第22回 触覚に助けられる

第22回 触覚に助けられる

2021.9.08 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年、劇団㐧2劇場を退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓国ドラマをこよなく愛す。

 
■二本の傘
 
子どもというのは、幼ければ幼いほど、親の気持ちが気になるのではないか。
生きるということは、小さいときほど親に依っている。
もしかしたら、「子どもなのに、よく気がきく」とか「子どもながらによく頑張る」という発想がおかしくて、「子どもだから」必死に親を見つめ、親に合わせるのだと思う。
 
私は、多動衝動性を持っている。糸の切れた凧のようにどこにでも出かけて行き、好きなことをやってきたように見えるかもしれないが、そのこころの底で、家庭で父と母がどんな気持ちを抱いていたのか、ふたりのいる風景がいつも気になっていた。
 
そういえば、こんな話を父から聞いたことがある。
 
夜中に父と母が近くに用事で出かけると、小雨が降ってきた。急いで帰ると、街灯の下にレインコートを着て、二本の傘をもった子どもがいた。私だった。どこに行っていたかと聞くと、駅までふたりを迎えに行っていたと言う。父は何度か、この話をうれしそうに私に聞かせた。そのたびに、私は少し困惑した。なぜ父はうれしいのか、なぜ今になってそんな話をするのかわからなかった。同時に私はずっと自分が見られていなかったような、ポツンと取り残された、寂しい気持ちになったのである。
 
薬物やアルコール依存症をもつ女性をサポートする「ダルク女性ハウス」を立ち上げた上岡陽江さんは、大嶋栄子さんとの共著『その後の不自由』のなかで、幼い頃からの体験をこのように書かれている。
 
私の家には暴力はありませんでした。でもうちの母は、すごく悲しい母でした。父とおばあちゃんがすごく仲がよくて、母はその関係のなかに入れなかったので、お嫁に来ても不幸だったんですね。私は3歳ぐらいから不幸な母を背負ってきました。今でも母は、「ハルエは3歳からホントに役に立った」と言います。でも3歳から頼りになっちゃいけないわけですよ(笑)。
『その後の不自由』(医学書院)20頁
 
上岡さんは、そうして母親の機嫌を見、望むことを探り、望むように行動するようになる。
 
私が二本の傘を持って駅まで迎えに行ったのも、3歳のときだった。この上岡さんのフレーズを読んだとき、私は「アチャー、しまった」と思った。頭を抱えたい気持ちになった。過去に戻るバスがあれば、それに飛び乗って3歳の私に会いに行きたい。破天荒な一面、親の前でいい子にし、甘えたことのない私に、「ヘロヘロ生きる素(もと)」の入ったキャンデーを渡しにいきたいくらいの気持ちになった。
 
あの頃を思い出す。漠然と、世界が怖かったように思う。大人の感情が自分に押し寄せて、どこかに流されていくような気持ちがした。私は、排水溝で水を含んだまま捨てられた雑巾のような自分を想像していた。それが怖かった。だから、そういうことが起こらないように先回りして動くようになった。今思えば、小さな私が先回りしても、事態は変わらなかったと思う。けれど、私は必死だった。
 
思えばずっと、私は二本の傘を持って、父母を探している。そしてふたりが私を見止めてくれることを、今も街灯の下で、待っているような気がする。
 
■一枚の毛布
 
慰めてくれたのは、一枚の毛布だった。生まれたときに贈られたサーモンピンクのウールの毛布。私はその毛布を、正確には、毛布の切れ端を、何年か前まで持っていた。
 
毛布の端には、キラキラしたサテンの布地が巻かれていた。その薄い布とその縁にかかったミシン糸の線、その先のウールの柔らかさといった、別々の感触をいちどきに感じられるよう、私はまっすぐに伸ばした指に毛布の端を挟んで前後に動かす。あるいは、ミシンの線を親指と人差し指と中指でさする。すると、わずかにデコボコとした感触がたちまち恍惚を誘い、私のこころは溶けていく。体もほぐれていく。官能に近い。触っているだけで、何もかも忘れることができる。恐怖も、不安も、心配も、痛みも、悲しみも。
 
その毛布にかなう毛布は現れなかった。ぼろぼろになった毛布を、私はお守りのように持っていた。苦痛だった受験勉強も卒論も、その毛布を膝に置いて乗り越えたような気がする。なのに、躁であちこち動き回っているうちに、「もうこれがなくてもだいじょうぶ」と思ったのだろうか、どこかにやってしまった。鬱から抜け出せないのは、あの毛布がないからかもしれない。「そういう大事なものは、一生、放してはいけませんよ」と言われたような気がするが、誰に言われたのか覚えがない。なのに、手放してしまった、もう戻ってこない毛布。
 
