第21回 降りてゆく、それがなんやねん

第21回 降りてゆく、それがなんやねん

2021.8.12 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年、劇団㐧2劇場を退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓国ドラマをこよなく愛す。

 

「こんなはずじゃなかったのに」は、人生に何度か訪れるものである。
躁鬱の私には、その「何度か」がおそらく人より多く訪れたように思う。上のプロフィールにも書いたが、ジェットコースター人生は大げさな表現ではないと思っている。書けないことも書き切れないことも、実はまだまだ隠し持っている。
 
◆  ◆  ◆  ◆  ◆
 
 
■打ち上げ花火を追って
 
さて、鬱状態で過ごす時間を重ねていくと、それまでならなんとかなっていたはずの、小さな「こんなはずじゃなかった」につまずくことが多くなる。“小さな”と書いたのは、“大きな”は躁時に訪れるからだ。
 
以前、躁は頭上の打ち上げ花火をひとところで追えず、むやみやたらに人混みをかきわけて歩き回るようなものだと書いた。追っているときには高揚しているが、ふと気づくと、最初の地点も今来た道もわからず、一緒に花火を見ていた家族も置き去りにしている。元に戻ろうとしても道がわからない。自分でやっておきながら、「こんなはずじゃなかったのに」と思う。それでも、とりあえずどこかに戻れた気がしていた頃はよかった。寄る年波か、体も萎え、元には戻れていない感覚は、日に日に大きくなる。
 
今、私は鬱状態が10年近く続いている。ときおり、日常にポツポツと躁の花火が上がるが、急ハンドルを切って草むらに分け入るような無茶はしなくなっている。躁を、鬱が引きずりおろしているのだと思う。この脳のなかの怪しい攻防がどのようにして起こっているのか、少しは知って死にたいと思う。
 
躁でそれた道を必死に戻ろうとする過程で、私は鬱をひどくしている。精神疾患を自己開示して仕事を得るのは、この社会においていまだ実現への道は遠いように思う。開示しないまま無理に就職し、無理に働いてきた。躁と鬱のせめぎあいに混乱し、疲弊している脳内のメモリは通常の人よりも少ない。
 
仕事が「できない」となると、「できた」頃を思い出し、「こんなはずじゃない」と思い、焦りと不安に溺れるような感覚を覚える。その感覚がまたメモリを減らす。不安を消そうとして、安定剤を飲む。一瞬、不安は消えるが、それは脳の動きを全体的に鈍化させたからで、仕事のミスは当然増える。仕事が思うように進まない。若い上司から言われることばのちょっとした断片に傷つく。たとえば、「中山さん、中山さんのやりかたに問題があるかも。このやりかた、しばらく、禁止」と言われると、ガガーンと来る。理屈では「たしかに」と思っても、こころに大きな穴があく。そうして、「ああ、私はやっばり、だめなんだあ」といくつもの職場を後にした。
 
■エスカレーターで下へ、下へ
 
編集等の頭脳労働だけではない。大手チェーンのカフェで働いたときのこと。最初の仕事は、ドリンクにつけられたアルファベット2、3文字の暗号を記憶し、カップに記入することだ。しかし、職場の「ミスは絶対許さない!」という圧迫する雰囲気に私は追い詰められ、たった30個ほどのその名前を覚えることができなかった。お客さんの前に立つと、オーダーされたドリンク、サイズ、スチームするのはミルクか豆乳か、特別なオーダー等の聞き分けができず、カップに書き入れること、お客さんに対してすることの順番やドリンクの作り方に手違いが起こる。結局、カウンターの中でパニックになった。短い勤務時間に安定剤をいくつか飲む。さらに頭は回らなくなる。ミスは増える。
 
カプチーノは、カフェの基本中の基本だ。エスプレッソと、スチームしたミルクの液体部分と、泡の部分。この三層の割合がきちんと決められている。目盛り通りの割合でつくれているか、たびたびテストがあるのだが、焦る私は一度として目盛り通りのカプチーノがつくれず、カフェを辞めた。
 
そういうことが繰り返されるのは、今の自分が見えていないからだ、とも思う。できないのにやってしまう。だから「こんなはずじゃなかった」と思う羽目になる。その思いはそれ相当のトラウマに近い苦い記憶と傷になり、次第に「できなくなっていく」自分というものが目の前に立ちはだかり、その姿を認めるしかなくなってくる。
 
それは、エスカレーターをワンフロアずつ降りていく感覚に似ている。手すりを持ち、降り立つフロアを見渡す。「ああ、今度はここか……」。がんばってみる。しばらくして、私はまた「こんなはずじゃなかったのに」と小さく呟き、そのフロアを去る。手すりを持ち、ちらとフロアを振り返る。そして思う。私はどこまで降りてゆくのだろう。
 
