとに実施されていた。勤め始めた当初は女性のケースワーカーが所長だったが、彼女に経営権はなく、いわば雇われ所長であった。実質的な経営者は、精神科医Bの妻だった。
数字に疎い私は、当時そのような経営形態にはほとんど関心がなく、来所するクライエントの多様さや多彩さに心躍らせていた。途中から私が所長となったが、同じく経営的権限のないことに変わりはなかった。
言ってみれば、私たちスタッフは、ビルのオーナーである精神科医Aと、臨床プログラムや方針を決める精神科医Bの二人の采配に左右され、支配されていたのだった。そのような構造に不満がなかったと言えば嘘になる。しかし、朝令暮改のような方針の転換に右往左往しながらも、自分から辞めなかったのには理由があった。
二〇代から勤務した精神科病院に始まり、アルコール依存症にかかわり続けてきた私にとって、精神科医療はすぐ傍らの身近な世界であった。その過程で多くの精神科医との知己も得たが、彼らの多くが風変りで、ときには暴君といえる人たちだった。
二人の精神科医によって、経営や運営方針を実質支配されていたことにそれほど痛痒を感じなかったのは、そのせいだったのかもしれない。他の世界を知らなければ、今ある世界がふつうなのだと思い、それに慣れていくからだ。ときどき医療機関で仕事をしている人に出会うと、この人にとって医療とは空気のようなものなのだと思わされる。当時の私も、それ以外の世界を知らなかったために、二人の精神科医の傘の下を出ようなどと考えることもなかったのである。
表向きカウンセリング機関と銘打ってはいたが、今から思えば、実質はどっぷり精神科医療に取り込まれてしまっていた。そのことに、私はどこか安心感を抱いていたのかもしれない。
クライエント数の増減に一喜一憂する事務長の仕事を垣間見るにつけ、経営するということがどれほど大変かを、日々私は感じ取っていた。同僚と「あんな苦労だけはしたくないわね」とおしゃべりしながら、原宿駅まで帰ったことを思い出す。お金の出入りに汲々とするくらいなら、どれほど安くても給与をもらう立場のほうがずっとましだと思っていた。
カウンセリングの予約数がどうであろうと、予定表が埋まっていなくても、私は不安になることはなかった。とにかく臨床の勉強ができればいい、それだけで満足だ、そう考えるようにしていた。
クライエントが待合室で過呼吸発作を起こしたり、不安定になることは珍しくなかったが、同じビルにクリニックがあったので安心だった。いざとなればクリニックに連れて行くこともできたし、ときには医師が出張してくれることもあった。クリニックで医師に注射を打ってもらい、少し落ち着いたクライエントが戻ってきてカウンセリングを続行するということも珍しくなかった。
外部の人が見たら、あのカウンセリング機関はクリニックの付属だと思っただろう。勤務していた私は独立していると考えていたが、あのような安心感はクリニック=精神科医療への依存がもたらしたのであり、それこそが傘の下にあることを表していた。
●エクス・メドへの楽観的な第一歩
詳細は省くが、八人のスタッフ全員が突然そのカウンセリング機関を辞めざるを得なくなり、彼女たちから懇願されて、私は新たに開業することを決断した。それは二人の精神科医との決別を意味した。彼らから見れば、私が「離反」したのであり、だからこそ排斥し「叩き潰し」たいと願ったとしても不思議ではない。
あの決断は、今から思えば「脱医療」のそれだった。こんな英語があるかどうかわからないが、まさにEx-medicine(エクス・メド)と呼ぶにふさわしい。
当時の私に展望があったわけではない。それはどこか、三月一一日のテレビで見た津波の映像と似ている。仙台空港の滑走路に音もなく迫ってくる津波の黒い塊と、ひたすら逃げるしかない人々。少しでも高い場所を探して安全を確保しなければと、それだけを考えて移動する人々。
私たちも、とにかく一刻も早く新しい拠点を設立しなければならなかった。ひたひたと迫りくる時間の制限が、いっしょに脱出するスタッフたちの結束を固めた。
資金集め、場所探し、設計、有限会社設立……ありとあらゆる準備の責任は、すべて私の肩にかかることになった。あの三か月間、日常業務のカウンセリングを実施しながら、どのようにして膨大な準備を進めたのか、ほとんど記憶にない。
震災直後から避難所を出るまでの時間をどう過ごしたのか、多くの被災者は覚えていないと語るが、私のあのときの経験と重なって聞こえる。
「あんな苦労したくないわね」と語っていた私が、火中の栗を拾うかのように経営者にならざるを得なくなったのだ。しかしそんな皮肉を慨嘆する暇などなかった。
他に選択肢などなく、進むしかなかった。そのとき思いもかけない力が湧いてきた。その力は根拠のない楽観性に支えられていた。
私の頭の中には、「絶対うまくいく」という確信以外存在しなかった。のちに数えきれないほど襲ってきた苦労の数々を、当時の私の想像力は微塵もキャッチしてはいなかった。いや、しないようにしていたのかもしれない。
スタッフの不安を聞くにつけ、「絶対うまくいくから大丈夫!」と胸を張り、「ええ? うまくいく以外ないじゃない」と笑い飛ばしていたが、それは私の正直な気持ちだった。
●冷厳な数字の前で
