第2話 武者震いの日

第2話 武者震いの日

2011.12.26 update.

信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ/イースト・プレス)他多数。最新刊は『さよなら、お母さん――墓守娘が決断する時』(春秋社)。

カウンセラーという職業を選ぶのはどんなひとだろう。毎日どのようにしてカウンセリングを実施しているのだろう。休憩はどのようにしてとっているのだろう。そもそもカウンセリングを「感情労働」だとすれば、どのようにして疲れを癒しているのだろう。

 

読者には同じ援助職の方も多いだろうが、私のように街角で開業しているカウンセラーはそれほど多くないだろう。精神科クリニックの隣に併設されているカウンセリング機関でもなく、公的機関におけるカウンセラーでもない。精神科医が診察のかたわら「じゃ、カウンセリングするからね」と言って話を聞くのとも違う。

 

私はカウンセリングを実施し、その対価としてクライエントから料金を支払ってもらう。それをセッションフィーとも呼ぶが、その収入でカウンセリングセンターを経営し、スタッフを一三名雇用している。この原稿を書いているのは、丁度スタッフ全員に冬季の賞与を手渡した当日である。

経済的基盤をどのように得ているかは、実はカウンセラーにとって大きなテーマなのである。それを抜きにカウンセラーを見ることはできないほど、説明しなければならないポイントはたくさんある。その点もおいおい書いていくつもりだ。

 

さて、ここからは少し歴史を巻き戻して一九七〇年代にさかのぼり、私が精神科病院に勤めるようになったところから見ていくことにしよう。

歴史は遡及的に構築されるものだが、カウンセラーである信田を見るためには、出発点までにさかのぼり、源流となったさまざまなエピソードを記す必要があるだろう。

 

 

●逆あみだくじ的即決!

 

一九七一年の三月初旬のことだった。夜遅く、別の大学を卒業した知人から電話がかかった。

 

「信田さん、精神病院に勤める気ない?」

 

唐突な質問だったが、彼女の言葉を聞いたとたん、私は迷わず勤める決心をしていた。

今から思えば、病院の名前も、週何日働くのか、何をすればいいのか、といった具体的なことを何も聞かないまま、勤務を決めてしまったことになる。すでに述べたが、私の決断の仕方はいつもこうなのだ。記憶をたどっても迷ったことはなく、たいてい長くても五秒で決定してしまう。

 

深読みすれば迷っている状態への耐性がないともいえるが、どうもそればかりではないという気がする。

すでに選んでしまっているところに決断するチャンスが後から巡ってくるという感じがする。選んでいることを明確にするために、わざと他の選択肢に目配りしてみる。たとえば、本命は決まっているのに、わざわざ別の男性とちょっと付き合ってみるみたいなものだ。

まるであみだくじを逆にたどっているようにも思える。

意識化されずに何かを希求していると、それを選ぶチャンスが空から降ってくるのかもしれない。

 

 

●手応えと物足りなさと

 

当時、大学院で児童臨床学を学んでいた私にとって、三歳児とその親を対象とした児童集団研究会の活動が主たる臨床実習だった。それとは別個に、毎月一回の土曜日に実施される心理劇研修会にも参加していた。

 

とにかくまず動いてみること、動きながら考えることが基本だった。さらに集団・グループにおける臨床を積み重ねることで、関係の構造、機能、役割といった視点を養うことになった。パーソナリティや無意識、人格構造といった言葉は、その研究室では使われることはなかった。

 

現在の私の臨床スタイルの源流は大学院の三年間にあるといってもいい。既成の理論、諸外国の文献に権威を置かず、自らの臨床経験から法則を読み取って技法化し、理論を構築していくというスタイルは、自分で考えることにこそ価値があり、課題意識を常に持ち続けることをよしとする指導教官である松村康平先生に負うところが大きい。

 

論文の書き方や横文字やカタカナを使いこなす方法はそれほど熱心に教えられた記憶はないが、臨床の基礎(立場性=ポジショナリティと責任の在り方)をみっちり学ぶことができたことは、今となっては何よりありがたいと思う。

あれから長い歳月が過ぎたけれど、カウンセリングで今実践していることは、あのころの延長に過ぎないと思う時もある。

 

