私が誰かわからない(3)

私が誰かわからない(3)

2022.2.16 update.

中村佑子(なかむら・ゆうこ) イメージ

中村佑子(なかむら・ゆうこ)

1977年東京都生まれ。映像作家。哲学書房で編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』(2012年)、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(2015年)がある。
2020年12月に初めての著書『マザリング――現代の母なる場所』(集英社)を公刊。自身の妊娠出産をきっかけに「母」とは何なのかを幅広くインタビューしつつ、性別を超えた「ケア」をめぐる深い思索が紡がれた同書は、清新かつ重厚なケア論として注目を集めている。

幼い頃から「ケア」に翻弄されてきた人。

ケアという宝/毒を体いっぱいに浴び、充実と虚無の間をさまよってきた人。

――自身ヤングケアラーであった著者による「私に似たひと」探訪記。

「第2回 私が誰かわからない」を3日連続更新します。

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暗がりのなかで

 

 ある人のことが思い出される。きっとその人もヤングケアラーだったのだと、いまさら思い当たった。その人と出会ったころ、そんな言葉はつゆほど知らなかったけれど。

 

 その人は左耳が聞こえなくて、私はいつも右隣に座った。電車で一緒に座るとき、どちらが右か考えなくてもさっと動けるようになったとき、私は嬉しく誇らしくもあった。

 

 その人のお母さんは肺癌を患って、小学生のときに亡くなった。子どもながら最期は壮絶だったという。にもかかわらず最後までタバコを手放さず、トイレで隠れて吸っていたという。いくら言ってもタバコをやめない。それをその人は、母親の緩慢な自殺だと捉えていて、恨めしく思っていた。まだ小さい妹たちもいた。幼い自分たちを置いて先に逝ってしまう、そのことへの罪悪感はないのか、子どもたちのためにも残った生命にすがりつかないのか、それよりも目の前のタバコなのかと。そのころ私はまだタバコを吸っていたのだが、目の前でタバコ取り出すとその人は心底嫌そうな目で見つめた。しだいに私はその人の前でタバコを吸うのをやめてしまった。

 

 その人の父親は、母が病気になってから家事全般をやらなくてはいけなくなり、いつも切羽詰まっていたという。「掃除機を一日に何度もかける、いくら猫がいるからといって、それは異常なほどだった」。父親が壊れていくのを見るのがつらかったという。

 

 抱え切れない体験をもつ人が掃除中毒になっていく様を、私は何度か目撃している。心のなかの捨てられない荷物や、消せない汚れがある人が、掃除をして目に見える汚れを取り除くことで、自分のなかの不可視の汚れも落ち、輝いていく錯覚に陥るからだろう。

 

 母が死んだとき妹たちはまだ小さくて、自分が支えなくちゃと思ったという。就職して東京に出てきても、まだ高校生で故郷に残してきた妹たちに、その人はいつも心を傾けていた。家にいた猫だけが救いで、中学生のときに自分で彫ったというその相棒猫の筆箱を、いまだに仕事に持ってきていた。しま猫がこちらを向いて笑っているカラフルな木箱のそれを打ち合わせ中に見たのが、その人に最初に声をかけたきっかけだった。

 

 その人は母の記憶が希薄だった。そう言ってよいだろう。病に苦しみ自暴自棄になった母への抵抗感が鮮明で、良い母の記憶はまだ思い出になっていなかった。あるいは私には話さなかった。私自身は母の苦しみを自分の苦しみのように感じる癖がついていて、母の記憶は希薄なのではなく、むしろ過剰だった。

 

 母の痛みをうまく感じることができず想像するしかない人間と、母の痛みを感じたくなくても感じてしまう人間。この二人の悲しみは、布団のなかに入ると増幅した。最中、涙が出て仕方がなかった。なぜか涙が止まらないのだ。自分の壁と他者の壁を溶け合わすことが性の一つの様態なのだとしたら、母が日常的に苦しみ痛みを抱えている、そこに存在を映すように自分を投影している私たちには、性は強すぎる溶解炉だったのかもしれない。自己の壁を溶かす、高音の溶解炉。

 

 なぜ涙が止まらないのか、私はわからず戸惑った。私はただ片耳の聞こえないその人と話すのが、布団のなかのほうが容易だったから暗がりに潜り込んだのだ。その人は、人の話を聞くときに聞こえるほうの耳を傾ける癖があった。けれどその仕草は話しているときその人の目を隠してしまい、私は不安だったのだ。私たちには暗がりが必要だった。