■シュン君のラバー
 
あおぞら園は、そんな毛布だらけだった。
 
小学2年のシュン君は、とても珍しい染色体の病気だ。体は小さく、細く、色が白い。そして、骨格がとても柔らかい。いつも、手足を曲げたまま、上げたり下げたりしている。踊っているかのように見える。児童の発達を学んでいた学生バイトのうららちゃんが、「講義で聞いたんですけど、シュン君の踊り、お腹のなかでやっていたのと同じ動きだという説があるそうです」とカンファレンスで教えてくれた。
 
そう言えば、シュン君の手足を曲げたときのフォルムは、羊膜に包まれ、臍帯で母体とつながっているときの、まるまった胎児の絵によく似ていた。興奮すると、口をすぼめて上気する表情は、赤ちゃんがおっぱいを吸うときのようだ。シュン君は、母体にいるときと変わらない柔らかい骨のまま、あのときのまま、生きているのかもしれない。
 
そのシュン君は、濃いピンク色の、犬の舌みたいな、薄いゴムをいつも持っていた。ラバーと呼ばれるそれを、シュン君はひらひらさせたり、チューしたり、ときには噛んだりした。シュン君の通う養護学校は、あおぞら園から少し遠い。車に乗ると、シュン君はガラスに頭をコツコツし始める。だから、ヘッドギアは欠かせない。ラバーは必須のお守りだった。
 
大事なものなのに、ラバーをどこかにやってしまうときがある。お母さんから電話がかかってきて、「ラバー、どこかにないでしょうか?」と困り果てたように訊ねられた。私は車や園のあちこちを探し回り、おもちゃ箱をひっくり返してみる。プラレールの青いレールの裏にピンクの薄いラバーがやっと見つかった。ホッとする。
 
翌日、シュン君に渡すと、「あ」と言うように少し唇を開け、ピンクの頬がゆるむ。「よかったね。気づかずにごめんね」と言うと、シュン君はラバーを振り回し、踊りを始める。その日、シュン君は、私がパソコンに向かっていても、近くにやってきて、ラバーを振った。「中山さん、もう忘れないでよ」と言っているようだった。ラバーも、ぼくのことも。
 
シュン君にとって、ラバーは安心の毛布であると同時に、生命線だと思った。
 
■ショウタ君のバンドエイド
 
大きな頭と小さな足を持つ高3のショウタ君は、わずかに眼を開けている。そして、動き始めるとき、ショウタ君はまず手を前に差し出す。誰かがその手を取ることを待っている。立ち上がると5㎝ほどの歩幅で前進を始める。前に差し出した手は、スイカ割りをするとき、眼かくしをされると自然に出る、あんな感じだ。つまりアンテナである。
 
ショウタ君が、支援スペースの8畳間から、居間を通り過ぎて事務所にやってきた。最初はその目的がわからなかった。誰かが、バンドエイドじゃない? と言う。
 
えっ?
いや、前に、指に巻いたバンドエイドをはがして、ねちゃねちゃ、うれしそうに指で触ってたよ。
そうかあ。
 
あわてて救急箱からバンドエイドではない別のメーカーの絆創膏を探し出し、粘着部分をショウタ君の指先にチョンとつける。
「これ?」
ショウタ君が、ふんふん、という顔をし、それから唇を舌でペロリとなめる。ピンクのきれいな舌。気に入ったというサインだ。ショウタ君はゆっくりと方向を変え、前に差し出した手で絆創膏をねちゃねちゃしながら、もといたところに帰って行く。
 
しばらく経つと、またショウタ君がやってきている。
「そんなに、これ、好き?」
と聞くと、何も答えず、指先でうんうんと言う。また絆創膏を渡す。
 
そのうち、絆創膏ではいやだと言う。「うーん」とあれこれ考えて、ガムテープを輪っかにして両面テープにした。大きなねちゃねちゃに、ショウタ君は狂喜する。自分の場所に帰り、あぐらをかいたまま、尾てい骨をぐうんと前に押しやって動く。興奮の合図だ。そのうち、ねちゃねちゃ力が弱まる。次第に、ショウタ君の顔が曇る。
 
ねちゃねちゃの繰り返しは果てしがない。事務がひと段落した私はそばに寄り、ショウタ君と同じようにあぐらをかき、指を差し出す。ねちゃねちゃじゃないのに、私の指にショウタ君が口元を緩ませ、舌をペロリとする。高校生なのに、唇は幼児のように柔らかい。
 
とりあえず渡されるだけのものでは満たされなかったのだと、私はやっと気づく。そして両手でショウタ君の手を包む。「うー、うー」と少しあごを出して唇をなめる。瞳が開く。鼻孔がひくひく動く。これはうれしいの合図かなと思う。本当は、受け入れられた感覚が欲しかったのだ。触覚を頼りに、彼は世界と自分のつながりをそのとき、切に確認しながら生きているのだった。
 