行き着いた鬱のどん底では、犬の散歩すら「できるだろうか」という問いを自分に繰り返し、毎日苦悶した。なんとかベッドから起き上がり、犬にリードをつけてふらふらと散歩に出る。折り返した帰り道、「あとは、水を取り換えて、フードをお湯で柔らかくして、あげるだけ」という毎日できている簡単なミッションについて、「きょうも本当にできるだろうか、本当にできるだろうか……!?」と不安に取り憑かれる。そして、降りていっている自分を、犬と一緒に歩きながら、感じている。
 
◆  ◆  ◆  ◆  ◆
 
■玉子、産んだんです〜
 
客席の真ん中を通る花道から、夫が帰ってくる。
 
  典子〜、今、帰ったよ。ああ、疲れた。
  あなた、おかえりなさい。お夕飯にする? それとも、お・フ・ロ? ふふふ。
 
と恥ずかしげに体をよじりながら、新妻典子は、なぜか夕食時になってから鶏を追いかけ、つかまえて首をしめ、料理を始めようとしている。
といっても、舞台には何もなく、すべてはパントマイムで行われている。
 
  あ、そうだ。あなた。私、きょう、玉子、産んだんです~。
  ああ、そう。玉子ね、ああ疲れた。ええ〜、玉子〜!!
  ええ、かわいい玉子なんですよ〜、ほら〜。
 
と典子は産んだ玉子を夫に見せる。
 
20年前のことなので記憶が定かではないが、こんな場面がたしかあったと思う。1986年前後、所属する劇団の「コストパフォーマンス」と名付けられた、小道具などを極力使わない芝居に私は典子役で出演していた。私は典子と呼ばれる役を何度かやったが、この典子はごく普通の新妻(死語?)のはずだった。
 
典子は、現実と非現実をつなぐ媒介者
 
大学に入って、私は芝居づけの日々を送っていた。勉強などどこ吹く風だった。それでも3年生になり、美学科演劇学のゼミに入った。当時の演劇学は、能の謡曲やシェイクスピア、近現代の戯曲のテキスト解読が主で、私はとりあえず授業を右から左に聴いていただけだった。なぜだろう。「そんなに言葉が演劇の主体なのかなぁ」と違和感を覚えていたからだと思う。
 
ある日、演劇学概論で高名な先生が言った。「あらすじと物語と芝居。これらはまるで別物ですよ」。あらすじを読んで、物語を読んだつもりになったり、その芝居を観たと思うなかれという内容の一コマの講義を聴き、終わってふと「あたりまえじゃん」と不遜にも思った。だって、少なくとも私も周りの役者も、あらすじだけが観客席に残るような、物語(戯曲)のためだけの芝居なんて、まるでしていないと思ったからだ。
 
在籍する劇団の座長でもある座付作家は、深刻な社会性を帯びたテーマを、全編コミカルなタッチなのに、突然、リリカルなセリフと哀しい場面が浮上する、不思議な台本を書いた。そこには、怪しげでおかしな人間ばかり出てくるし、駅から突然病院に舞台が変わったり、アラビアンナイトの世界が混入したり、なんでもありだった。
 
「これは誰にも書けないなあ」と思うほどおもしろく、その世界が大好きだったけど、一方でその台本を読みながら、私は別のことを考えていた。さあ、どんな芝居をしようかと。実は、自分が演技することと比べ、テーマには小さい意識しか払わないのが役者という生き物だと思う。舞台に出ていって、客の視線をわしづかみにする、「笑わせてなんぼ」がベースにあった。つまり「戯曲をとことん理解し、与えられた役を生き抜き、そのリアリティのある演技で物語を再現する」――なあんて、お行儀のよい芸術的文化的な芝居など、これっぽっちも目指していなかったと思う。なんかそんなの、言葉の奴隷だ、くらいに思っていた。
 
役者である人間が舞台に出て、演技をして体を動かすということが芝居の中心にあり、役はその限定に過ぎないと、今でも思っている。たぶん作者も、この役者を、というか、この変わった、不器用で、すぐ弱気になって、揺らいで、だからおもろい人間たちとどんなふうに芝居をつくろうか、という構えから台本を書いていたのだと思う。当時、私の所属する劇団だけでなく、そういう芝居はたくさんあった。
 