それから今日に至るまでの数々の苦労は、エクス・メドに伴う必然的なものだといっていいだろう。私の仕事は根底から変わらざるを得なくなり、それは私の人生が変わることを意味した。精神科医療の外に出ること、エクス・メドとは、それほど大きなことだったのだ。何より大きかったのは、二つの重い責任が生じたことだ。
まず第一に、経営責任がのしかかった。給与を支払い、昇給をし、保険料金を支払う立場になることで、スタッフの生活に対する責任を負った。
私たちの収入源は、クライエントからのセッションフィーだけである。新来のクライエントの数が減れば、そしてカウンセリングの予約数が減れば、見る見る間に収入は減少する。部屋代と光熱費を払い、人件費を支払うだけの収入を確保するためには、セッション数がいくつ必要かを単純計算ですぐ出すことができる。
二〇一二年、設立から一七年目の現在、スタッフ数は一三名である。その人たちの生活がかかっているという責任をひしひしと感じながら、私は今でも仕事をしている。
一九九六年、私は生まれて初めて本を書いた。『アダルト・チルドレン完全理解』(三五館)である。私はすでに五〇歳を迎えていた。よく知人から「遅咲きですね」といわれるが、年齢からみればそうだろう。
しかし、私を執筆に向かわせたのは、来談するクライエントを獲得しなければならないという切羽詰まった状況であった。私の頭の中には次のような図式があったことはいうまでもない。
クライエント数の確保・増加 ⇒ 収入の安定・増加 ⇒ 経営安定
⇒ 臨床的技量のアップに注ぐエネルギー増大
アダルト・チルドレンという言葉が一種の流行語になったことで、多くの潜在的クライエントを掘り起こすことができ、一時的に私たちの経営は安定した。それがまさにビギナーズラックに過ぎなかったことは、のちにわかる。
その後も本をほぼ毎年出版してきたが、エクス・メドというあの大きな決断がなければ、私はこれほど多くの著書を表すこともなかっただろう。
設立当初は、以前の職場から多くのクライエントが移ってきてくれたので、大きな助けになった。その人たちのことは、大げさに言えば一生忘れないだろう。ゼロからのスタートではなかったことは実にラッキーだった。
しかしながら、精神科医療が保険診療であり、患者として支払う料金はカウンセリングの場合の約一〇分の一で済むことは事実である。料金だけ見れば到底対抗できないことは火を見るより明らかだ。ではいったいどうすればいいのか。ACブームが去ったあとに陥った深刻な経営難のさなかに、私は心の中でこうつぶやいた。
「このまま倒産すれば、精神科医たちの思うつぼだ。意地でも立ち上がってやる!」
●借り物の言葉では動けない
私の肩に、もう一つの責任がのしかかった。
エクス・メドすなわち脱医療の援助論の構築である。それは、私自身とスタッフにとっての必須の責務であり、なにより、来談するクライエントに対する責任でもあった。
医療では実現できない援助とは何か、その根拠はどこにあるかを言語化し、援助者のみならず多くのクライエントに対し説明可能にするということである。
理論の構築だけでは不十分だ。それに基づいた臨床実践を行うことによって、初めて私たちのセンターのカウンセリングはクライエントに評価され、それが未来のクライエントにつながり、社会的評価を生むだろう。
「最後は精神科医が控えているから大丈夫」という安心感が撤去されたことは、クライエントへの全責任を負うことを意味し、カウンセリングの根拠を示す責任も要請されるのだ。
もちろん広義のチーム性や連携はあるにしても、とりあえず原宿カウンセリングセンターにおけるカウンセリングの全責任はスタッフに、ひいては所長である私にある。突きつめていくと、これはけっこうな重さである。おそらく医師はこのような重さを職業倫理として、むしろ空気のような当たり前のこととして身に着けているのかもしれない。
しかし、50歳を過ぎた私にとってそれは重かった。この重さは、私に相当な負担を強いたのかもしれない。前篇の木川嘉子の心臓の痛みは、こんな責任の重さとつながっていたのだろう、きっとそうだ。
二つの責任は、前の職場では二人の精神科医によって担われていたのだが、それを一気に私一人が背負うことになった。エクス・メドがここまで過酷だったとは、と嘆いたことも何度かあったが、時すでに遅しであった。
しかしながら、過酷ともいえる責任の重圧は、私に新たな援助論構築の動機を与え、医療現場とは異なる言葉で会話をするという原則を堅持させ、新たなクライエント層を掘り起こすために本を書くエネルギーを湧き上がらせることになった。
肩にずっしりかかる重さを自覚しながら、実はそれほど私はつらくはなかった。先人の足跡のない道を歩くような不安は、新しい道に足跡をつけ道を切り開く楽しみにもなる。
本を書くには、なにより「自分で考えること」「言葉を自分の中に掻い潜らせること」をしなければならなかった。借り物の言葉では、一行も文章を書けなかった。
*
さて、次回以降、引き続き「カウンセラーを見る」ことになるが、今回述べたような経験が基礎になっていることを知っていただきたかった。エクス・メドという決断・契機があったからこそ、生活のかかったカウンセリングを実践するようになった。より自覚的にカウンセリングをとらえ、カウンセラーとしての自分を観察しながら技量を形成する努力を続けてきたと思っているからである。
(信田さよ子「カウンセラーを見る」第4回了)