 

 布団のなかで話した、その人の母親がトイレにこもってタバコを吸っている場面が、もう何度目かわからない。私の目の前に顕れる。何度も何度も再生しているのでビデオテープのように擦り切れ、ノイズが走っている記憶。

 

 トイレのドアを開ける子どもだったその人の目は、死んだように絶望の色に囚われている。子どもと目が合う親は、タバコを吸っている姿を見られた罪悪感と恍惚とに引き裂かれている。もう死は避けられない。タバコを吸って思考を正常に保ちたかったのかもしれないし、一人で死んでゆく、その時間を混乱しながら想っていたのかもしれない。子どもには想像もできない、分かり難い時間だ。

 

 それらの場面はいまでも私自身の記憶のように鮮烈に胸のなかに仕舞われている。あるいはその人の前でタバコを吸いたくても我慢している私は、その人が望んだ母の姿だったのだろうか。私は本当のところ、自分が誰なのかわからない。布団のなかで涙の止まらなかった私は、誰かの記憶のなかにある感情をそのまま生きている悲しみに、ただ囚われていたのかもしれない。

 

 

私が誰かわからない

 

 精神科病院に任意入院した母の病室を訪ねていったことがある。そのときは自分の意思で入院していて、母は病室でいつもと変わらない生活をしていた。私が訪ねていくと笑顔になり、ティーバッグで紅茶を淹れてくれた。他に座るところがなくて、ベッドに座ってしばらく話し込んだ。母の背後の窓には、飛び降り防止の格子がかかっている。

 

 ある人と仲良くなったと話していた。私と同年代の女性で、鬱で自殺をはかって入院しているという。しばらくして家に戻ってきた母は、その仲良くなった人を自宅に招き、ご飯をご馳走したという。そのとき彼女が、実は大学が同じで娘さんのことを知っていると語ったという。私がまだ何者でもなかった二十代のころである。私はその人を知らなかったけれど、それで怖くなって母はその人と連絡するのをやめてしまった。私は怖いというよりも、キャンパスのなかでその人が私とすれ違ったことがあるのを感じる。きっとその人が見たであろう光景を、私は思い出してみる。

 

 階段教室の窓に近い席に座っている私を、その人は見ている。窓の奥では冬の枯れ木が、風に揺れている。と、私が視線に気づいて一瞬こちらを見た。その人が見たであろう私の目は無表情で、目はガラスのようで何をも映していない。いまの私は、その人が見たであろうかつての私の目と、目が合っている。私たちはお互いに「私?」と黙って尋ねあう。過去の私はその人から目をそらした。

 

 そのころ私は、自分自身が二人登場する8ミリ映画を、一人映研の部室で編集していた。公園を散歩していると池の向こうからもう一人の私がボートに乗って近づいてくるという映画だった。映画の中で二人の私はお互いに「私?」と聞き合った。そして一方が右足を出せば一方が左足を引くという、ダンスまがいの動きを永遠にやってみせるのだ。

 

 なぜもう一人の私が登場する映画を撮ったかといえば、部屋で受験勉強をしていたとき、ベランダに出て部屋のなかを見たら、机に座って勉強をしている私がそこにいたからだった。私は私を見たのだ。私はいたるところに遍在している。誰かに見られ、その見られた世界のなかで、私はまた生きはじめる。そういう感覚が明瞭にあのころにはあった。あのころの自分は、私を見たその人のなかに私を見たのかもしれない。

 

 階段教室の私が目をそらしたので、その人もまた自分のノートに目を落とす。デカルトについて語る論理学の先生が数式を黒板に書くコンコンという音が教室に響きわたっている。その音を、私もたしかに聞いた気がする。

 

 すると私は、精神科病院のなかで知り合った母の友人として、いつかこの自宅に招かれたことがあるような気持ちになる。私は誰なのか、本当のところはよくわからない。私というのは無限の層のようで、誰かのことを想像すれば、その人のことが自分のなかに折り重なってゆく。声が聞こえてくる。姿は見えないけれど、声が波のようにこちらに。

中村佑子《薄氷のような連帯「第2回 私が誰かわからない」》了

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