私はそういう芝居の場にいて、役をもらって演じていた。その役はたいてい典子のように少し風変りだった。「お・フ・ロ?ふふふ」と「玉子、産んだんです~」が現実につながることはないのだけど、それがつながると、奇想天外な芝居に転がっていく。観客は、笑いとともに芝居に巻き込まれていく。「人間は玉子を産まない」という常識を逆手にとって、驚きと混乱を生み、観客の常識はいつかおいてきぼりになる。
 
能や歌舞伎の普通ではない言い回しや所作、ミュージカルの「なんで、ここで歌やねん」という突然の歌唱は、常識をおいてきぼりにする世界へと観客を誘う仕掛けだ。観客も、そのことをあらかじめ了解しているか、または観劇の途中で了解する。それらは芝居の最中、一貫して使われる非常識を支える杖となる。
 
では、「お・フ・ロ?ふふふ」と言いながら、「玉子、産んだんです~」をつなげておいいてきぼりを発生させ、観客を常識から非常識へ移行させるのに、私はどんな杖を持っていると作家は考えたのだろう。
 
■体の眼を動かすのは体しかない
 
当時、私は陰で、パラノイア(偏執妄想症)と呼ばれていた。面と向かってこそ言われないが、私がなにか事を起こすたび、みな「やっぱり」「まただ」と胸の内で思っていたように思う。簡単に言えば、思い込みが強いということだ。「これだ!」と瞬間的に思い込んだことに、どこからともなく湧く力によって、私はひた走る。さらに、以前、書いたように、私はずいぶん早口だった。頭のてっぺんから出る高い声で、セリフをまくし立てた。さらに、「これだ!」という脳からの指令が全身に走るからか、体の動きも早口だった。今ならばわかる、ADHDの多動衝動性の賜物である。
 
聞き取れないほど早口の甲高い声に、前のめりな思い込みで吐かれるセリフを聴いて、きっとお客さんは、めくらましされたような気がしたと思う。ただ、実際の芝居は、そうした意表をつくことを取り込むと同時に、観客と一緒に、小さなレンガをひとつずつ積んでいくような作業でもある。そのレンガ積みの最中、たとえば、役者の息づかいが微妙にずれ、互いの呼吸やセリフのテンポが崩れたり、「ここで笑うだろう」と笑いを一瞬待ったりすると、すかさず客席は引いていく。現実に戻ろうとする。
 
ここが、本を読むことと、芝居を観ることの違いのように思う。本はつまらないと思えば、閉じればいい。読まなければいいのだが、芝居はそうはいかない。客席に体が座ってしまっている。このままでは終わらせないという気持ちと疑いの眼が客席から容赦なく放たれる。真剣な一回きりの対峙が待っている。舞台に立っている役者もナマだけど、見ている観客もナマだ。
 
「ナマ」とは、体を持っているという意味で、その体を持つ眼は、頭よりもずっといじわるで、冷めていて厳然としている。めくらましをくらわされ、一瞬、常識をおいてきぼりにしても、「本当は、こんなこと起こらないだろう、現実の暮らしは違うだろう」と、眼はどこかで静かに見守っている。その体を持っている眼を動かすには、言葉ではなく体が必要になってくる。役者がやっていること、役者の体を了解しないと、お客さんは、芝居にどっぷりとは浸かってくれない。
 
その了解のひとつは、定番に美しかったり、手足が長かったり、やたらオーラがあったり、歌や芝居やダンスが上手だったりすることなのかもしれない。けれど、私の劇団の作家はそういうことではあまり芝居を作ろうとはしなかった。素材がなかっただけかもしれないけれど。長けているところではなく、短いところ、アホなところ、弱いところ、笑えるところといった、普通の芝居では乗せないところを乗っけようとした。芝居は自然に、努力して乗り越えて、幸せになる、何かを得る、成長する、輝くなどという物語とはまるで違うものになった。
 
私は芝居が普通にうまくなりたかったけれど、一方で、そういう世間とは倒立した価値観や型通りの物語からはずれた思考が、役を通して体に滲みついたような気もする。そういえば、私の最後の芝居の役は、一日で記憶が消える記憶障害の弟を持つ姉の役だった。奇しくも私には服用してきた薬のせいか、ADHDの特質か、記憶障害のかけらが今は認められるが、その芝居で、私が今ときおり抱く、記憶が足元から消えていくような喪失や焦燥の感情は、さほど語られない。
 
明日の自分のために今日の日記を記し、翌日、昨日の日記から自分を知る弟。姉弟のもとに、ある日、記憶するITロボットを売りつける怪しげなセールスマンがやってきてドタバタ劇を演じるうちに、日記はいつか小説のようになり、ふたりのもとに集まってきたロボットやセールスマンたちの手によって書き変えられていく……。やがて弟は、寄り集まった人々とともに、昨日にとらわれず生きていこうと思ったりして、こんなふうにあらすじを書くのはつくづく野暮なんだけど、つまり、「記憶障害、それがなんやねん」と言っているかのような芝居だったと思う。
 