■アイラちゃんの「あごの手」
 
イケメン好きの女子高生アイラちゃんが、左の手の平をあごにつけてきたのは、初夏だった。お母さんからの連絡帳にこうあった。
 
口内炎ができて痛いようで、ずっと気になり、手を添えています。
 
その日、アイラちゃんは、何をするにも左手をあごから離さなかった。ふでばこを取るときも、リュックを背負うときも、靴をはくときも。一過性のものだと思っていたその左手は、冬になってもあごから離れなかった。口内炎はずいぶん前に完治していた。
 
ふと、何かのときに、手が離れる。思わずスタッフが「あっ」と言う。すると、アイラちゃんの手は吸い寄せられるようにあごにくっつく。その後、誰もそのことに触れないようにしても、アイラちゃんの手は元に戻らなかった。
 
おうちでは、大騒ぎになっていた。東京からおばあちゃん、おじいちゃんがやってきて、「アイラちゃん、どうしたのー?! 離せないのー? 困ったわねぇ」と顔をのぞく。アイラちゃんはリスのようなかわいい顔をしている。そのリスがキョトンとして枝を走り去るように、アイラちゃんは誰に何を言われても、キョトンとまるで自分事ではないようなそぶりだ。
 
しかし、お母さんには壮絶な毎日が続いていた。とにかく、パシャマを着るにも脱ぐにも、制服を着るにも脱ぐにも、ごはんを食べるときも、お風呂に入るときもトイレで用をするときも、アイラちゃんの左手はあごに装着されたままだった。そのうちお母さんが「肘の裏側に垢がたまって、大変なことになってしまいました~」と嘆くようになった。どうやら、お母さんは一緒にお風呂に入って一瞬アイラちゃんの腕を伸ばし、洗ったようだ。
 
どうすることもできず、時が過ぎた。あごに手をつけたままでも、アイラちゃんは、送迎車の後部座席から「ねぇ、あおぞら園に、イケメンのスタッフ、来ないかなぁ」とのん気な声をかけてくる。あいかわらず、脳内はイケメンのことばかりなのだった。
 
そんなこんなでお正月を越えた頃、アイラちゃんの手はあごから離れていた。寝るときも手をつけたままのアイラちゃんに、「こうしたら、暖かくなるよー」と、お母さんが布団の中に手を入れてみたらしい。その日をきっかけに、アイラちゃんの左手はあごから離れたのである。左手は長い間、凍えていたのだった。
 
イケメンばかり気にしているようで、アイラちゃんにはアイラちゃんの悩みがあったことに私は気づいていた。不安で、自信がなくて、誰かに見つめていてほしい、何かがしたい……。そういう気持ちがいっしょくたになったとき、左手をあごにつけてみた。なんだか安心した。そして、何よりやることができた。そんな始まりだったのかもしれない。けれど、それが離せなくなった。話せない理由がアイラちゃんにはあったのだと思う。
 
■私たちは誰もが最後の毛布を持っている
 
安心は、あおぞら園の子どもたちにとって、生きるためのこころのごはんでもあるし、自分を柔らかく包んでくれる毛布でもある。シュン君のラバーは、まるで胎児にとっての臍帯のような生命線だ。ショウタ君のねちゃねちゃは、毛布から感じ取った私の官能に酷似していたかもしれない。
 
触れるものが無条件に心地よいと、安心が広がる。そういう微細な触覚に、私たちは意外と支えられている。アイラちゃんのあごの手は、私もよくやっている。「あれー?」とか「えー?」と考え込むとき、一瞬の不安に、よく頬に手を当てる。手を当てて体の輪郭を確かめると、不安に誘われてポヨホヨと空間に浮き出した自分を、その輪郭の中に入れ込むことができるような気がする。自分を確かめることができるのだ。
 
あおぞら園の子どもたちの体とこころは、柔らかい外皮で覆われたスポンジのようだと思う。そして、あまり人の目を気にしたりしないぶん、欲求や感情に体が正直で、体がさまざまな気持ちをそのままに教えてくれる。裏を返せば、私たちが不安を感じながら、それを見ないようにどこかに押し込めて生きているのではないかと思う。「こんなことにしてたら、おかしいよ」という声で抑え込む。そして、知らないうちに自分を痛めつけているようにも思う。
 
体は、私たちにとって最後の毛布だ。
 
シュン君もショウタ君もアイラちゃんも、その毛布を使って、胎児のようなこころを守っているのかもしれない。
 
 (中山求仁子「劇的身体」第22回了)

 

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