第2回 私が誰かわからない(2)

第2回 私が誰かわからない(2)

2022.2.15 update.

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中村佑子(なかむら・ゆうこ)

1977年東京都生まれ。映像作家。哲学書房で編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』(2012年)、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(2015年)がある。
2020年12月に初めての著書『マザリング――現代の母なる場所』(集英社)を公刊。自身の妊娠出産をきっかけに「母」とは何なのかを幅広くインタビューしつつ、性別を超えた「ケア」をめぐる深い思索が紡がれた同書は、清新かつ重厚なケア論として注目を集めている。

幼い頃から「ケア」に翻弄されてきた人。

ケアという宝/毒を体いっぱいに浴び、充実と虚無の間をさまよってきた人。

――自身ヤングケアラーであった著者による「私に似たひと」探訪記。

「第2回 私が誰かわからない」を3日連続更新します。

前回(1)はこちら

 

ヤングケアラーという言葉

 

 ジョバンニがヤングケアラーだと気づいてから、宮沢賢治の作品はケア的土壌に溢れていると考えはじめた。賢治には馬車にひかれて怪我をした友人の指を「いたかべ、いたかべ」と言いながら吸って止血したという逸話があるが、人の痛みを自分のこととして感じることのできる特質は、〈雨ニモマケズ〉で「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」という感覚につながるのだろう。〈永訣の朝〉もまた、死に臨む妹の、生の最期の光をどうしてもこの手で守りたいという想いに貫かれていた。

 

 賢治とケアについてはいつか書くことにして、ここでは「ヤングケアラー」という言葉である。もう私も普通にこの言葉を使えるようになってしまったし、この言葉を使うことによる伝わりやすさを思い、あえて使用しているが、はじめに「ヤングケアラー」という言葉を知ったときの驚きと戸惑いをよく覚えている。

 

 私の謎の多かった幼少期はそんな規定に入るのか、となぜか名前を与えられたことに寂しい思いをした。心理を辿るならば、私だけの孤独が、「ヤングケアラー」として類型的な感情なのだと規定されてしまう寂しさ、個別具体的だった私だけの孤独が、私たちの孤独になってしまう寂しさだったかもしれない。そしてこの寂しさは、自分の孤独と他人の孤独を比べることによる戸惑いと劣等感のようなものを私に連れてきた。

 

 ヤングケアラーというものに私が該当する、そのことによって起こった感情は、引け目だったのだ。圧倒的な引け目。もっと酷い体験をした人はたくさんいる、精神の病もつらいけれど、死の淵を彷徨う病に付き添い、重い身体介助を伴うケアを担った子どももいる。いま問題になっている通り、学校に行けない子もいる。私の場合、母が「もうダメ」という状態になっても一時的なものだったし、存命でまだ元気だった祖父母の医院に、母子共々逃げ込むこともできた。そこに行けば旧知の看護婦さんもお手伝いさんもみんないた。どこにも助けを求めず家族三人でふんばっていたときも、小学校に持っていくお弁当は父がつくってくれたりし、多少の不便はあってもなんとか持ちこたえていた。父のつくるお弁当は食の細かった私に食べさせたいという思いの限りにご飯が盛られ、それをフタが締まるまでぎゅうぎゅうやるので、重く固められランドセルのなかでずっしり重量があった。父の気持ちの重さを背負っているようだった。

 

 でも学校には行けていたし、ヘビーなケアや介護を担っていたわけではない。ただ生活が立ち行かなくなる母を見守り、心配し、言葉をかけ、少しお手伝いができるようになれば、家のことや自分のことは自分でできるようにしていただけのことだ。母は自分の命に対して絶望的に自暴自棄になることはあっても、私に危害を加えるようなことはなかった。もちろん母が自殺でもしてしまえば、私には取り返しのつかいない禍根が残る。そのことに無自覚なのが親になりきれていない証拠だと、私自身が親になったいま、かつての母の甘えに腹立たしい気持ちになることもあるが、私の存在を否定したりすることはなく、私は確かめるまでもなく母の愛情を確信しつづけてきたように思う。

 

 だから精神疾患が理由だとしても、親から子への愛情という水脈を疑わなくてはいけない過酷な子ども時代を送ってきた人と、ヤングケアラーとして同じく括られることに対して烈しい引け目が生まれた。私になんて話を聞いてもらいたくないかもしれない。私が、精神疾患をもつかつての子どもの聞き書きをするなんて、おこがましい。私は当事者のようでいて取材相手にとっては足りない当事者だ、もっと同じような体験をした当事者だからこそ聞けることがあるはずだと、引け目が自信のなさとなってグルグルまわる。

 

 

振り子のように

 

 一方で、客観的に相手と距離をもって接することの優位性が、長らく精神疾患の支援の世界では唱えられてきたはずだ。ピアサポート、つまり当事者間の話し合いにこそ傷を癒す力があることが発見されたこの世界でも、少し違う体験をした、けれどもヤングケアラーの当事者として自覚のある私が、多少の距離をもって聞けることもあるのではないか。そんなふうに振り子のような思いのなかで悩みながら、この連載を始めている。

 

 しかし何度も言うが「ヤングケアラー」という言葉である。問題の所在を軽くしてしまう軽微なカタカナ語を避けて、幼年介護者、子ども介護者という言葉を推奨する人も現れるし、あえてこの言葉を使わないと宣言して話す人も現れる。かまびすしくテレビでも新聞でも唱えられ、同じ言葉でグループにされることで、むしろ内部での差異が際立ち、名づけた瞬間に失われる個別具体性がある。

 

 しかし私はいま、むしろ名前があることに勇気づけられてもいる。名前が与えられ、その内部で体験の差別化が行われることで、問題はより詳細に分析されると思うからだ。寂しかろうが引け目に感じようが、いまも精神の病という謎の前で怯み、謎が謎のまま苦しんでいる当事者がいる。啓発運動というものの力を信じてみてもいいのではないか。多くの人が唱えはじめた途端に反発心で身を離す、そんなふうにいきがってずっと生きてきたけれど、矛を収めてもいいのではないかといまは思うのだ。

中村佑子《薄氷のような連帯「第2回 私が誰かわからない」》

つづき(2月16日公開)→

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