「それがなんやねん」は、深刻さ・閉塞感・悲愴感を素にしがちな、いわゆる劇的な眼を、「そうなんでも劇的にせんでも」と笑い飛ばしてみる、非・劇的な眼である。うまくもきれいでもイケメンでもない、いわゆる通常の劇からはみ出す役者たちが、通常の劇を笑い飛ばしていた。
 
認知症、高次機能障害、発達障害の症状としての記憶障害。私を含め、障害を負うとか、病気になると、ひとつの眼でその不幸や困りごとを追いがちになる。しかし、どこかで「それがなんやねん」と思えるもうひとつの眼を持てれば、不安や孤独はずいぶん減るはずだ。たしかに、鬱のどん底の状況を、その時点でも私はどこかで人生のネタだと思っていたし、今もそれを書いている。一緒にそういう芝居をしていた夫は、一度として私の病気や障害に対して「大変やなあ」と涙流す、なんてことはしたことがない。そんな感覚を、世間の人がひとりで持つのは難しい。仲間が必要だと思う。
 
◆  ◆  ◆  ◆  ◆
 
■ひとり空回りの日々
 
2017年の夏休み。
 
放課後等デイあおぞら園で、私は芝居のときのようなヘンな動き全開で支援をしていた。突然天から降ってきたような管理者の責任が、私をまた駆り立てていた。鬱時代なのに、躁的脳の動きが突如発動したのである。困ったことに、私には加えてADHDの衝動性と過集中という特質があったので、瞬間移動をする子どもたちとシンクロし、あっちにいたと思ったら、次の瞬間、こっちでも支援していた。他の支援員からしたら、はた迷惑な存在だった。得意の「ひとり空回り」が始まっていたのである。
 
しかし体は、そんな脳についていかない。脳はその疲れた体を省みないし、途中修正しない。そのうち私は、園の隣に置かれた自販機で、ポカリスエットを毎朝2本買うようになった。1本はその場でグビグビ飲み、もう1本を持って園のカギを開ける。外出時には、子どもたちを車に乗せてシートベルトをし、ガチャンとドアを閉め、運転手さんに「ロックしてね、ちょっと待ってて」と言い、ポカリを買いに走る。ポカリなしでは外遊びについていけないと思ったからだ。私は完全にポカリ依存症になっていた。
 
お昼。夏でも、子どもたちの食欲は一向に衰えない。
 
中2のダン君のお弁当は、小さめのおにぎり3個にソーセージやポテトがついている。ダン君は、ダウン症の症状から心臓の手術をしている。背は中2の健常児より小さめで、細い。喃語をときどきしゃべり、いつもは部屋の柱にもたれかかり、伸ばした脚を交差させて、子どもボウリングのピンをゆらゆらさせている。そして、ニヤリとニヒルな笑いを浮かべる。静のひとかと思いきや、瞬間移動の達人で、ふと見ると、いない。支援員の赤木さんの悲鳴が聞こえるほうに走っていくと、ダン君のアートが炸裂している。うんち絵の具の現代絵画である。
 
そういうときは、自分のシンクロ技の未熟さに涙する。ダン君とお風呂場に行き、うんちを洗い流しながら、「もう」とこころで言う。ダン君に私の声が聞こえたのだろうか。ダン君が、ニヒルな笑いをまたも薄い唇にたたえ、達成感を醸し出している。
 
そういうことが起こった日も、私はダン君とお昼ごはんを食べる。ダン君は、噛むということをしないから、おにぎりは飲み込めるサイズにちぎってお皿に置く。手が届くところに置くと、すべてを一瞬のうちに飲み込むので、少し離れたところにおにぎりを置く。ゴクリとおにぎりのかけらを飲み込むダン君の喉の音がする。
 
少し大きかったのだろうか。ダン君が志村けんの「アイーーン」のような手つきで、自分の喉元に手を水平に何度も当てて叩く。そうすると、おにぎりが喉を通る。私はその姿を固唾を飲んで見つめている。飲み込むと、まだひとつも食べていないような顔をして、次のおにぎりを狙うダン君の眼は野獣のようである。いや、インドネシアの密林に生息するという、コモドドラゴンのようである。唇から赤く長い舌を出し、ペロペロ、ペロペロ。そんな想像をすると、自分用の小さなラップおにぎりさえ喉を通らなくなる。私はダン君のお昼が終わると、ポカリをグビグビする。飲みながら、ダン君は、食べて出すことに生きているとつくづく思う。
 