しかしながら、私の中に常に物足りなさがあったことも事実だった。七〇年といえばまだ学生運動が盛んであり、三歳児の集団活動をしている砂場の塀の向こう側には道路が走っており、美濃部都知事候補の選挙カーが名前を連呼しながら走っていた。

学生のデモが一定の社会的影響力を持っており、当時の私の問題意識も社会科学的な色彩を帯びていた。いっぽうで私の文学への関心は深く、実存主義哲学に影響された国内外の作品を読みふけっていた。

 

そんな私は、三歳児の集団活動にかかわりながら、漠然とした手ごたえのなさに苛立っていた。子どもを対象とすることに不満はなかったが、もっと直截に成人の臨床に関わりたかった。臨床をとおして人間と関わりたかった。

人間の深奥をのぞきたいという、今でも臨床心理学を志す一部の人たちに見られる、どこか鼻持ちならない欲望が私をとらえていたのだった。

 

砂場で山をつくり、お団子を手で丸め、赤カブの種を畑に蒔き三週間で収穫する。子どもたちがつながって汽車の列をつくり、母親がつくるトンネルをくぐって走る。

そのような活動をしながら少しも楽しく感じられなかった。こんなことをしていいのだろうか、もっと別のことができないだろうかと、性急に焦っていた。

 

 

●医者にできないことを

 

児童集団研究会の活動に参加することが某国立大付属幼稚園合格の近道であるという噂が広まっていたせいか、参加希望の三歳児の母子にはある特徴があった。見るからに育ちのよさそうな子どもと、妙に色っぽく美人ぞろいの母親たちなのだ。

 

今でこそ当たり前になっているが、当時は珍しかった胸の谷間が見えるような深い襟ぐりのドレスを着た美しい母親のことは、今でもありありと思い出すことができる。

大きな目の彼女は、三歳児の息子がいるなどと想像もできないほど、どこか幼さを残した表情が特徴だった。それとなく全身を眺めながら、こんな魅力的な女性をたったひとりの男性が独占していいものだろうか、などと考えることだけが私の楽しみだった。

 

当時三歳だったあの子どもたちは、今は四〇歳を過ぎているはずだ。いちど会ってみたいという思いに駆られることもある。

そんな私に友人からの電話が掛かったのだ。すでに機は熟していた。私はその電話をどこかで待ち望んでいたのだった。

 

二つ返事で決定した私は、松村先生に事後承諾のかたちでそのことを伝えた。

研究室の伝統では、どんな仕事も、たとえアルバイトであっても、まず指導教官に相談してから決めるものだということを、私はのちに知ったのである。しかし先生はひとこともそれを責めることなく、そうですか、と了承された。そしてぽつりとおっしゃった。

 

「医者にできないことをしなさい」

 

その一言の意味を、今日に至るまで、私は何度も噛みしめることになる。

 

 

●鍵と白衣と、日の当たる部屋

 

K病院は東京の西郊にあり、JRの終点の駅から旧甲州街道を一〇分ほど歩き、途中から右に逸れてゆるやかな坂道をしばらく上ると、左側に見えてくる。

その道は高尾山への登山道であり、江戸時代には甲州に抜けるための関所が病院の近くにあったという。中央道の小仏トンネルという名前のもとにもなっている地名は、関所でとらえられた人の刑場があり、さらし首が置かれたからだという。

病院の裏手を見下ろすと、眼下には松本まで伸びる中央線が走っていた。入院中の患者さんが、鉄道に飛び込み自殺を図ることが何度もあったらしい。

 

院長と面接をした私は、大学院の傍ら精神科病院の心理室で週三日の仕事をするようになった。

 

その病院の隣には、かつての経営者である医師一族の豪邸が建っており、入り口からのぞくだけで見事な日本庭園を垣間見ることができた。

私が入職する二年前に、入院患者に対する不当な使役が問題とされ、K病院には東京都衛生局から監査が入った。新聞記事にもなったほどの経緯があるのだが、発覚したのはひとりのアルコール依存症の患者さんが脱走して警察に飛び込んだからである。

 

K病院だけでなく、八〇年代の栃木県の宇都宮病院事件をはじめとして、精神科病院の患者への不当な扱いのほとんどがアルコール依存症患者からの告発に端を発していることは象徴的である。入院してアルコールが抜ければ、彼らはたちまち常識や判断力をとりもどし、病院の治療体制の問題点を見抜くことができるからである。

それを機に院長は交代し、東京都衛生局にいた医師が新院長となり、人事も大幅に入れ替えが行われた。新体制の命題は「アルコール依存症の治療体制の充実」だったのも無理はないだろう。

私に期待されていたのは、アルコール依存症の患者さんを対象とした集団精神療法の実施であった。松村先生のもとで学んだ集団運営の技法や心理劇の活動が役に立ったのである。

 

病院には広い運動場があり、夏には盆踊り大会が開かれ、狭いながらもプールでは患者さんが泳いでいた。秋には運動会も開催されたが、高尾山の山裾にあるためかとっぷりと日が暮れるのも早かった。

 

運動場を囲んでコの字型に二階建ての病棟が並んでいた。医局はその中でももっとも日当たりのよい建物の二階に角部屋に位置し、その隣に心理室があった。

かつてそこは精神科と内科(結核患者がほとんどを占めていた)の合併病棟として使用されていた。戦後の肺結核が流行した時代の名残りである。広々とした心理室や隣の心理検査室が妙に清潔感溢れるつくりだったのは、結核患者さんのために日光を取り入れる設計になっていたからだった。

 

勤務の第一日目に、事務長から病棟を自由に出入りするための鍵を渡された。最初に鍵を手にしたときの感触を、私は今でも忘れることができない。

二四歳の小娘が、ジャラジャラと音のする鍵の束を手にし、多くの人間を合法的に拘束できる立場に就くこと、そんなことが許されてもいいのだろうかという畏れに身震いするのを私は禁じられなかった。表向きは平然としていたものの、その事実の重さに耐えかねて、衝動的に「すみません、辞めさせていただきます」と言いそうになった。

 

鍵の説明ののち、今度は白衣を渡され、私専用のロッカーが与えられた。ロッカー室が医師と共用だったことは、私たち心理室のスタッフはその病院では“名誉医師”として位置付けられていることを表していた。

 

生まれてはじめて白衣というものに手を通し、鏡に映った姿を見た私は、先ほどの畏れとは裏腹にいっぱしの専門家になったつもりになった。

自衛隊や警察官のように、制服はある種の権力の象徴である。それを見に付けた途端、意識は規定されてしまうのだろうか。精神科病院における白衣とは、治療する側であること=患者でないことを示し、さらに職員間における位置、つまり看護師ではないことを表していた。

二四歳の私は、勤務初日の朝、白衣のポケットに入れた鍵の感触を確かめるたびに身が震えるような畏れを感じながら、いっぽうで白衣をまとう権威的立場にあることの心地よさも味わっていた。

 

 

●強烈なにおいの洗礼

 

新体制を立ち上げた病院らしく、PSWも心理室も皆年齢が若かった。今から思えば全員二〇代から三〇代の年齢だったのではなかっただろうか。精神科医も病棟担当医の多くが三〇代だったことを思うと、病院全体に「やる気」が漂っていたのだろう。

 

最初の一週間は、心理室長のS先生によるさまざまなオリエンテーションを受けた。精神科病院が初めてである私のために一か月にわたる研修プログラムを組んでくださっていた。それとは別個に、病棟担当医が時間が空いているときを見計らって、私を各病棟に連れて行き患者さんへのお披露目をしてくれた。それは私にとって、生まれて初めて精神科病院に足を踏み入れる経験だった。

 

男女それぞれに開放病棟と閉鎖病棟があり、後者は今でいう急性期病棟だった。

ガチャリと鍵の音をたてて扉を開けた病棟医の後に続きながら、初めて男性の閉鎖病棟に入った。その瞬間の衝撃をどう表現したらいいのだろう。何より、あの「におい」に驚かされた。

むっと鼻を衝くにおいは一瞬吐き気を催すほどだった。それまでに一度も嗅いだことのないそのにおいは、病棟全体に充満しているので、数秒間経つと少しずつ慣れていくこともわかった。

 

当時の病棟はベッドではなく、真ん中の通路をはさんで両側に一段高くなった畳敷きのスペースがあった。夜はそこに布団を敷いて眠るのだ。どこか既視感をおぼえたのは、私の大学の寮も同じ構造だったからだ。

 