と、二階の中高生の部屋から、ダダダとリョウ君とカイ君が下りてくる。もう昼食が済んだのか。早いなあ、一瞬だ。食い気に絡まれた彼らは、おやつはまだかと言いたげだ。
「おやつはまだだよ。もう少し上にいてね」と返そうとすると、それでもおやつが食べたくて仕方がないらしく、お猿のように私の周りをうろつく。彼らも食べることに生きている。
 
■ポカリ人間、心霊に
 
そういう二人を連れ、カンカン照りではない日に、近くの山に登った。私の体力はギリギリだったが、赤木さんが「登ろう」と強く言った。赤木さんは時々、体育会系のようなそぶりをする。
 
放デイに通う子どもたちは、家から学校、学校から放デイ、放デイからおうちというサイクルで生活しているが、いかんせん、建物のなかに押し込まれがちだ。エアコンの中での暮らしが普通になっている。その日、1時間ほどかけて登った標高160メートルの山頂は、爽やかな風が吹いていた。みんな黙々と歩き、いい汗をかき、危ないことなど何もなく、辿り着いた見晴らし台で写真を撮る。
 
その写真に、心霊が映っていた。誰かと思うと、自分だった。まるで、クリーニング店の鉄製の細いハンガーに、使い古したTシャツの首が、右だけ伸びたまま不格好に吊るされている。そんな漂うような類の生き物に見えた。当たり前である。過酷な支援の日々に、ポカリばかりがぶ飲みした、中身はポカリ人間だったのだから。
 
■劇的でないから劇的な
 
やっと辿り着いた折り返し地点の短いお盆休み。私は扇風機のボタンを足で押すように、水平に拡張しながらグタグタと過ごしたが、気力体力は回復しなかった。
 
夏休み後半の支援。脳はだんだんスローモードでしか作動しなくなり、瞬間移動の術は磨けなくなっていた。多動支援は影を潜め、私はもういっそ、支援しないですむような場所はないかと探り始めていた。行き着いたのは、夏の終わりの海だった。
 
人影もまばらな砂浜に出かけ、子どもたちは靴も靴下も脱ぎ、ズボンをまくって遊ぶ。私は砂浜の岩に腰を下ろした。
 
ASDのリョウ君は、砂浜の砂が足裏に付くのが気持ち悪いので、黒いスニーカーを脱がない。黒いズボンに黒いTシャツ。ズボンに手を入れ、何事かをつぶやきながら波打ち際にたたずむ。なぜか様になっている。遠目にはニキビだらけの高校生には見えないし、お父さんが切る少しザンバラに見える角刈りはどこか高倉健を彷彿させる。
 
ダン君が、また瞬間移動で流木の枝をみつけ、振り回している。なぜか長いものが好きなのだ。
 
小2のカズ君と小3のアキラ君が、遠くに走っていく。追いかける高井さんに仮面ライダーの指差しポーズで「来るな」と対立構造をとるカズ君。好きだな、カズ君はああいうの、と思う。しかし、一緒に走ったアキラ君はその状況に弱腰だ。そのうちすごすごとふたりは高井さんと一緒に帰って来る。
 
サクラちゃんは、砂遊びでいつのまにかドロドロだ。あーあ、園に帰って着替えなくちゃ。
 
と、リョウ君が突然、「バッター鈴木!!」といつもお父さんと聞く野球放送の再演を始める。それを合図に、となりにいたはずのカイ君が立ちあがる。そして、不可解に腰をくねらせながら、左右に足を移動させ、手の平をゆらゆらさせている。
「もしかして、フラダンス?」と誰かが一言呟く。カイ君は何も言わない。
 
ふうん。なんでもいいけど、おもしろいな。
そして、私はまた海を見る。カイ君は踊っている。
不思議なことに、海へ来ると、余計なことは言わなくなる。余計な構いかたはしなくなる。風に一緒に吹かれて、気持ちいいままに、一緒にいる。支援員と子どもたちの境界が揺らぐ。
夕焼けが近くなる。人の影が砂に映り、もう誰が誰でもいいようになる。体だけがある。
 
何も劇的なことはない。
子どもたちは、自分から何かに追われたり、装ったりしない。安易な物語を目指してもいない。きょうのまま明日になり、明日のまま明後日であるように生きている。体のままの子どもたちであると感じる。その体が突き抜けて新鮮に映る。
そのとき、非・劇的である彼らは、私には劇的に映っていた。

(中山求仁子「劇的身体」第201了)

 

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