しかしその畳は擦り切れて赤茶けていた。窓には格子がはまっており、医局と比べると日当たりはよくない。

よく目を凝らすと、薄暗い病棟内部にはぎっしりと患者さんが詰め込まれている。首をうなだれて歩いている人、腹部がふくらんで動けないほど太っている人、床に座り込んだままの人……そんな患者さんの間をかき分けて歩く医師のうしろに従いながら、私は怖くてたまらなかった。

なかには私の顔を見て近寄ってくる人もいたが、決して身体に触れることはしなかった。中井久夫先生が書いているように、人口密度がきわめて高い病棟なのに、患者さん同士や病棟スタッフと決してぶつかりあうことはなかった。にもかかわらず、私は怖かった。

 

患者さんに対する緊張に加え、病棟医に自分の怯えを感知されないようにすることにもかなり神経を集中させていた。驚きや吐き気、怯えや緊張をおくびにも出さず、悠然として患者さんに「こんにちは」と挨拶を繰り返していた。

しかし内心ではかなりハイテンションになっており、笑顔も不自然だっただろう。まるで猫が毛を逆立てているような、精いっぱいの笑顔だったかもしれない。患者さんが近寄ってきて名前を聞かれると「信田っていいます」などと余裕しゃくしゃくの受け答えをしてみせた。

 

病棟を一巡りし、やっとの思いで看護室にたどりついた。医師の背中に隠れるように鍵を開けて中に入ると、幅広い年齢層の看護師さんたちがいっせいに私を眺めた。医師が簡単に私を紹介してくれたが、彼女たちの視線は少し私をたじろがせた。なんともいえないその感じは、それまでに経験したことがなかったわけではない。

同じ女性としてさまざまな思いや感情が入り混じった視線を向けられる事態にたびたび遭遇してきたが、私の対処方法はたったひとつしかなかった。思いっきり正直に自分を全開にすること、それ以外に対処法はなかった。

医師に対して精いっぱい張っていたシールドは、彼女たちには不必要だった。むしろそんなものは見透かされるに違いない。

私は深く頭を下げて丁寧にあいさつをした。

 

「心理室の信田と言います。これからよろしくお願いします」

 

不思議なことに、そのとき全身の緊張がふっとゆるんだ気がした。私を見つめる多くのまなざしは不快なものではなく、仲よくしましょうねというメッセージに満ちているように感じられた。

病棟を統括する力をもつ医師には見えないものが、彼女たちには見えている。漠然とではあったが、そう感じられたのだった。結果的には、そのような直感が私と看護師さんとの関係を作り上げていくためには大きな力になった。そのことは次回で詳しく述べることにしよう。

 

 

●恐怖と快楽のアマルガム

 

閉鎖病棟の鍵を開けて外に出た途端、私は深呼吸をした。あのにおいにいつのまにか慣れたと思っていたが、やはり少しだけ呼吸が浅くなっていたのかもしれない。病棟にどれくらいの時間いたのかわからないほど、私は緊張していたようだ。しかし同行してくれた医師にはそんな自分を感づかれないようにしなければならない。

 

「先生、ありがとうございます。勉強になりました。」

 

明るく礼を言って、私は頭を下げた。

すべてが強烈でこの世のものとも思えない世界だった。何より怖かった。しかし私はK病院を辞めたいと思うどころか、とてつもない冒険に乗り出すような思いにとらわれていた。大学院の研究室の誰も知らず経験もできないだろう世界にこれから足を踏み入れていくのだと思うと、マラソンの先頭を切って走るのにも似た快感を覚えた。

 

翌日からは自分で鍵を開けなければならない。私は頭の中でシミュレーションをした。

ガチャリと扉を開けた瞬間、多くの男性患者の目が私に向けられるだろう。そこは異世界である。一瞬息を止め、充満するにおいを浅く吸いこみながら足を踏み入れる。大学院のどんよりとした生ぬるい空気の中では満たされなかった何かが、そこでは無化されてしまうだろう。精神科病院の閉鎖病棟という世界と私は、互角に緊張をはらんで向かい会うことになる。

 

内心震えるほどの恐怖は、武者震いとどこが違っただろう。生まれて初めての仕事が精神科病院勤務であることにためらいはなかった。それは、四つに組んで向き合っていくに足りる世界と思えた。

 

今から思えば、かなり誇大的で自信過剰なほどの意気込みで、私は精神科病院勤務の第一歩を踏み出したのである。

(信田さよ子「カウンセラーを見る」 第2回了)

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